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ホイホイ記憶術

 多湖輝
まえがき

『ホイホイ勉強術』『スイスイ受験術』を読んでくださった読者の方から、たくさんのお手紙をいただきました。その中には、「おかげで志望校に合格できました」と
いう感謝のお手紙と同時に、勉強についての悩みに関するものも少なくありませんでした。そして、その悩みの中でもっとも多かったのが「記憶」に関するものでし
た。
「いくら時間をかけても、なかなか憶えられない」「憶えてもすぐ忘れてしまう」など、じつに多くの中・高校生の皆さんが、記憶の問題で苦しんでおられるのを知っ
たのです。そういえば、私自身にも苦しい経験があります。旧制中学校時代の私は、化学方程式や数学の公式が憶えられずに、先生からずい分いじめられたものです。
そのあげくは、自分自身の記憶の悪さがほとほといやになってしまい、自分の頭はダメなのだろうかと、自暴自棄になったりもしました。
 そんな私が、まがりなりにも勉強というものに自信をもち始めたのは、中学校も五年生のころ、ある一冊の参考書にめぐりあってからなのです。たしかそれは化学の
参考書だったと思いますが、ふつうの本なら、いきなり難解な中味にはいるものなのに、その本では、まず基本的な勉強のやり方が書かれていたのです。「化学の勉強
を単純な記憶中心のものと考えている人が、ひじょうに多い。しかし、これはまったく誤りであり、化学はあくまで理解を中心とすべきである。基本的な考え方をしっ
かり理解しておきさえすれば、逆に記憶も容易になるはずである。」
 まえがきには、たしかそんなことが書かれていたのですが、それにひかれて読み進んでいくうちに、私はしだいにこの本のとりこになっていったのです。それまで
は、意味もよくわからないまま、頭からまる暗記するしか手がないと思っていた分子式や化学方程式が、イオン化傾向の説明などを加えて、巧みに説き明かされていき
ます。私は、まるで推理小説を読むような思いで、ページを繰っていくうちに、いつのまにか、化学という学問に対する考え方が根本から変わっているのに気がついた
のです。おもしろいもので、こうして、きらいでたまらなかった化学の勉強が楽しくなると、それにつれてほかの科目の勉強も楽しくなってきました。
 しかし、心理学を学んでいる現在の私から考えてみると、この参考書はごくあたりまえのことを、ごく自然に説いていたに過ぎないのです。「ものごとを正しく理解
することが、記憶を確実なものとする」ということは、心理学的にみれば、記憶の中心的な原理なのです。そんなことも知らずに、若さにまかせてやみくもにまる暗記
しようとしていた私の中学時代の勉強態度は、いかに非科学的・非能率的なものであったか、今にして思い知らされるような気がします。
 そんなわけで私は『勉強術』『受験術』の二冊に続いて、後輩のみなさんに「記憶術」の本をおくることにしました。『ホイホイ記憶術』と題したのは、やはりこの
本全体を通じて、とかく無味乾燥に陥りやすい記憶や暗記作業を、楽しくしかも能率的にやっていただきたいという願いをこめているからです。
 ただ、ここでお断わりしておかなければならないのは、「楽しく」というのと「楽に」というのは意味が違うということです。私の言いたいのは、どうせ同じ時間を
かけるのなら、こんなやり方をしたほうが記憶の能率はアップしますよ、そして確実なものとなりますよ、ということなのです。
 そんな考えから、私はこの本の内容を、「基本原理」「速憶術」「多憶術」「確憶術」という四つのテーマに分類してみました。第一章では、「基本原理」として、
〝ホイホイ記憶術〟の全体を支える、心理学にのっとった科学的な法則を紹介したものです。もちろん、それから読み始めることが望ましいのですが、時間のない人や
とにかく記憶術の実際を早く知りたいという人は、第二章から読み始めていっても、かまいません。第二章の「速憶術」は、短時間でさっと憶える方法、第三章の「多
憶術」は、大量のものを手間をかけずに憶える方法、そして最後の「確憶術」では、憶えた知識をフレッシュに保ち、思い出す方法をそれぞれ紹介していきます。これ
らを合わせて、「より速く、より多く、より確実に」という記憶術のエッセンスを備えた、実戦的なテクニックがあなたのものになるでしょう。
 この本が、私のかつてめぐりあったあの化学の参考書のように、みなさんの勉強に対する考え方を大きく変えるものとなってくれれば、これにまさる幸せはありませ
ん。
 みなさんのご健闘を祈ります。

昭和五十一年七月一日
た ご あきら
多湖 輝
目  次

まえがき

 あなたの記憶力は倍増できる

 〈この章のはじめに〉

1 「憶えられる」と自分に言い聞かせると、記憶力は増す。

2 「興味」は、記憶のための〝食欲増進剤〟である。

3 感動の伴った記憶は、忘れにくい。

4 憶えようと思わなければ、憶えられない。

5 記憶しようとするものに意識を集中させると、記憶像は明確になる。

6 憶えたいことを分類・整理することが、記憶の第一歩である。

7 年齢によって、記憶に適した方法がある。

8 記憶する順序は、自分の頭のリズムに合わせる。

9 記憶は使うことによって、より確実になる。

 憶えたいものの特徴をこまかく観察することが、そのまま記憶につながる。

 すでに知っているものと結びついた記憶は、確実なものになる。

 類似したものは、まず異同を明確にすると記憶しやすい。

 関連事項をカタマリとして憶えると、単独で憶えるより記憶しやすい。

 中途半端に納得したものは、記憶されにくい。

 まる暗記より「理解」することが、記憶の近道である。

 不要な記憶は、不要なだけでなく必要な記憶の妨げになる。

 メモでまにあうものは、記憶しないようにする。

 記憶術を考えること自体が、記憶力の倍増につながる。

 知識相互間のネットワークが確立していると、記憶した知識が有効に働く。

 確実な核が一つあれば、記憶は雪ダルマ式に増える。

 科学的な記憶法で憶えれば、長時間たっても忘れない。
 一夜づけでもOKの〝速憶術〟

 〈この章のはじめに〉

 アクビ・背伸びは、記憶を促進する。

 「書く」ことは、頭だけでなく手にも記憶させられる。

 身体の動きに合わせて、リズムで憶える。

 声を出して読み、口に憶えさせる。

 憶えたくないときは、憶えるための準備をする。

 まず重要事項だけ選んで憶え、軸をつくるとよい。

 重要なことは、赤く大きい字で書きなおすと印象に残る。

 満員電車やバスの中は、絶好の暗記場所である。

 自分の頭がさえる時間を知っておくと、集中的に憶えられる。

 空腹時・食事直後は、記憶力がにぶる。

 重要なものは、勉強時間の最初と最後に憶えるようにする。

 複雑なものは、箇条書きにすると憶えやすい。

 一度に全部憶えようとせず、分けて憶えた方が能率的である。

 制限時間を決めて憶えると、集中力が高まる。

 ぶっ続けで憶えるよりも、すこし間を置いて休みながらやるほうが効果的である。

 同時にたくさん憶えなければならないときには、まず憶えやすいものから憶える。

 気を散らせる原因は、記憶促進の手段にしてしまう。

 暗記の際は、机の上に余分なものを置かないようにする。

 クラシック音楽を聴きながら憶えると、意識の拡散を防げる。

 徹夜するよりは、すこしでも眠ったほうが記憶は保持できる。

 自分の趣味や関心事と結びつけておくと、憶えやすい。

 英英辞典を使うと、英語特有の言いまわしを早く憶えられる。
 あまり長時間続けると、記憶の能率は著しく落ちる。

 最初ノロノロあとドンドンが、記憶のコツ。

 学習初期に犯す間違いは、繰返さずに休みをとって流れを変える。

 テストの問題を予想しながら憶えると、頭にはいりやすい。

 頭にはいらなくなったら、机から離れてみる。

 ときには要求水準を下げることが、記憶を促す。

 慣れ親しんだものを身のまわりに置くと、記憶の出入りがスムーズになる。

 苦労して解いたものは、一発で憶えられる。

 一夜づけでも、朝、ポイントに目を通せば記憶が倍増する。

 ノートの量は少ないほど、全体の記憶に役立つ。

 あらゆる知識も一網打尽の〝多憶術〟

 〈この章のはじめに〉

 楽しいことに結びつけて憶えるかぎり、記憶に限度はない。

 タテ・ヨコの関係をはっきりさせると、記憶は一挙に倍増する。

 順序を憶えるときは、不変の順序をもったものと対照して憶えるとよい。

 憶えたい言葉を散りばめたストーリーを創作すれば、一気に憶えられる。

 接続詞に注意すると、歴史の流れが憶えやすい。

 歴史上の人物は、身近な人と結びつけると憶えやすい。

 類似した漢字は、五七調の短文をつくって憶える。

 頭文字を並べて、意味のある言葉・文章をつくって憶える。

 暗誦は、読む時間の四倍ぐらいをあてたときもっとも効果が出る。

 憶えたいものとかけはなれた連想ほど、印象に残りやすい。

 「一歩後退、二歩前進」で憶えると、確実に早く憶えられる。

 新しい部分を既習の部分につぎ足す「直接反復法」も、記憶を正確にする。
 数字も、それに意味をもたせると憶えやすくなる。

 憶える内容の正確さをチェックしてはじめて、記憶は増える。

 試験で間違えた箇所こそ、記憶するチャンスである。

 伝記や歴史小説によって、エピソードを知っておくと、歴史は楽に記憶できる。

 自分の発想法にフィットした参考書を見つけると、憶えやすい。

 図表化すると、全体がひとまとめに憶えられる。

 むずかしい法則も、ナマの現実と関連づけておくと憶えやすい。

 カードは並べかえて使うと、効果的である。

 歴史は劇画ふうに構成してみると、楽しく憶えられる。

 教科書にトレーシング・ペーパーをかぶせ、重要語句を塗りつぶして反復するとよい。

 言葉を心のなかで繰返しながら書くと、はっきり憶えられる。

 暗誦などは、全体をひとまとめにして憶えたほうがよい。

 教科書・参考書は、最低三回読むようにすると記憶の定着度は強くなる。

 ど忘れしたときには、全体の「形」を思い浮かべるようにする。

 部屋中にメモを貼りつけて、その場所、位置を憶えておくと思い出しやすい。

 関連事項は、大きな紙に図示すると思い出しやすい。

 テープレコーダーに自分の声を吹き込んでおくと、頭に残りやすい。

 「風が吹くと桶屋がもうかる」式に憶えると、忘れにくい。

 いつも新鮮、すぐに思い出せる〝確憶術〟

 〈この章のはじめに〉

 英作文や古文などは、〝逆方向〟で憶えると、より確実になる。

 忘れたことを思い出すには、それが書いてあった本やノートのページを思い出してみる。

 眼をつぶりながら憶えると、記憶が定着しやすい。

 憶えたことを人に教えると、記憶はいっそう強化される。
 トイレや風呂に、きまった本を一冊おいておくのもよい。

 電車の中で憶えるときには、一区切りごとに窓外の景色に目をやると思い出しやすい。

 反復した回数を記録しておくと、記憶は強化される。

 友人との会話の中で知識を確かめあうと、記憶が定着する。

 日本語の中に憶えたい英単語をもちこんで使ってみると、記憶は確実になる。

 記憶の難易度を一定の色で区別すると、復習しやすい。

 とり違えやすい固有名詞は、「ところ変われば品変わる」の原則を適用する。

 ど忘れしたときは、そのものズバリを思い出そうとしないほうがいい。

 一冊のノートを多科目に使い分けると、記憶のためのエネルギーが長もちする。

 「憶えた」と思ったことも、安心せずもう三回繰返す。

 新しい言葉・専門用語などは、日常用語に組みこんで使うと憶えやすい。

 夜中に目を覚まして眠れないときは、記憶強化に利用する。

00 中途半端に「できた」と思うより、「できない」と思ったほうが記憶にとどまる。

01 よく間違えるものは、わざと間違えることで是正される。

02 復習するときは、憶えたときの順序を変えてみる。

03 長時間同じものを記憶するときは、軽く休憩をとると能率がアップする。

04 一度憶えたことは、つねに頭の中で自問自答してみる。

05 十日後の一時間の復習より、九時間以内の十分間の復習のほうが記憶を定着させやすい。

06 同じ内容でも、異なった形式で繰返すと記憶はより確実になる。

07 参考書の目次は、バラバラの記憶を体系づけて定着させるのに役立つ。

08 試験で間違えたところは、かならず記録にとどめておく。

09 索引は、絶好の〝記憶チェック・リスト〟になる。

10 何本かの〝連想の鎖〟の交点を求めると、忘れていた記憶がよみがえる。

11 ど忘れしたときは、五十音を順番につぶやいてみる。
12 いざとなったら、頭をたたいてみるのも手である。

13 雑音・騒音も、思い出すキッカケとすることができる。

14 記憶術のための記憶術は、かえって害になる。
 あなたの記憶力は倍増できる
〈この章のはじめに〉

 世の中には、人間に生まれつき頭のよしあしがあるように、記憶力のよしあしも生まれつきだと悲観し、勉強も投げやりにしている人が意外に多いのではないでしょ
うか。しかし、私の結論から申しあげれば、記憶力のよしあしはけっして生まれつきのものではなく、悲観する必要などさらさらありません。
 こう言うとかならず、「友だちが苦もなく憶えてしまう英単語を、私はいつまでたっても憶えられない」という反論が返ってきます。それが、人によって記憶力によ
しあしがある証拠だというのですが、私に言わせれば、それすらも記憶力そのものによしあしがある証明にはなりません。現に、記憶力の悪さを嘆く人でも、外国人が
何年かかってもマスターできない日本語を、らくらくと話し、書いているではありませんか。もしあなたが、自分は記憶力が悪いと信じているとしたら、あなたはどの
ようにして、この難解な日本語を、いともやすやすと記憶することができたのでしょうか。
 おそらくあなたは、自分でも気がつかずに、きわめて合理的で、しかも科学的な「記憶術」によって日本語をマスターしたにちがいありません。その方法を解明し、
身につけさえすれば、あなたはもはや、記憶力の不足を嘆く必要はなくなるはずです。
 記憶には、記憶の法則があります。その基本法則を十分身につけたうえでものごとを憶えれば、勉強の能率もあがるし、あとあとまで、忘れずに頭の中にしっかりと
根をおろすような形で刻みこまれますから、成績もぐんぐん上昇してきます。その記憶法則の基本を第一章でお話しようというわけです。当然のことかもしれません
が、私たちは知らずしらずのうちに、〝ホイホイ記憶術〟の原理を使い、具体的な方法を実践することによって、苦労することなく日本語を憶えてきたことになるので
す。
 だとすれば、これほどすばらしい記憶術を、勉強に応用しない手はありません。おそらく第一章を読み進んでいくうちに、〝ホイホイ記憶術〟の原理の一つひとつ
が、私たちが日本語を憶えていった過程とたいへんよく似ていることに気づくでしょう。もちろん、現在の段階では、私たちは記憶に関するメカニズムを十分に解明し
つくしているわけではありません。生理学的にも心理学的にも、これから解明されなければならない分野がたくさん残されています。しかし、これからお話しする記憶
術を実践の場で、意図的に取り入れれば、勉強の能率は、二倍にも三倍にも上がることは確かです。この第一章でご紹介する方法のどれかを実行することによって、あ
なたは記憶力が生まれつきのものでないことを、身をもって知ることでしょう。

1 「憶えられる」と自分に言い聞かせると、記憶力は増す。

「私は記憶力が悪いから」と言う人がよくいます。そう言う人に、「なぜ、そう思うんですか」とたずねると、「いや、数字に弱くて、電話番号なんかまるでダメなん
です」とか、「人の名まえと顔が一致しなくって」とか、千差万別の答が返ってきます。
 もちろん、数字に弱いから記憶力が悪いということにはなりませんし、名まえが憶えられなくても、記憶能力が低いとは言えません。人間は生まれつき、数、文章、
名まえなどの「直接記憶」では、個人間で差異があるもので、その一つが強くても、すべてに強いというわけではありません。逆に、一つに弱くても、まるでダメとは
言えないのです。
 その差異は訓練によって、どうにでもなるものです。私は、英単語に弱かった高校生が思い悩んだ末に、単語をワラ半紙に大書して、一つ憶えるごとに「ぼくは憶え
たぞ!」と叫びながら、その半紙を紙飛行機に折って、二階の勉強部屋から飛ばした例を知っています。隣家の庭に紙飛行機が何機も飛来して、苦情が出ましたが、そ
れでも、彼の単語力は飛躍的に増大したそうです。
 記憶にとってもっともたいせつなことは、記憶できるのだと自信をもつことです。自信がないと、脳細胞の活動に抑制がかかり、細胞活動が低下して、記憶力が鈍く
なることは生理学でも証明されています。これを心理学では、「抑制効果」と呼んでいますが、自信がない→脳活動が抑えられる→憶えられない→自信がさらになくな
る、という悪循環におちいっていくわけです。
 まず自信をもつことによって、これを〝良循環〟に変えていくのが、記憶術の出発点になります。考えてもみてください。子どものころに憶えた童謡は、労せずし
て、口をついて出てくるでしょう。友人や知人の名まえは、忘れようとしても忘れられません。電話番号を、どうしても憶えられないという人でも、自分の家や親しい
友だち、またガールフレンドの電話番号は、いやでも憶えているはずです。「憶えられる」と決めこんでいるから、それらは、何の抵抗もなく記憶にとどめられている
と言えましょう。
 もちろん、「自信」ばかりが先行しても、努力をしなければ記憶力がよくなるわけはありません。どもりに悩んでいたデモステネスがギリシア一の大雄弁家となった
のは、あまりにも有名な話ですが、彼とて、自信のうえに、人に数倍する努力を積み重ねたからこそ、そこまでなれたのだと言えるのです。しかし、その努力も科学的
な方法にのっとっていなければ、水の泡となってしまうことも確かです。この本を読んで、あなたに自信がモリモリと湧いてきたら、記憶術の半分はもうきわめた、と
言えるのです。

アペタイザー
2 「興味」は、記憶のための〝食欲増進剤〟である。

 どんなに数字に弱いという人でも、マージャンが好きなら、点数の数え方はすぐ憶えてしまいます。〝名まえコンプレックス〟という人が、テレビ・タレントの名ま
えを即座に口にするのも、けっして珍しいことではありません。英単語を憶えられないと悩んでいるはずの人が、ビートルズの曲の詞を、原語でスラスラと言ってのけ
たりすることさえあります。
 人は、興味や関心のあることは、難なく憶えてしまうものなのです。小学生は、学校へ行く途中の店の名まえをすべて憶えていたりします。これは、脳が若々しく活
動しているということもありますが、それ以上に、彼らが好奇心に満ちあふれているからです。これとは逆に、サラリーマンが通勤電車からの風景をまるで憶えていな
いのは、興味をもって眺めていないからでしょう。老人の記憶力が低下するのは、人生に対して興味を失ってくるからだとも言われています。
 憶えるには、興味をかきたてることが先決です。私がアメリカで見学してきた「オープン・プラン・スクール」の小学校では、学年制を廃して教室の壁を移動可能に
し、さらに机までも追放したところもあります。そして、子どもが自分でプランをたてて勉強するシステムを導入した結果、子どもたちは、興味のあるものを自分に
あった方法で勉強しはじめ、理解力と同時に、記憶力もグンと高まったそうです。
 私がアメリカに留学したとき、日本にいるときは英語にまったく興味のなかった妻が、生活上の必要から英語学校に通いはじめました。すると、その学校がおもしろ
くなって、英語に興味をもちはじめ、いまでは一通り話せるまでになっています。
 興味が記憶の源泉だとは言うものの、「嫌いな科目に興味をもつ」ということに困難を感じる人も多いことでしょう。しかし、興味がない、おもしろくない、嫌いだ
という原因は、意外とつまらないところにある場合が少なくないのです。そんなときは、その科目を担当している先生のところに相談しに行くのがいいでしょう。とい
うのは、その科目を担当している先生は、それを一生の仕事にしているのですから、自分を引きつけて離さないなにかを感じているはずだからです。話の中で、いまま
で自分の気がつかなかった、意外なおもしろさや魅力を発見でき、それが興味につながることもあると思います。
アペタイザー
 こうして、ちょっとした興味を抱くと、それが食事のまえの〝食欲増進剤〟のような働きをし、食欲ならぬ知識欲をモリモリと駆り立てるというわけです。ちょっと
したきっかけでつかんだひとつの興味が突破口になって、「好きこそものの上手なれ」の格言にもあるように、砂が水を吸い込むように、知識を吸収し、記憶量を高め
ていくのです。

3 感動の伴った記憶は、忘れにくい。

 昔見た映画で、ストーリーはすっかり忘れてしまったのに、ある一シーンだけ憶えていることがよくあります。私の場合で言えば、かつて上映された『スミス氏都へ
行く』というアメリカ映画がそのいい例です。スミスという青年が国会議員になる話だったぐらいしか憶えていないのですが、そのなかで、彼のことをトップ記事にし
た新聞を刷る輪転機が、すさまじい速さで回転して、新聞を刷り出していく光景だけは、今でも奇妙に記憶のなかに焼きついています。当時の私は、新聞を印刷する装
置のことをまだ知らず、輪転機というものを初めて見た驚きと感動とが、鮮明な記憶をつくりだしたのでしょう。
 記憶作用は、脳の働きに強い関係をもっています。人間の脳には旧脳と新脳とがあり、発生学的には、旧脳のほうが先に形成され、睡眠などの生命維持に不可欠な機
能を分担し、新脳はより理性的な意識活動を担当しています。エモーショナルな感動を伴った記憶が忘れにくいのは、それが新脳を突き抜けて旧脳に及び、生命的によ
り深い本能と結びついたために、長期間固着し、単なる記憶が消えた後にもなお残存しているからかもしれません。
 また、心の底から感動することはそれほどたびたびあるものではありません。ごくまれな体験であるために目立ち、忘れにくいということもあります。いくつかの同
ぎょう り
じようなものが並列していて、なかにひとつだけまるで異質のものがはさまっていると、それだけが他と分離して目立つことを、心理学では 凝 離効果と呼びますが、
感動は凝離効果をつくりだして、記憶しやすくする効用があるわけです。
 このように、憶えたいことを〝感動化〟してみるのも、記憶法の基本の一つです。幾何の問題を解く場合でも、無感情な図形だなどと考えたりしないで、その幾何図
形の美しさに心をとめ、その図形が光を放ったり、極彩色に塗られた光景を想像しながら解答をつくると、その解き方は、図形の美しさから受ける感動とともに、長く
記憶にとどめることができるでしょう。

4 憶えようと思わなければ、憶えられない。

 私が大学で教べんをとっていて、いちばん苦手としているのは、学生の名まえを憶えることです。一般教養のときだけ私の講義を聴いたかれらの一人が、後になって
「先生。私は、ほら、昭和四十五年の心理学の授業で、いつも窓際に坐っていた……」などとヒントを与えられても、まるで記憶になく、相手を落胆させてしまうこと
もしばしばあります。ところが、ゼミの学生の名まえだけは何の苦もなく憶えているのです。
 というのも、ゼミの場合は自分に「憶えなくてはいけない」と言い聞かせ、憶えようと懸命に意図するからでしょう。意図とは、ある方向に向けられた心的緊張の状
態のことですが、緊張感に裏打ちされてこそ、記憶が促されるのです。
 アメリカでベストセラーになった『メモリー・ブック』(邦訳名『驚異の記憶術』)の共著者の一人ハリー・ロレインは、子どものとき、学校でテストがあるたびに
テンション インテンション メモリー
胃が痛くなり、「なんとかしなくては」と考えたのが、記憶術に興味をもったきっかけだと言われます。〝 緊張 〟が〝 意図 〟を生み、それが〝 記憶 〟につなが
るというわけです。憶えたいことは、ただ漫然と憶えるのではなく、「憶えなくては」と心に呼びかけて憶えることが、容易に忘れない秘訣の一つです。

5 記憶しようとするものに、意識を集中させると記憶像は明確になる。

 私の友人に、東京都内に講演に出かけるときには、講演場の近くまで、できるだけ地下鉄を利用する人がいます。彼によれば、地下鉄は外の景色がまるで見えないの
で、車内で講演内容の〝おさらい〟をするのに最適だというのです。おそらく、記憶しようとすることに意識を集中できるからでしょう。
 心理学では、意識のひろがりを意識野と呼び、よく舞台にたとえます。周囲に行くにしたがって暗くなっていく舞台の中で一点だけ、演技者のいる位置にスポットラ
イトが当たっています。意識野のなかでも、このように、意識がとくにはっきりしている部分を「意識の焦点」と言います。この「意識の焦点」に記憶したいものを合
わせると、記憶の痕跡として残りやすくなるとされています。先の例で言えば、地下鉄は物理的にも周囲から隔絶された空間なので、意識が集中しやすく、「焦点」を
つくるのが容易になり、記憶が鮮明になるというわけです。
 試験勉強などでも、各種の夾雑物のなかで、憶えたいものにポイントをしぼって、意識を集中し、スポットライトでも浴びせるように、そこに焦点を結ぶことがたい
せつです。こうして、スキーのシュプールのような鮮烈な線を、記憶痕跡として残せば、まず忘れることはありません。

6 憶えたいことを分類・整理することが、記憶の第一歩である。

 たとえば、つぎの十語を記憶するとしましょう。イヌ、帽子、ネコ、柱時計、テーブル、たんす、眼鏡、インコ、クツ、指輪。もちろん、頭からそのまま暗記する方
法もありますが、より憶えやすくするには、これらのことばを分類・整理してみることです。動物=イヌ、ネコ、インコ。身につけるもの=帽子、眼鏡、クツ、指輪。
家のなかにあるもの=柱時計、テーブル、たんす。こうしておいて、各カテゴリーごとに憶えると、はるかに速く、正確に憶えることができます。これはなぜでしょう
か。
 人間の頭は、たんすと同じようなもので、いくつかのひきだしがついています。そして、外からの情報が適切なひきだしに入れられると、より長く、しかも正確に保
存されます。このひきだしは、心理学では関係枠(フレーム・オヴ・レファレンス)と名づけられていますが、どんな情報も適切なひき出しに入れられてこそ、自由に
ひっぱり出す、つまり思い出しやすくなるのです。
 メンデルスゾーンは、十七歳のときベートーベンの交響曲第九番の初演を聴きに行って、コンサートから帰ってくるなり、全曲を楽譜に書いてみんなを驚かせたそう
です。「第九」はいまでは、かなりの人が知っていますが、初演で楽譜に書いたというのですから、人びとがびっくりするのは当然でしょう。
 おそらく、メンデルスゾーンの頭の中には、きちんとしたフレームができていて、その中に、音が厳密に分けて入れられていったのに違いありません。だからこそ、
同じ音楽を聴いても、雑なフレームの人とは比べものにならないほど、正確に保存され、また思い出されたのです。
 記憶のいい人とは、このフレームの整理が行き届いている人のことで、記憶の悪い人は、ひとつひとつのひきだしに雑多なものが勝手に押しこめられているのです。
この整理ができれば、記憶は完了したも同然です。日ごろから、分類して憶えるように心がけていると、しだいに、ひきだし(フレーム)が整えられ、出し入れ自由と
いうことになっていきます。

7 年齢によって、記憶に適した方法がある。

 小学生が掛け算を憶えるときには、ニニンがシ、ニサンがロク……と、機械的に憶えても、スーッと記憶のなかにはいっていきます。しかし同じ方法を、高校生が化
学方程式の暗記に利用するのは誤りです。人は、年齢によって記憶の仕方が違うのですから、年齢に合った記憶の方法を取入れるのが合理的な記憶法です。
 ある学者の研究によると、男は十三歳、女は十一歳になると、機械的な記憶が減り、構造的な記憶(意味や論理をふまえた記憶)がそれに代りはじめる、とされてい
ます。つまり、中・高校生では、まる暗記より、内容を理解したうえで憶えたほうが、その年齢の記憶パターンに合致している、ということになります。化学方程式を
憶える場合にも、その方程式ができるプロセスのほうから憶えていったほうが、はるかに合理的なのです。また、年齢が上がるにつれて、聴覚優位から視覚優位になり
ます。小学校の中、高学年を境にして、人間は、視覚的に憶えるほうが、憶えやすくなってきます。先のニニンがシ……は、この意味でも、小学校低学年までの〝聴覚
優位時代〟の憶え方なのです。
 大学の講義や講演のときに、テープレコーダーをもってくる人をよく見かけますが、これは、記憶にとって非能率このうえありません。録音を再生するのに手間がか
かるだけでなく、聴覚だけに頼ることになり、話し手の表情や身ぶり、黒板に書かれた図などを無視しているからです。それよりも、話に耳を傾けながら、ただメモを
とるだけでなく、わかりやすい絵や図、表に置きかえていく作業をするほうが、記憶を促進するはずです。年齢を経るにつれて、聞いて記憶するという単純な方法では
なく、内容を理解し、視覚情報を動員してわかりやすく組立てなおしてから記憶するほうが、合理的なわけです。
8 記憶する順序は、自分の頭のリズムに合わせる。

 記憶するとき、何から憶えていけばよいのかということに無関心な人が多く、自分の頭の状態に合わない憶え方をしている人を見かけます。その結果、「どうもよく
頭にはいらない」と嘆いているのですが、人間の精神状態は、けっして平坦ではありません。好調なこともあれば、不調なこともあります。それが記憶に微妙な影響を
及ぼしているのです。
 たとえば、自分の頭のリズムが好調なときには、その勢いを利用し、難しいものからはじめ、だんだんやさしいものに移っていくという方法が考えられます。不調の
ときは逆に、やさしいものからはじめたり、楽しいものを先頭にもってきたりして、ウォーミング・アップに気をつかわねばなりません。頭のリズムによって優先順位
を決め、しかも飽きがこないように、憶える内容に変化をつけながら、悪く言えば、自分の頭をだましだまし憶えていくことが必要なのです。
 私は、何か原稿を書くときに、資料を集めつくしてからそれを読み始めますが、読むまえに、順位をつけることにしています。私自身の考え方に近い資料から読みは
じめ、構想を固めながら、違う考え方の資料に移り、両者をつき合わせてさらに考え、最終的にどう書くかを決めるのです。

9 記憶は使うことによって、より確実になる。

 数学の教師が、じつに手ぎわよく、黒板の上に難解な問題を解いては消し、また新しい問題を、まるで手品の種を明かすようにスラスラ解いていくといった光景は、
予備校などへ行くとしばしば見られます。予備校の先生には失礼にあたるかもしれませんが、数学に対する「力」と同時に、記憶にかなり助けられているように思われ
ます。毎年受験生を相手にし、同じ範囲から問題がつくられるわけですから、似た問題にならないわけにはいきません。「こんな問題なら、この解法」という具合に、
頭のなかに即座に浮かんでくるのではないでしょうか。
 記憶をたえずフレッシュに保つには、このように、いつも使っていることが不可欠の条件です。記憶は、財布の中のお金や貯水槽の水と違って、使えばそれだけ減る
というものではありません。それどころか、使うことによって、つねに記憶の内容がチェックされ、不完全な記憶は補強されて、いつでも必要に応じて引き出せるよう
な臨戦体制が整えられるのです。ですから、あなたも、一度憶えた知識は、お蔵の中に温存しないで、おりにふれて使ってみることです。先生の「力」に感心するのは
結構ですが、その秘密が繰返し使うことにあることを知れば、自分にもその「力」をつけるのは不可能でないとわかってくるでしょう。

 憶えたいものの特徴をこまかく観察することが、そのまま記憶につながる。

 参考書を読んでいて、ふと気づくと、まるで見知らぬページが眼前に展開しているかのような思いをすることが、ときどきあるでしょう。あわてて、ページをめくり
戻してみると、知らぬまに数ページも進んではいるのですが、その数ページの内容をまるで記憶していないのです。
 これは、いわゆる「放心」という心理状態で、記憶にとって、「放心」ほど危険なものはありません。「放心」とは、眼は対象を見ているのに、心は何も見ていない
ことで、これでは見ているものが記憶にとどまるはずがありません。「放心」ほどひどくなくても、ただ漫然と見ているだけでは憶えられないのです。もし、憶えよう
という気があるのなら、対象を心で見ること、つまり、こまかく観察し、その特徴をつかんでおく必要があります。
 ある小学校の先生が、生徒に金魚について教えようと思って、机の上に金魚のはいった水槽を置きました。生徒は、くる日もくる日も、この金魚を見て暮らしまし
た。そしてある日、先生は、水槽に布をかぶせて、生徒に金魚が見えないようにし、全員に金魚の絵を描かせました。ところが、金魚を正しく描けた者はひとりもいな
かったのです。眼球やエラ、背ビレといった各特徴の相互関係がメチャクチャだったのです。つまり、生徒たちは、毎日金魚を見ていながら、じつは何も観察していな
かったのです。もしこの先生が、どこをどう見ればいいかを教えていれば、生徒たちはもっと正確に描けたはずです。
 教科書や参考書も同じことで、漠然と読んでいても、後で正しく再生することはできません。まず特徴を拾いあげ、それをこまかく理解し、関係づける作業をしなけ
ればなりません。それは、画家が対象に眼をこらすのと同じ理くつです。
 観察が不十分だと、後でいかに思い出そうとしても、枝葉末節ばかりが浮かんできて、肝心の点は、さっぱり思い出せません。試験場で汗を流しながら、必死に記憶
をたどってみても、出てきたのが、役にも立たない小物ばかりでは、泣いても泣ききれないでしょう。

 すでに知っているものと結びついた記憶は、確実なものになる。

 いま、「スウェーデンの形を思い出してください。あるいは、南アフリカ共和国の形はどうでしょうか」と言われても、おそらくあなたはさっぱり思い出せないに違
いありません。これとは逆に、イタリアの形は、すぐに思い出せるはずです。それはもちろん、イタリアが長靴の形によく似ているからです。イタリアの形という新し
い情報は、長靴という既知の情報に結びつけられて、確固として記憶に定着するのです。
 記憶とは、バラバラに存在するものではありません。建築と同じで、基礎から積上げていくものです。赤ん坊のときから習得・復習してきた〝基礎情報〟に、新しい
情報をうまく根づかせることが、そのまま記憶の増進になります。心理学では、これをアンカリング(イカリを下ろすこと)と名づけますが、実際、私たちは、アンカ
リングを無意識のうちにやっています。
 このアンカリング・ポイントが、人間の感覚や頭脳にとっていかにたいせつなものであるのかは、たとえば、視知覚の世界でアンカリング・ポイントが失われたとき
に、物の見え方がたいへん不安定になることでもわかります。このことを端的に示すのが、心理学の実験として有名な、自動運動という現象です。
 実験はいたって簡単で、まず、懐中電灯に小さな穴のあいた黒い紙をかぶせてから固定し、光の小さな点が眼に見えるようにしておきます。こうして、まっくら闇の
中で眼を慣らしておいてから、しばらくこの光の点を見ていると、その点は固定されているにもかかわらず、しだいに動いているかのように見えてきます。これは、光
が暗闇のなかで、他との関係が不明確であるために、人間の感覚では、その位置が確定できなくなるからです。
 記憶も同じことで、すでに自分の知っている知識にアンカリング・ポイントを求めるようにします。そしてそれを手がかりにすることによって、新しい知識を記憶の
中に固定することができるのです。

 類似したものは、まず異同を明確にすると記憶しやすい。

 東京の新宿に「ジャックの豆の木」というバーがありますが、一度でもこの名まえを聞くと、不思議に忘れられません。これは、童話の『ジャックと豆の木』と一字
ちがいで、そのことが、記憶を鮮明にするのに役立っているのに違いありません。「ジャックの豆の木」は「ジャックと豆の木」とほとんど同じであること、それにも
かかわらず、一字だけ異なるということが明確な対比を示しているので、両者を区別して憶えられるのです。このように、似たもの同士は、その異同を明確にすると、
記憶に残りやすくなるわけです。
くろ だ きよてる くろ だ きよたか
 日本史でも、たとえば、 黒 田 清 輝 と 黒 田 清 隆 という類似した人名が登場します。いずれも明治時代の人で、前者は洋画壇の草分け、後者は明治の元勲のひとりで
す。このまま憶えると、意識のなかで混同される恐れが十分にあります。しかし、〝輝〟と〝隆〟の差異に焦点をあてて憶えれば、記憶のなかではっきりした差がつい
てくるはずです。
 コンピューターの操作でも、似た情報は、その落差を明確にすることが重要なこととされていますが、人間のコンピューターである脳を、さらに精密な記憶装置に仕
上げていくためにも、この作業は肝要なのです。

 関連事項をカタマリとして憶えると、単独で憶えるより記憶しやすい。

 昔の小学校の先生は、卒業生のことをじつによく憶えていたものです。生徒の名まえと家族構成、それにどんな家に住んでいたかまで憶えている先生がいて、驚かさ
れたことがあります。三十年後に再会した教え子に、「そういえば、きみには二つ年下の弟がいたね。あのころ十歳だったから、もう四十歳か」と、なつかしそうに話
しかけている光景を見たこともあります。これは、昔の先生が、生徒の一人一人と丹念な接触をもち、彼らのすべてを知りつくしていたからでしょうが、記憶という観
点からも、一つのおもしろい教訓を含んでいます。つまり、記憶というものは、単独に憶えるよりも、関連事項とひとまとめで憶えたほうが、憶えやすくもあり、長く
憶えてもいられることを示しているのです。
 英語の単語を憶える際にも、この原則をあてはめることができます。poor(貧しい)という単語を、単独に憶えるのでなく、関連語と一緒に憶えるのです。名詞形の
poverty(貧困)、反意語のrich(富んだ)、さらには、The scholar was very poor.(あの学者は、とても貧乏だった)まで記憶すると、数語の単語と一つのセンテンス
を、同時に憶えられるだけでなく、当初の目的であるpoor自体の記憶も、単独に憶えるより強固なものになるのです。

中途半端に納得したものは、記憶されにくい。

 私たちが日ごろよく経験することですが、いいかげんな道順の説明をきいて、「ああ、わかった」と納得し、そのときは本当にわかったつもりでいても、しばらくす
ると記憶が不明瞭になって、もう一度聞きなおしたりすることがあります。ひどいときは、ひとり合点で道に迷ってしまったりします。勉強でも同じことで、教科書や
参考書をサラッとやっただけでは、かろうじて憶えているだけで、はっきりとした記憶として、試験のときまで保持することはとてもおぼつきません。あとになって、
せっ し やくわん
反復しておけばよかったと、 切 歯 扼 腕 した経験はだれにでもあることでしょう。
 記憶にとって反復の重要性は、いくら強調しても、しすぎることはありません。ある実験によるとつぎのような結果が出ています。五十個の数字を記憶するときに、
四回ぐらいまでの反復ではせいぜい十個ぐらいしか記憶できませんが、五回以上反復すると、急速に記憶量が増加し、七回から増加はゆるやかになり、十回反復する
と、五十個をすべて暗記できました。心理学では、学習したあとも、繰返し反復することを「過剰学習」と呼んでいます。英語の単語をはじめ、日本史や世界史の年
代、人名や地名、いずれも「過剰学習」つまり、何度も繰返して復習することによって、確実なものとして保持されるわけです。生理学の教えるところによると、脳に
はいった情報は、ニューロン(神経細胞)を何度も回転させながら、一定の時間が経過すると、記憶痕跡として固定します。反復はそれを促進する役割を果たしている
のです。
 ところで、人間の記憶というものは、どのくらいのあいだ、確実に保持されるものなのでしょうか。十歳前後で暗記した一〇七個の文章が、年齢を経るにつれて、ど
れくらい記憶から消えていくかを調べた調査があります。それによると、四十七歳では、約半分にあたる五四個がまだ記憶されており、七十三歳になっても、まだ四一
個が記憶されているということが報告されています。すでに述べたように、記憶は孤立して存在したり、機能するものではありません。それぞれに関係しあい、時間が
経過するにつれて、他のものとミックスして、変容したり、歪みを生じてきます。
 しかし、その変容の仕方は、最初憶えるときに、どのくらいしっかりと根を下ろしていたかによります。十歳のときに暗記したものが、七十三歳になっても残存して
いることでもわかるように、はじめに完璧に憶えておけば、長く記憶できるのです。逆に、中途半端であったり、あやふやに憶えたりすると、はやく変容して、どんど
ん記憶のなかから消えていってしまうという結果を招くことになります。

 まる暗記より、「理解」することが記憶の近道である。

 私たちが何かを「忘れてしまった」と言うとき、じつはそのことがまったく「わかっていなかった」ことが案外多いようです。いかにも自分の記憶力が悪いように思
いますが、ほんとうは正しく理解していないために、もともと憶えていなかったに等しいケースが少なくないのです。正しく理解すれば、それが即、記憶力の増進につ
ながるというのは、不動の大原則なのです。
なんぼくせんそう
 世界史で出てくるストウ夫人作の『アンクル・トムズ・キャビン』は、 南 北 戦 争 の後に出版されたか、前なのか忘れてしまった、と平気な顔で言っていた受験生を
憶えています。これは「忘れた」のではなくて、最初から憶えていなかったのです。この小説が、黒人奴隷問題で世論が沸とうするきっかけをつくり、南北戦争ぼっ発
の原因となったという「歴史の流れ」を理解していたら、「忘れる」という事態は防げたはずです。それを考えに入れずに、はじめから参考書で、南北戦争と『アンク
ル・トムズ・キャビン』を別個の知識として、断片的に憶えていたために、こんなに惨めな結果になったわけです。数学や物理の公式でも同じことで、ピタゴラスの定
理を自分で証明できるように憶えていたら、たとえ定理そのものを忘れても、すこしも困らないでしょう。
 本質次元での理解が記憶を確固としたものにすることについて、心理学者のサラ・J・バセットは、歴史科の学生に実験をしたことがあります。その結果、授業で、
歴史的な事実の意味をよく理解している学生は、単に事実を暗記しているだけの、理解度の低い学生より、ずっと記憶がすぐれていることが証明されました。これは、
理解していれば、それだけ長く記憶できるということを物語っています。
 記憶力のせいにして、自分は生れつき、もの憶えが悪いんだとあきらめてしまうまえに、もう一度、ほんとうにわかっているかどうかをチェックして、理解する努力
を続けるのが、回り道のように見えて、じつは記憶力をつけるいちばんの早道なのです。

 不要な記憶は、不要なだけでなく必要な記憶の妨げにもなる。

 受験勉強に疲れて映画を観に出かけ、帰ってきてすぐ勉強にとりかかると、観てきた映画のことが頭に浮かんできて、なかなか頭にはいらないといった経験がみなさ
んにもあると思います。これは、映画の記憶が邪魔をして、必要な記憶の進入・定着を妨げているからです。
 人間の脳細胞の数は約一四〇億と言われています。ある学者の説によると、有効に働いているのはそのうちの約五パーセントぐらいだそうです。だとすれば、脳の働
きには十分な余剰能力があり、いくら憶えても、脳がすり減るなどということはないわけです。しかし、記憶の仕組みは、脳細胞の数だけではわからないのです。脳に
はいった情報は、脳の中で網の目のように結び合い、からまりあいながら機能します。そして、外からの刺激に応じて再生されます。あまり役に立たない情報が漫然と
詰めこまれていると、必要な情報のあいだでひっかかってしまい、新しい情報を抑圧することになります。たとえ必要なものが記憶のなかにはいっても、再生されると
きには、不要なものもいっしょについてきたりして、ちょうど雑音の入り混じったラジオのように、不明暸な情報しか提供してくれません。ですから、勉強にとりかか
るときには、頭を完全に切替えて、白紙の状態にしておくことが必要なのです。

 メモでまにあうものは、記憶しないようにする。

 模擬試験の時間割りや会場、ガールフレンドと会う約束、家族の誕生日、コンサートのスケジュールなどはいずれも、勉強の内容には直接関係のないことがらです。
こういったことは、わざわざ記憶するまでもなく、メモに残しておけば十分まにあうことです。人間が記憶をしようとするときには、脳細胞を最大限に働かせると同時
に、心的なエネルギーを十分に注入する必要があります。勉強のあとで、頭をはじめ全身が、ぐったりとした疲労に陥るのもそのためです。勉強に無関係なことはメモ
に書き込むようにします。そして、メモしたという事実だけを憶えておき、その内容は忘れるようにすると、記憶が節約されるばかりでなく、その分だけ勉強に意識を
集中し、エネルギーを注ぐことができます。
 現代は情報の時代と言われ、あらゆる情報が洪水のように押寄せています。その洪水にのみ込まれないようにするには、そのなかから、なにを憶え、なにを憶えない
かを判断することが、ひじょうに重要です。直接、脳という〝生きたメモ〟から再生する必要のない情報はメモで補い、記憶から排除することに成功すれば、あなたの
記憶は機動性の高い状態に仕立てあげられるでしょう。そのためには、つねに手帳か小型のノートをもち歩く準備が必要です。

 記憶術を考えること自体が、記憶力の倍増につながる。

 今、propose(申込む)という単語を憶えなければならないとします。まず、だれもがいちばん最初に考えるのは、どういう方法で憶えたらいいかでしょう。p・r・
o・p・o・s・eと紙に何度も書きながら憶える人もいるでしょうし、また、日本語の「プロポーズ」は、結婚を申込むことですから、それを連想しながら憶えるという
手もあるでしょう。あるいは、propose, proposeと口のなかで何度もつぶやきながら、記憶に定着させるというやり方も使われます。指でproposeの綴りを空中に書く
のも、ひとつの方法です。
 こうして、どのような方法で憶えたらいいかを考える過程で、憶えようとしているものの内容や性質が、だんだんとはっきりしてきます。proposeを例にとれば、綴
りや発音をはじめ、アクセント、意味、日本語化されたときの意味変化などが、記憶法を考える過程で、互いにつながりをもってくるというわけです。
 そして、どのような方法を用いれば、その内容や性質にもっとも適しているのかが明確になってきます。その中から、「これで憶えよう」と一つの方法を決めてしま
えば、憶えられるという自信も自然に生まれ、記憶することに積極的になってきます。逆に、「こんなやり方で憶えられるかな」などと迷いながら記憶すると、どうし
ても雑念にとらわれ、集中力もそがれ、能率的な憶え方ができません。また、憶えやすい方法で憶えることは、忘れにくいことにもつながります。というのも、脳の中
での情報間の連合がスムーズにいき、しっかりと結び合い、忘れにくくなるのです。
「せっかく憶えたのにすぐ忘れてしまう」と嘆く人がよくいますが、これは憶え方の選択が誤っているためで、「忘れっぽい」ということとは、じつはまったく関係の
ないことなのです。

 知識相互間のネットワークが確立していると、記憶した知識が有効に働く。

 私自身の経験から言うと、大学入試の出題者が問題を考えるときは、その問題に応用できそうな過去の知識や経験があれこれと連想されるものです。たんに知識の断
片ではなく、さまざまの知識や経験の組合わせができてはじめて、問題づくりの見通しがついてくるのです。
 だから、問題を解く側、つまりあなたがたも、知識のあいだの関連づけをしながら、さまざまのチャンネルで結びつけておけば、正解できる確率が高くなると言えま
しょう。記憶をするときから、この知識のネットワークづくりをやっておけば、思い出すときにも、イモづる式にそのネットワークがいっしょに引き出されて、記憶を
有効に働かせることができるというわけです。
 たとえば、数学でベクトルを学ぶときに、それを物理の「力」のコンセプトに関係づけして記憶しておけば、数学の問題ばかりでなく、物理を解くときにも、新たな
まつもと
角度から問題を検討することができるようになります。 松 本 市の幼児学園では、先生がまず、「今日は何日」ときいて、子どもに、たとえば六月二日と書かせると、
「数字ではどう書くか」「英語では」と、やつぎばやに質問していくシステムをとっています。ダイナミックなネットワークづくりを、早い時期からしておくと、記憶
はそれだけ、精密なものに仕上がっていくのです。

 確実な核が一つあれば、記憶は雪ダルマ式に増える。

 一般に、専門家と呼ばれる人びとは、自分の専門のことについて明確な記憶を保持しています。囲碁や将棋のプロは、何年も前の棋譜を、なんの造作もなく復元して
キャンバス
みせます。また画家は、会った人の服装や特徴をじつによく憶えていて、 画布 に再現します。歴史学者が歴史的な事実を正確に憶えているのも、専門外の人から見れ
ば、大きな驚きです。しかし、これをとらえて、一流になる人は、記憶力においても特別な能力をもっているものだと考えるのは、かならずしも当っていません。
 プロが、アマチュアの想像を絶する記憶力を発揮するのは、じつは彼の頭の中に、ある確固たる記憶の〝核〟があるからなのです。そのために、新しい情報がはいっ
てきても、確実な知識と関係づけて、的確に位置づけることができるわけです。モーツァルトは、子どものころ、他人の家で聴いた曲を、自分の家に戻ってからそっく
りそのまま演奏した、と伝えられています。天才だからと言ってしまえばそれまでなのですが、モーツァルトの場合も、すでに音楽に関する正確な知識があったからこ
そ、それができたのでしょう。このように記憶というものは、しっかりした核があれば、雪ダルマ式に増えていくものです。

 科学的な記憶法で憶えれば、長時間たっても忘れない。

 いままで、記憶の基本原理についていくつかお話してきました。それらを貫いている共通のテーマは、記憶の痕跡というものをいかにして残すか、ということでし
た。
 記憶とは、経験が身体のいろいろな部分に残す、なんらかの痕跡によって起こる現象、と定義する人もいます。この痕跡が、果たして、脳に化学的な「刻み目」とし
てつくられているかどうかは、まだ正確にわかってはいませんが、解剖学、生化学、生理学などの立場から研究が続けられています。もし記憶痕跡が「実体」としてと
らえられたら、頭をよくする薬や手術の可能性も生まれてくるかもしれません。
 現在のところは、まだ、記憶痕跡というものの存在は推定の段階を出ていませんが、それでも、心理学ではさまざまな実験などによって、記憶のメカニズムがかなり
明らかになっています。記憶痕跡は足跡などとちがって、時間がたてば消えてしまったり、なくなるというものではありません。その証拠に、子どものころのことをつ
い昨日のことのように憶えていたり、ショックをうけたことは長いあいだ憶えていたりします。逆に、つい三分前には憶えていたことを忘れてしまったりすることも珍
しくありません。
 つまり、記憶痕跡がうすれ、変容し、混乱するのは、記憶時の条件や記憶材料、記憶内容によるわけです。ですから、記憶する際に、それらを防ぎ、痕跡を保持でき
るような憶え方をすれば、かなり強固な記憶をつくりあげられる、ということが言えるわけです。記憶には、ある種の法則性が認められます。いままではそれを、さま
ざまの角度から検討してきたのです。この科学的な法則性を正しくつかめば、実践のうえでも科学的に対処する道が開けてくるはずです。
 記憶の基本的な性質を理解したところで、心理学に裏づけられた実戦即応の記憶法を、これからお話していくことにしましょう。後は、自分の頭の特性に応じて、そ
れを実践し積重ねていけばいいのです。
 一夜づけでもOKの〝速憶術 〟
〈この章のはじめに〉

 この章には「一夜づけでもOK!」などという標題がついていますが、だからといって私は、一夜づけをすすめているわけでは、けっしてありません。また「速憶
術」というのも、ただ一夜づけのための方法であるという意味ではないのです。「速憶術」と名づけたのは、この章でご紹介するかずかずの方法が文字どおり、なるべ
く無駄な時間をかけず、要領よく憶えるということを目的にしているからなのです。それだけではありません。手軽な、ほんのちょっとした工夫をこらすだけで、いま
まで記憶に費やしていた貴重な時間を、いっきょに短縮することができる方法も選んであります。
 それらの方法をどのように実行していくか、それはあなた自身の判断によるわけです。明日に控えている試験にさっそく利用してみる人もいるかもしれません。なる
ほど、たしかに一夜づけは、速く憶えることの典型・極致であると言ってよいでしょう。しかし、速憶術を単に一夜づけの方法としてとらえるかぎり、この方法はまっ
たく苦しまぎれの一時しのぎにすぎないのであって、短時間で憶えたものを、長期間保てるなどといったムシのよい方法ではけっしてないのです。もしそんなものが
あったとすれば、私の方が教えていただきたいくらいです。
 たとえば、やむにやまれず、一夜づけで試験を受けたあとのことを思い返してみてください。あれだけ、がむしゃらになって憶えたものも、不思議なくらいきれい
さっぱりと忘れているのではないでしょうか。これはもともと、短期決戦用の戦法が、記憶を頭の中にがっちりと固定させるのには適していないからなのです。しか
し、まがりなりにも何時間、あるいは何日間は記憶されていた、というのもまた事実ですし、また一方には本質をとらえた正確な記憶こそ〝速憶〟になるという事実も
あります。しかし、さらにこれを長もちさせるのは、また別に方法があるはずで、それは第四章の確憶術のところでふれることにします。
 私自身、若いころからすこしでも自分の記憶力を強化しようと、記憶に関するさまざまな本を読んできました。心理学の専門家となった現在も、記憶というテーマ
は、たいへん興味深い研究対象です。しかし、これまで私の目に触れた大多数の本は、「一夜づけはよくない」と言うだけで終っています。私に言わせれば、そんなこ
とは先刻わかりきったことなのです。問題は、それでも一夜づけや短期決戦法に頼らねばならないとき、どうしたらよいのかということではないでしょうか。この章
が、そうした切実な要望にピタリ応えることができないとしても、第三・四章と補い合って、最終的には、あなた方の記憶力を何倍にも増加させるのに役立ってくれる
はずです。

 アクビ・背伸びは、記憶を促進する。

 日本では、人まえでアクビをすると、「なんて失礼な」といやな顔をされます。相手の話に飽きあきしたという意思表示ととられるからです。しかし私は、アメリカ
に滞在中、学者同士のシリアスな会議のときに、アメリカ人の学者がしきりにアクビをするのに出会いました。
 習慣の違いもあるでしょうが、じつはこれにはもっともな理由があるのです。彼らが、それを意識していたかどうかはわかりませんが、アクビや背伸びには、頭を
すっきりさせる効果があるのです。脳幹部の網様体という部分が、頭をぼんやりさせたり、すっきりさせたりする機能を担当しているのですが、アクビや背伸びは、筋
肉を一時的に緊張させ、この網様体に適度な刺激を与えて、頭脳の働きを活性化させるのです。会議のときにアクビをするのは、むしろ、「頭を明瞭にして、がんばる
ぞ」というサインであるとも言えるでしょう。背伸びも、こうした意気込みの現われと考えられます。動物が眠りからさめると、背中をもちあげたり、大きくアクビを
したりしますが、これも同じ理由からなのです。勉強のときにも、記憶の速度が鈍ってきたり、間違いが多くなったら、積極的に大きなアクビをして背中を伸ばすこと
です。勉強部屋の中なら、だれに遠慮することもないのですから。

 「書く」ことは、頭だけでなく手にも記憶させられる。

 私は、大学での講義中、専門用語を黒板に外国語で書こうとして、いつも書き慣れているはずのスペルが、どうしても思い出せないことがあります。白墨をもってい
つまでも立往生していてもはじまりませんから、こんなとき私は、黒板の前を離れて、机上の紙にペンでそのスペルを書いてみることにしています。すると、手が憶え
ていてくれてスラスラと書けるのです。
 記憶には、すべての感覚がフルに利用されています。視覚や聴覚ばかりでなく、触覚、味覚、嗅覚のほか、運動感覚、圧覚、痛覚など、すべての感覚が記憶の手がか
りになってくれます。なかでも手は、指先の圧覚、運動感覚、指先の動きなどの感覚を含んでいます。勉強では、記憶すべきものが筆記用具を通して手と接している関
係から、記憶にとって、とくに重要な感覚装置となっているのです。私が、手によって単語の綴りを思い出したのも、おそらく、単語を憶えるときに、指でスペリング
をなぞったり、直接紙に何度も書いたときの記憶が、手に保存されていたためでしょう。外国語の単語にかぎらず、漢字を憶えるときにも、頭だけで憶えようとせず、
紙に何度も書きながら手に憶えさせておくと、思い出すときに、ひじょうに役に立ってくれます。一見、非能率的なようですが、記憶を確実にするためには、〝急がば
回れ〟も必要なのです。

 身体の動きに合わせて、リズムで憶える。

 精神分析学の祖フロイトは、子どものころ、夜、ラテン語の語尾変化とギリシア語の文法を憶えるとき、テーブルと壁のあいだを手でコツコツたたきながら、歩いて
勉強したと言われています。彼は、意識を集中しようとして、歩きながら壁をたたいたのですが、これなどは、リズムにのって記憶すると、スムーズに憶えられるとい
ういい例でしょう。
 私たちは、何かものを考えるとき、無意識のうちに、指で机やイスの腕をトントンたたいたりすることがあります。これが癖になって、トントンという音がないと、
ものごとを考えられなくなる人もいるほどです。このように、一定の間隔で繰返されるリズムは、神経を集中させるのに役立ちますが、フロイトの場合も、記憶作用と
コツコツのリズムが、相乗効果を生んだのでしょう。現代は、「聴視覚の時代」と言われています。つまり、聴覚が大きく発達して、視覚と連合し、リズム感に、感覚
における中心的な役割を果たさせているのです。深夜放送を聴きながらの〝ながら学習〟も、この聴視覚時代の特徴と言えましょう。ある僧侶の話によると、最近の若
い僧たちは、木魚をたたきながら、じつに早くお経を憶えるといいます。快いリズムにのって、快感に浸りながら憶えるのは、すぐれて現代的な記憶法なのです。

 声を出して読み、口に憶えさせる。

「眼は口ほどにものを言い」ということわざがありますが、記憶法に関して言えば、「口は眼ほどにものを憶え」と言い換えることができます。というのも、憶えると
のど
きにそれを声に出すと、舌や 喉 の感覚が動員されて記憶の手がかりとなるばかりでなく、自分の耳に達する声を聞くことができ、抑揚、声の大小までも記憶の助けに
なってくれるからです。
 よく電車の中などで、外国語の教科書を読みながらブツブツ言っている学生に出会いますが、黙読で憶えるよりも、声に出すほうが、はるかに上手な憶え方なので
す。大勢の人のいる中で、ひとり声を出すのは恥ずかしいなどという人もいますが、他人は小さなブツブツ声などあまり気にしないものです。
 地方で育った私の友人は、学生時代、暗記をしなければならないときは、かならず裏山の頂上に立って大声でどなったそうです。コダマがすぐれた共鳴装置となっ
て、記憶の能率をぐんとあげてくれたというわけです。だれもがこのような方法をとるわけにはいきませんが、私たちの身近にも、声に出して憶えるのに適した場所と
して、公園のベンチ、橋のたもと、河原、墓地などいくらでもあります。試験まえなどおおいに利用するとよいでしょう。
 憶えたくないときは、憶えるための準備をする。

 私たちがいつも経験していることですが、記憶には波があります。ある受験生と受験勉強について話をしたときのことですが、つぎのようなことを聞き、ひじょうに
強く印象に残っています。この受験生の家は、鉄道の線路から一〇〇メートルほど離れたところにあり、彼の勉強部屋の窓からは、線路がよく見えます。この線路を走
る鉄道はローカル線なので、一時間に一本ずつしか汽車が通らないのです。
 彼の憶え方は、汽車が通るのを合図にしてスタートし、記憶のスピードが鈍ってきて、もう限界かなと思うころに、また汽車が通るので、この汽車の通過とともに憶
えるのをやめてしまうというものです。そして、つぎの汽車が通るまでは、記憶という行為から離れて、なにをどう憶えようかと考えるのだそうです。ときには、古文
の単語を品詞ごとにまとめて、表をつくることもあります。また、カラー鉛筆で憶える順序を色分けしたりもします。
 つぎの汽車が通るころには、また記憶への意欲が増してきて、やる気になるというわけです。彼にとって、一時間おきの汽車は、自分の頭の調子の波を知らせてく
れ、ガイドまでしてくれるパイロットのような役割をはたしていたわけです。
 この受験生と同じように、だれでもスイスイ憶えられるときと、憶えようとする意欲さえ湧いてこないときがあるものです。意欲の落ち込んでいるときには、いかに
状況が切迫していたとしても、気があせるばかりと言ってよいでしょう。それとは逆に気分がのっているときには、なんの迷いもなく、引張られるように憶えてしまう
ものです。
 ですから、憶えようとする意欲の落ち込んでいるあいだは、つぎの〝高波〟に備えて、憶え方の研究や憶えるための環境づくりに、力を注ぐのが賢明です。いざ憶え
る段になると、すでに筋道はつけてあるわけですから、なんの造作もなく、素材を軌道にのせて、記憶装置の中に送りこむことができるのです。

 まず重要事項だけ選んで憶え、軸をつくるとよい。

 教科書やノートを、たんねんに、それこそ一字一句も逃すまいとして、暗記している人をときおり見かけます。しかし、ちょっと待ってください。とくに歴史などを
やる場合、そんな方法では頭がパンクしてしまいます。歴史科目では、まず重要事項を選び出して、それをとびとびに憶えて、「流れ」として頭に入れることからはじ
める、という方法をおすすめします。つぎに、そのあいだを埋めていき、いわば、記憶に格差をつけながら、憶えていくのがいいのです。
 たとえば世界史で、古代ローマについて憶えるのなら、まず伝説上のローマ建国(前七五三年)→第一次ポエニ戦争(前二六四年)→シーザーの暗殺(前四四年)→
アウグストゥスが初代ローマ皇帝に就く(前二七年)→ローマ帝国分裂(三五九年)→西ローマ帝国崩壊(四七六年)といった大きな「流れ」をつかんでおきます。第
二、第三次ポエニ戦争や、ポンペイ市埋没、キリスト教の伝播などは、そのあいだを埋めるものとして、そのあとで記憶していきます。こうしておくと、再生するとき
に、大きな流れがまず頭に浮かんできて、つぎに細かいことが、ジュズつなぎ式に出てきます。また、時代把握を誤るといった、初歩的なミスも防げます。時間があま
りないときには、この「重要事項主義」でいけば、すんなりと頭にはいり、安心して試験に臨めるのです。

 重要なことは、赤く大きい字で書きなおすと印象に残る。

 受験生の参考書を見ると、たいてい、ぎっしりと赤い線でアンダーラインが引いてあります。重要なところを強調するためでしょう。しかし、赤いアンダーラインは
引いていても、赤ペンで文字や図を書いて憶えるということは、あまりしていないようです。もちろん、赤でなくても、書くという動作自体が記憶の助けになること
は、まえにも書いたように、心理学的にも確かなことです。しかし、その中でもとくに重要なことがらを、ほかのことがらからきわ立たせて憶えるには、赤で大きく書
いてみるのも有効な方法なのです。
 障害児教育で知られるアメリカのグレン・ドーマン博士は、幼児に字を教えるときに、まず身近なもの、つまり、父とか母という意味の言葉を、赤くしかも大きな字
で書く方法をすすめています。つぎに、身体の一部を示す言葉、目、耳などをやや小さい字で、さらに身のまわりのものの名称などを今度は黒い文字で、というように
段階をつけて指導するのです。
 信号で、赤が危険を表わすのは、赤が人間の注意をひきやすいためですが、勉強にもこの原理を取入れてみるのです。しかも、黒ペンを赤ペンにもちかえるという動
作そのものに、そのことがらが重要である、と自分に言い聞かせる効果があることも見のがせません。

 満員電車やバスの中は、絶好の暗記場所である。

 私が旧制中学のとき、高校受験のために単語の暗記をするのは、ほとんどが満員電車の中でした。「あんな窮屈な姿勢では、なにも憶えられるわけがない」と思われ
るかもしれませんが、じつはこれがまったく逆なのです。
 よく〝雑踏の中の孤独〟とか〝喧騒の中の静けさ〟と言われますが、知らない人の集団の中では、ひとりでいるときよりもかえって、意外な孤独さを感じるもので
す。周囲の人間が自分とは無関係なだけでなく、彼らの話すことも、自分とは関係のないことばかりです。たしかに、物理的には窮屈でうるさくても、自分と関係のな
い場所となると、人の関心は、自分の内部に向かいがちになります。
 これは、まったくその国の言葉を知らずに、外国に旅行するときと同じです。人も言葉も無縁な外国で、しきりに思い出されるのは日本のことだと言う人がいます
が、それは、その人の関心が、〝わが内なる祖国〟つまり自分の内面に向けられているからにほかなりません。
 いずれにせよ、満員電車やバスのなかの孤独は、勉強にとっては、逆に絶好のチャンスになります。
 とりわけ、英語の単語、歴史の年代といった暗記物は、集中力が必要ですから、外のものによって気を散らされない「場」を、十二分に利用することができます。し
かも、小説を読むのと違って、そう頻繁にページを繰る必要がないことも、暗記物が満員電車向きであることを示しています。また、下車駅がひとつの区切り、つまり
ゴールとなる利点もあげられるでしょう。
 下車駅が近づくにつれて集中力が増し、「もう二駅だ」「もう一駅だ」と、ゴールを意識しながら暗記すれば、さらに能率アップにつながります。

 自分の頭がさえる時間を知っておくと、集中的に憶えられる。

 私は、長年の習慣で、朝四時から七時のあいだに仕事をするとひじょうに能率があがります。だから、集中的にものを書いたり考えたりせねばならないときは、前夜
早く床に就き、夜明けまえに起きて机に向かうことにしています。おそらく、これが私の〝頭のリズム〟なのでしょう。
 アメリカの有名な記憶研究家ハーバート・ポランは、自分の娘が朝四時から数時間にわたり、とくに頭がさえるのを知って、毎朝、かならずその時間に起こして宿題
をさせたそうです。彼は、この話を紹介した文章のなかで、「記憶にとってまず重要なのは、その日のどの時間に憶えるかである」と主張しています。
 人間は、ふつう朝起きて夜眠ることになっていますが、頭の働きには、また別のリズムがあると考えられます。これは人によっておおいに異なるものですから、記憶
を効果的にするためには、自分の頭のリズムを発見することもひじょうに有効なのです。細かい時間まではわからないとしても、人間の頭のリズムは、大きく分けて夜
型と朝型になりますから、一夜づけで憶える場合には、夜型の人なら、真夜中に集中的に憶えて、朝は眠るようにし、朝型の人は、まず眠って十分調子を整え、早朝に
一気にやるのが賢明なわけです。
 空腹時・食事直後は、記憶力がにぶる。

 いかに試験直前だからとか、一夜づけで憶えこまねばならないからといって、食事をしながら勉強したりするのは、やめたいものです。食事の直後には、脳を含むか
らだ全体のアクティヴィティ・レベルが低下します。脳細胞の活動が衰えているときに、気力だけではとても太刀打ちできるわけがありません。腹が落着き、血液が胃
から脳に〝環流〟してくるのを待つのが得策なのです。だから、食事中や食事直後は、からだを休めて頭も使わず、ボンヤリしているのが、むしろエネルギーの貯蔵に
つながり、結局は記憶にプラスになるわけです。
 また、空腹のときも記憶力が低下します。動物は一般に、腹がすくと落着きがなくなって、集中力が低下します。その結果フラフラ動き出して、エサにぶつかる確率
が多くなるのですが、記憶にとっては、最悪の状態なのです。〝フラフラ〟部屋の外へ出て腹ごしらえをするのは、時間がもったいないようですが、空腹をかかえ、
鈍った頭脳にムチ打ってがんばるよりも、記憶の能率をあげるためには価値的なのです。このように、満腹と空腹は記憶を妨げるので、一夜づけのときは、夜食やお茶
のときに休けい時間を絞って、その他の時間は勉強に熱中するパターンをつくると、能率的な憶え方ができると言えましょう。

 重要なものは、勉強時間の最初と最後に憶えるようにする。

 講演で話をするとき、だれもがいちばん苦労するのは、どのような構成で話を進めるかということでしょう。私は、自分の言いたいことを講演の最初と最後に置い
て、中間の話はできるだけ滑らかに進めることにポイントを置いています。というのは、何回かの講演で、聴き手が、私の話の内容のどこを記憶にとどめているかを経
験的に知っているからです。たいていの人は、講演のなかほどはほとんど憶えていないのに、冒頭と結びはしっかり心にとどめてくれているようです。これは、講演が
終わっての質問でも、ほとんどがその二つの部分に集中していることからもわかります。
 記憶の場合にも、これとまったく同じことが言えます。勉強時間の最後にやったものはよく憶えているのに、真ん中は忘れてしまっていることが多いのです。英単語
帳をつくって記憶するとき、A、Bあたりはひじょうによく憶えているのに、M、Nとなるとまるであやふや、Wあたりでややもち直して、Y、Zになると鮮明に記憶
しているといったことは、だれにも憶えのあることでしょう。
 C・I・ホブランドというアメリカの心理学者が、十二の単語を並べて、どの位置にある言葉がもっとも間違いやすいかを調べたことがあります。それによると、誤
りがほとんどないのが第一番目の単語で、以下誤りはしだいに多くなり、七~八番目で頂点に達し、それから急激に誤りが少なくなって、十二番目は、二番目のつぎに
誤りが少なくなることが確かめられました。これを彼は、「記憶の系列位置効果」と呼んでいます。
 どうしてこのようなことが起こるのかといえば、心理学では、記憶した痕跡が互いに抑制するからだと考えられています。まず、「順向抑制」といって、先に憶えた
痕跡が後のものを抑制し、さらに後から似たようなものを憶えると、逆に前の痕跡を抑制する「逆向抑制」がこれに加わって、互いに記憶を消し合ってしまうのです。
ところが、系列の最初に憶えたものは、逆向抑制はあっても、そのまえになにも記憶していませんから、順向抑制は働きません。また、最後に憶えたものは逆に順向抑
制は受けても、逆向抑制は受けないわけです。中間のものが二重の抑制を受けて記憶に残らないのに対して、前後に憶えたものが鮮やかに記憶されるのは、このような
記憶のメカニズムがあるからです。
 この原理を、逆手にとって、最初から憶える方法、途中から出発する方法、あるいは最後から逆にやる方法などを織りまぜると、この「効果」のマイナスを消すこと
ができ、どれもムラなく記憶できるというわけです。

 複雑なものは、箇条書きにすると憶えやすい。

 私は、雑誌などの記者から、よくインタビューを受ける機会がありますが、記者のメモのとり方を見ていますと、有能な記者かそうでないかを、即座に判定すること
ができます。有能な記者は、私の話を聞きながら、自分の頭の中でまとめて箇条書き的に整理し、メモをとっていきます。逆に、あまり有能でない記者は、まるでメモ
に眼をくっつけんばかりにして、私の話を一語たりとももらすまいとして書きつらねようとするのです。もちろん話すスピードと書くスピードとは、まるで違いますか
ら、書きもらしたりすると、聞きかえしてくるので、二重手間です。また人によっては、さっさととばしてしまう記者もいるようです。
 あとでメモを見たとき、箇条書きにした記者は、話の順序を筋道立てて思い出すはずです。逐語的に書いていなくても、中味を正確に把握しているので、内容の濃い
記事にまとめられるでしょう。箇条書きにしておかない場合には、すこしでも書き落しがあると脈絡がつかなくなる恐れがあります。あとになって私のところへ、〝追
加取材〟と称して、電話でもう一度聞いてきたりするのは、たいてい後者のケースです。
 記憶する場合も同じことで、複雑に入り組んだ内容のものは、箇条書き的にまとめることから、はじめるべきです。それによって、まず頭を整理し、憶えやすい形を
つくりだすことができます。こうして記憶しておけば、思い出すときには、まず箇条の形が浮かび、それぞれが有機的に結び合って想起されるのです。たとえ部分的に
は忘れていても、大筋は間違いありませんから、「確かな記憶」を誇れるわけです。
「箇条化する時間がもったいない」と言われるかもしれませんが、これは、目先の欲にとらわれて、役にも立たない小魚を釣りあげ、大魚をとり逃す釣人と同じです。
やみくもに憶えたはいいが、いざ思い出すときには、必要のない箇所ばかりが浮かんでこないともかぎりません。箇条化する時間のロスは、「正確な記憶」という結果
によって、十分補われて余りあるはずです。

 一度に全部憶えようとせず、分けて憶えた方が能率的である。

 現代国語や英文解釈などで、長文読解問題の場合は、まず段落に区切ってみるとよい、ということがどの受験参考書をみても書いてあります。これは、記憶の原理か
ら見ても、ひじょうに理にかなったものなのです。各段落の意味・内容をつかんでから、全体の論旨の把握に向かえば、ダラダラと読み流すよりも、はるかに能率的に
内容をつかめるわけです。というのも、人が一度に記憶する量には限界があり、その限度までを一区切りにして憶えれば、脳に余分な負担をかけないで、スムーズに憶
えていけるからです。
 ミラーという心理学者は、平均的な記憶力のもち主が一度に憶えられる限度は、数字や単語で七個前後だということを実験で確かめました。そして、この七を、〝マ
ジカル・ナンバー・セブン〟(「不思議な数・七」)と呼んでいます。ミラーによると、数字では、3・9・2・5・4・2・1という一けたの数字七個で
も、25・15・11・19・43・25・30という二けたの数字七個でも、記憶にとっては同じことで、問題は七個あることだけであるとも主張しています。もちろん、実際に
は、一けたと二けたでは、一けたのほうが憶えやすいのですが、ともかく、一回の記憶量のあらましは、ミラーによって発見されたとおりのようです。
 ミラーのようにきっちり七つに区切らなくても、日本史や世界史の年号や英単語、古文の単語などを憶えるときにも、一度にたくさん憶えようとするよりはいくつか
に区切って、ひとかたまりずつ憶えていくほうが、はるかに能率的と言えましょう。また、地理などの社会科系科目の小さな項目を暗記していく場合でも、各項目の要
点を適当にまとめて憶えるといいでしょう。こうすれば、全体の構造を把握していけるからです。
 講義のときに、ノートをとる場合も、ただめったやたらに書くより、講義の区切りごとにまとめたほうが、記憶しやすいのです。アメリカの海軍人事管理研究所が、
一八〇人の大学生を対象にノートのとり方と記憶の関係を調べたことがあります。被験者は、テープにとった同内容の講義を聴きます。ただし、Aグループは、講義の
あいだざっとノートをとるように命じられます。Bグループは、講義の途中に区切りを入れて、そのあいだにノートをとり、Cグループは、まったくノートをとりませ
んでした。あとで、講義内容の想起率をテストしたところ、AとCグループは、それぞれ全体の三七パーセントを憶えていましたが、Bグループは、五八パーセントも
記憶していたのです。これは、区切りごとにノートをとると、その区切りごとに憶えることによって、全体の論理を構造的につかみやすくなるからだと考えられます。
あなたもまず、ノートのとり方から点検してみてはいかがでしょうか。
 制限時間を決めて憶えると、集中力が高まる。

 学会やシンポジウムで研究発表することが決まると、長いあいだかけて準備をしてきたにもかかわらず、最後の仕上げがうまくはかどらないことがあります。ときに
は、うまくいかないのではないかという不安感にとらわれて、仕事が手につかないことすらあるのです。ところが、その日が迫ってくると、逆に不安感よりも緊張感が
高まり、何かピリッとした気分になって、集中してまとめあげられるようになります。会場へ向かう車の中などで、今までひっかかっていた難題がパッと解けて、全体
がうまく決まるといったこともあります。
 制限時間があると、脳は、それに向かって〝背水の陣〟をしいてくれます。憶えることに向かって、脳の諸機能が集中的に活動を開始するのです。一夜づけの勉強が
案外、能率的に運ぶのも、脳が、背水の陣であることをはっきり意識し、集中力が高まるからでしょう。
 よく舞台俳優から聞く話ですが、「開演日まであと何日」と秒読みがはじまると、セリフを憶える能率が急にあがるようになり、いよいよせっぱつまると、「開演ま
しっ た
であと何時間」と自分を 叱 咤しながらがんばるのだそうです。勉強でも能率があがらないときは、わざと時計をにらんで、「秒読み」をはじめると、自分に馬力をか
けるのにおおいに役立ちます。

 ぶっ続けで憶えるよりも、すこし間を置いて休みながらやるほうが効果的である。

 一夜づけの勉強では、時間に追われているせいか、文字どおり寸暇を惜しんで大量のものを憶えようとしてがんばるものです。こうしたやり方は、記憶の理論では、
「集中記憶法」と呼ばれていますが、がんばりにくらべてあまり効率があがりません。時間を追いこしかねない勢いでがんばるよりは、ときどき、休息を入れてから憶
える「分散記憶法」のほうが、じつは効果的なのです。これは、有名な「ヨストの法則」と呼ばれるもので、つぎのような実験で効果のほどが確かめられています。あ
る人間に、一定の材料を一日十回ずつ三日間にわたって合計三〇回憶えさせます。終了後二十四日たったら、同じ材料をふたたび全部憶えなおすのに何日かかるかを調
ぺるのです。つぎに、しばらく日時をおいて、同一人に同性質の材料をこんどは一日に続けて三十回反復学習させて、さらに二十四日後に、ふたたび憶えなおすのにか
かる日数を調べてみました。その結果、前者のほうが能率がよいことがわかりました。再学習のとき、前者のやり方では後者の半分の時間量で憶えてしまったのです。
 一夜づけではそんなにゆっくりもできませんが、ぶっ続けでやるよりも、すこしでも休息をはさむと、忘れにくくなると同時に、その後の記憶量が増えるというの
は、間違いないようです。

 同時にたくさん憶えなければならないときには、まず憶えやすいものから憶える。

 中国料理は私の大好物の一つですが、もし、あの大きな円卓に料理の皿がいっぺんに並んで、「さあ、どうぞ」と言われたら、いくら好物でも食べる気がしなくなる
でしょう。あれは、一皿ずつ出てくるからこそ食欲も湧き、「つぎには何が出てくるだろう」という期待感も手伝って、おいしく食べられるのだと思います。
 記憶でも、たくさんの材料を目の前にしたら、おそらく憶える気がしなくなってくるはずです。料理だったら、それでも、すこしだけ食べてあとは残してもいっこう
にかまいませんが、試験直前になって、どうしても憶えなくてはならないときはそうもいきません。そこで、どうしてもいや気という、記憶を妨害する要因を取除く必
要が出てきます。
 それには、憶えなければならないことを机の上に全部積まないで、小出しに机の上に並べるのもよいでしょう。つまり、中国料理風に一皿ならぬ一材料ごとに記憶す
るわけです。たくさんの材料を見渡すと、なかには、「これなら簡単に憶えられそうだ」と思えるものがあるに違いありません。数学なら以前にやった問題によく似た
ものとか、英単語だったら音節の少ないものなど、とっつきやすい材料を探して、それをまず憶えるのです。
 そのやさしい材料を憶えたら、あとはその勢いで障害を簡単に突破できます。ちょうど、陸上競技の助走に似た役割を果たしてくれるというわけです。助走が不完全
ではバーを落としてしまいますが、うまく助走できたときには、自信をもってバーに立ち向かうので、自分で思ってもみなかった高さを楽にクリアーできることがよく
あります。
 また、いかにたくさんある材料でも、たやすいものを選んで憶えていくと、知らないうちにかなりの量を消化できます。あるところまできて後ろを振り返ってみる
と、「もうここまでやった」と気分的な負担が軽くなって、一気にやれる場合も多いのです。「まだ、こんなにあるのか」という気分でやるのと、「もうこんなにやっ
たのか」という気分でやるのとでは、当然、能率にも差が出てきます。
 とっつきやすい材料に目をつけて、量からくるいや気を取除くことができれば、あとは直進することだけを考えるのが、短時間で多量の材料をこなすコツです。私も
気の進まない仕事をするときは、まず、自分の好きな心理学の本を手当たりしだい読むことにしています。こうして気分がのってきたところで、いやな仕事に取りかか
ると、意外にスムーズに仕事がはかどるのです。量と質からくるいや気を取除くには、量を少なくし、質を変えてみるのが、遠回りのようでいて、じつはいちばん近道
なのです。

 気を散らせる原因は、記憶促進の手段にしてしまう。

 記憶をするという行為は、本来、あまり楽しい作業ではありません。脳に余分な負担をかけなければなりませんから、記憶をしようとすると、どうしてももっと楽し
いことが頭に浮かんできます。そのため、精神の集中ができなくなって、記憶が妨げられてしまいます。こんなとき、たいていの人は、それらの雑念を排除して、必死
に集中しようとしますが、これがまたなかなかの難事です。
 こんな場合、私はそんなことに努力を傾けるよりも、気を散らせるものを逆手にとり、集中の助けに使って記憶を促進させています。たとえば、「テレビが見たい」
「風呂にはいりたい」「コーヒーが飲みたい」といった雑念が浮かぶと、あるゴールまで到達したらその欲望を〝ごほうび〟として与えることを約束するのです。こう
すれば、記憶を妨げる雑念が、逆に記憶をしなければ達成できない目標に変えられて、雑念が記憶を助けてくれるまたとない手段になってくれます。
 また、これらの雑念に、ランクをつけておくと効果はさらに倍増するでしょう。古文の構文なら、十個憶えたら、熱いコーヒーを一杯飲んで十五分だけくつろぐと決
めておくのです。二十個憶えたらシャワーを浴び、冷たいジンジャー・エールを飲みながら、三十分休む。さらに、三十個になったら、外で一時間だけ散歩する。こう
して、自分のなかにあるもっとも大きな雑念を最後に回して、雑念を小出しにしながら、最終目標に近づいていこうというわけです。子供だましのように思えるかもし
れませんが、意外と効果は大きいものです。
 ニンジンを眼前にぶらさげられた馬ではありませんが、人間は、目の前に小さな目標ができると、つまらぬことに気分が散らされるどころか、それに向かって集中し
ないわけにはいかなくなるのです。

 暗記の際は、机の上に余分なものを置かないようにする。

 勉強に疲れると、マンガの本などをしばらく読んでから、また勉強に戻るという気分転換法はだれもがやっています。このとき、読みかけのマンガを机の端などに放
りっぱなしにしている人がよくいますが、これは、記憶にとって大きな障害になります。
 気分転換に、自分の好きな小説や雑誌、マンガなどを読むのはいい方法ですが、それらが机の上に置いてあると、ついマンガのほうに手を出しがちになります。なか
なか憶えられないで、イライラしてくると、記憶に集中できず、何度も、そのほうに注意がいってしまうのです。これが、悪循環となってさらに集中力が鈍り、記憶を
妨げる最大の原因になります。とりわけ、暗記のときには、机の上をきれいさっぱり片づけて、暗記の材料だけを置いておいておくようにすると、それに集中せざるを
えなくなり、能率もあがらないわけにはいかなくなるのです。
 また、視界の及ぶ範囲に、ベッド、ステレオ、ギターなどがあるのも、やはり気を散らす原因になります。できることなら、勉強部屋を勉強に専念できる一画と、息
抜きする一画にはっきり分けてしまうのがいいでしょう。こうすれば、勉強と息抜きを、「場」的に分けることで、「気分」的にも、区切りをつけることができます。

 クラシック音楽を聴きながら憶えると、意識の拡散を防げる。

 喫茶店で、BGM(バックグラウンド・ミュージック)を選ぶときの基準は、「できるだけ抑揚が少なく、テンポの遅い曲を選ぶことだ」と、喫茶店コンサルタント
をしている人から聞いたことがあります。この人の話では、学生街では選曲にとりわけ気をつかい、いわゆる名曲喫茶では、「アップ・テンポの曲は禁物」だというこ
とです。勉強部屋のBGMで、名曲喫茶にあたる選曲をしなければならないのは、とりわけ集中力を要する暗記のときです。というのは、記憶材料と記憶材料のあいだ
にはわずかなすき間があります。つまり、ひとつを憶えてつぎに進むときには、フッと息をつく瞬間があるわけです。このあいだを埋めるのがBGMで、注意を散らさ
ず、一種の気分転換にもなり、頭をリフレッシュさせる曲が必要なわけです。
 クラシック音楽は、変化が少なく平坦な感じなので、この場合のBGMにはピッタリで、少なくとも、記憶を抑制する作用はありません。逆にロック以後の曲は、エ
イト・ビート(人間の心音のリズムの倍の速さ)であるうえに、若者のフィーリングにピッタリくることが多いので、注意が散ってしまい、不向きです。また歌謡曲
は、詞に気をとられ、それが、逆向抑制効果(前に憶えたものを抑制すること)を起こしかねないので、避けるにこしたことはありません。

 徹夜するよりは、すこしでも眠ったほうが記憶は保持できる。

 十分に準備のできていない試験の前夜は、わずかの時間も惜しく思われ、眠るのが罪悪であるかのように思えることさえあります。一語でも一ページでも多く憶えて
おこうと、夜が白々と明けるまで机に向かってがんばり、ついには眠る時間がなくなって、朝食もそこそこに出かけていくようなことになります。
 しかし、徹夜は、徹夜をする本人の意気ごみとは異なって、逆に、記憶には悪い結果を及ぼすのです。せっかく憶えたことが、一睡もしないために、ボロボロと頭の
中からこぼれ落ち、忘れ去られていくことが、心理学の実験によって、明らかになっています。
 この実験は、ジェンキンスとダレンバックの実験と呼ばれ、「学習して、すぐに眠った場合は、二時間までは記憶が減少するが、その後は、減ることはない。しか
し、眠らずにいた場合は、記憶は減少し続け、八時間たっても、まだ急激な減少が見られる」という結果がでています。
 勉強をしたら、何も考えずに眠ってしまえば、睡眠にはいって最初の二時間は記憶が減少しますが、その後は、眠りという厚い壁に守られて記憶が保持され、目覚め
たときにも、八割がたの記憶が稼動可能な状態でスタンバイしているのです。これには、体制化といって眠りが記憶痕跡をある程度整理し定着させる作用があることも
寄与しています。逆に、すこしも眠らないと、ちょうどザルから水が洩れるように記憶は減り続けていくだけだというわけです。
 つまり、目覚めていれば、どんなに静かな部屋にいても、外部からさまざまな刺激が五感を通して、眼にはいってきます。深夜放送などを聴いていたら、なおさら、
刺激は大きなものとなるでしょう。これらの刺激に基づく心的な活動が、前に蓄積された記憶を抑えこんでしまうのです。これを心理学では抑制効果と名づけています
が、さまざまの刺激のなかに記憶が埋没して、ついには忘れ去られるのです。
 したがって、夜遅くまでの勉強は、その効率をよく考えてしないと、せっかく大量に記憶したのに、まるで憶えていないということになりかねません。十のものを憶
えても、一睡もしないために二になってしまうよりは、たとえその半分の時間で五しか記憶できなくても、眠ったために四だけ保持されていたとしたら、はるかに効率
のいい一夜づけということになります。
 試験前日の興奮や不安はだれにでもあるものです。自分だけが、気がせくわけではありません。心配で眠れなければ、「眠りが記憶を助けてくれるのだ。眠ることで
他人に差をつけられる」と、自己暗示をかけながら眠るのも、一つの方法です。少なくとも、〝完徹〟よりも〝半徹〟が試験にプラスであることは明らかなのです。

 自分の趣味や関心事と結びつけておくと、憶えやすい。

 不思議といえばそれまでですが、わたしたちは自分の好きなことはなんの苦労もなく憶えるものです。数字に弱くても、野球の好きな人は打撃ベストテンに名を連ね
る選手の打率から、各チームの順位・ゲーム差、ホームランの本数、盗塁個数、それこそなんでもござれ、という感じです。この記憶の〝身勝手〟を利用して、自分の
関心事や趣味に、憶えたいことを結びつけてしまう記憶法があります。これは早く憶える必要があるときはとくに役立つ方法で、憶えたい内容をまとめて、それに見出
しをつけるのです。しかもこの見出しは、自分が興味のある、たとえば映画や小説など、なんでもかまいません、それにひっかけてつくります。

 世界史なら、「ジョーズもびっくり、王の首刎ね、独裁政治」を、クロムウェルの政権奪取のタイトルにします。十九世紀末のオーストリア帝国解体は、「ああ恍惚
こうこつ
の人、オーストリア帝国」といった具合です。こうしておくと、あの人喰い鮫の物語『ジョーズ』とクロムウェルの残忍さ、『 恍 惚 の人』とオーストリア帝国の老齢
化、疲弊ぶりが、「対連想」によって記憶に刻みこまれやすくなり、思い出すときも、まず、興味のあるジョーズを思い出せば、対連想によって、クロムウェルが思い
出しやすくなるというわけです。
 とくに、一夜づけで憶えなければならないようなときには、早く憶えることが必要であると同時に、早く憶えることによって生じる障害、つまり記憶が重なり合って
し し ふんじん
しまう危険を避ける必要があります。せっかく憶えたのに、いざテストのときに、どれがどれだったのか、さっぱりわからなくなっては、せっかくの獅子 奮 迅 の努力
も水泡に帰してしまいます。
 そのためにも、自分の趣味や関心事と憶えることとを一つずつ結びつけておけば、ちょうどあやつり人形と指が、たくさんの糸によってつながれ、人形の身体の各部
がバランスよく動くのと同じように、記憶の糸がからまらずに、スムーズにたぐりよせることもでき、記憶が躍動しはじめるはずです。

 英英辞典を使うと、英語特有の言いまわしを早く憶えられる。

 アメリカで、外国人に英語を教える学校(アダルト・スクール)では、母国語のはいっている辞書を使うことがいっさい禁じられています。ということは、日本人
が、この種の学校で学ぶときにも、英和辞典を使えないというわけです。これは、英語を学んでいるときでも、自分の生まれ育った国の言葉で考えるという習慣からぬ
けきれず、結局、日本語的な発想の強い英語を身につけてしまうのを防ぐためです。たとえば、英語の“It's woderful.”という文章にぶつかって、英和辞典でwonderfulをひ
いてみると、「すばらしい、すてきな」などと意味が記されています。すると、日本人は「すばらしい!」というときは、“It's woderful.”と言うんだというふうに思い込
んでしまいがちです。
 しかし、英英辞典でwonderfulの項を調べてみるとmarvelous, fabulous, remarkableなどと説明されているはずです。ですから、英和辞典に頼らず、英英辞典だけを使う
習慣をつけておくと、“It's fabulous.”といった言い換えもスラスラと口をついてくるようになるのです。それだけ、母国語を離れ、〝英語の世界〟へ早くはいれるわけで
す。
 とりわけアダルト・スクールは、もともとアメリカへの移民の教育が主目的ですから、できるだけ早く英語を修得させるのが狙いで、それには、母国語の発想・文脈
と〝隔離〟するのがいちばんいい方法だと考えられています。英英辞典だけを使わせるのはその一手段なのです。
 この方法は、日本での英語の勉強にも十分応用できます。あることを表現するのに、いろいろと言いまわしを変え、言い換えができるようになるのが、語学上達の早
道です。英英辞典は、〝言い換えの宝庫〟であり、英語特有の言いまわしを憶えるのに最適です。また、英英辞典をつねに使うのは、単語力をつけるのにも役立ちま
す。たとえば、moneyを英和辞典でひくと、「金(かね)、通貨」といった意味が書いてあります。これが、英英辞典になると、“current coin; coin & promissory
documents representing it”と説明されているはずです。「通貨」という意味のcurrent coinや、「約束の」を意味するpromissoryなども、moneyとの関連で憶えられます。
このように、いっしょに憶えておけば、たとえpromissoryの意味を忘れても、moneyを思い出せば、イモづる式に記憶のなかによみがえってくる可能性が大きいので
す。
 英英辞典を使うのは面倒くさいようにも思えます。しかし、まさに「急がば回れ」で、はじめは苦労しますが、慣れると、英語の単語や文章に出会うたびに、その言
い換えや類似語などが浮かんでくるようになり、「英語の海」で自由に泳ぎまわるといった感じをつかめるようになるはずです。

 あまり長時間続けると、記憶の能率は著しく落ちる。

 一夜づけでもよいから、なんとか憶えてしまわなくてはならない、といったせっぱつまったときには、どうしても意気込んで、大量のものを一気に憶えようとしま
す。しかし、これが意外とうまくいきません。あまり長く同じ内容のことを学習していると、能率が落ちるからです。それを知らないで、「なんで憶えられないのか」
と焦りだすと、もういけません。さらに能率が悪くなるだけの話です。
 フランスの記憶研究家のフーコーは、ある有名な記憶術師をつかって、記憶する量と、憶えるのに要する時間との関係を調べたことがあります。それによると、記憶
する量が二倍になると、所要時間は四倍、さらに、量が三倍に増えれば、時間は九倍になったといいます。つまり、「学習時間は、内容量の自乗に比例する」わけで
す。もちろん記憶術師は特別な憶え方をしますから、この結果を額面どおりに受取ることはできませんが、一般的に、記憶材料が二~三倍になると、所要時間のほう
も、ほぼ四~五倍には増えると考えていいでしょう。
 これを勉強にあてはめると、英語の単語を、三十分間かかって五十個憶えられたからといって、「この勢いなら二〇〇~三〇〇ぐらい、なんてことはない」と甘く考
えるのは早計だということです。つぎの五十個には一時間以上かかり、ずるずると遅れてくることになりかねません。「こんなはずでは……」と思っても、もうあとの
祭り。一夜づけでは時間が限られていますから、時間配分を誤ると致命的です。
 こんなとき、この「所要時間=内容量の自乗」の法則を知っていれば、暗記を深追いすることはないでしょう。同じ記憶でも、英単語と化学分子式では内容が大きく
異なり、気分も変わってやりやすくなりますから、適当なところで英単語をやめて、化学方程式に〝乗りかえる〟こともできるわけです。翌日の試験の時間割りをにら
んで、どれとどれを組合わせれば、もっとも有効に時間を使えるかを考えてから、勉強に着手するのもいいでしょう。

 最初ノロノロあとドンドンが、記憶のコツ。

 私は、かつて高等学校の受験のときに、記憶をしなければならない英単語を、まず並べてみて、憶えるのにかかる時間量を考慮しながら、時間を配分したものです。
しかも、最初の十分は、二~三個、つぎの十分には四~五個、さらにそのつぎの十分には一挙に十個と、増やしていく方式をとり、これが大成功をおさめることが少な
くありませんでした。今から考えれば、はじめは調子がでないから少なくしようという単純な動機に過ぎなかったのですが、とくに心理学を学んでから、この方法がか
なり科学的な根拠によって裏付けられるものであることを知りました。
 学習の初期には、まだ学習内容を受けとめるだけの記憶の土台がないために、間違いがつきものなのです。しかし、土台がしっかりしてくると、集中的な記憶が可能
になってきます。それに、初期のあいだにがんばって憶えようとすると、間違いを繰返し、その間違いが逆に強化され、能率が悪いだけでなく、間違いが固定される危
険もあります。まずボチボチ、ノロノロはじめて、ある程度〝記憶の地ならし〟のできたところで、一気に走りだすのが効果的な憶え方なのです。記憶はマラソンみた
いなものです。たとえ時間に制限があっても、あまり早くエネルギーを出しきってしまうのは、結果的にはマイナスと言えましょう。

 学習初期に犯す間違いは、繰返さずに休みをとって流れを変える。

 私の友人が小学生のころに、兄の見間違いに対して、「目の錯覚だよ」と言ったところ、兄に「錯覚は目にきまっているじゃないか。目の錯覚なんて言い方は変だ
よ」と笑われ、それ以来どうしても〝目の錯覚〟と言えなくなったという話を聞いたことがあります。「頭ではわかっていても、感覚的に誤りに思えてならないんだ」
とのことですが、このように、最初に間違って憶えると、それが固定化してしまう恐れがつねにあるのです。とりわけ学習の初期には、憶え違いや間違いが多いもので
す。漢字の書取りで〝遊〟のしんにゅうの上の部分を〝放〟と憶えたまま、高校生になってもまだどちらが正しいか迷っている受験生を知っていますが、習いはじめの
記憶の固着は、意外にあとあとまで残るものなのです。
 漢字の書取りにかぎらず、英語の単語の発音・スペリングなどを運悪く間違えて憶えてしまい、しかもその間違いを繰返したようなときは、そのまま進まずに、しば
らく休息を入れることです。こうして、流れを変えないと、その間違いが固着してしまい、容易に消えなくなるのです。しばらくたってから再度挑戦すると、そのとき
が新たな〝最初〟と意識されて、前の記憶に抑えられて憶えられないという「順向抑制」作用に妨げられずに、正しく憶えることができます。

 テストの問題を予想しながら憶えると、頭にはいりやすい。

 これは、ある代議士から聞いた話ですが、国会答弁の前日には、答弁の準備をするために、役人に資料をもってきてもらい、資料にいちおう目を通してから、その当
の役人に、翌日の委員会を想定して、考えられるかぎりの質問をさせるのだそうです。最初は、どこをどうつつかれても困らないための作戦だったのが、こうして質問
に答えていると、不思議にも、知らないうちに資料の全体が頭のなかにはいってしまうといいます。もちろんこれは、勉強にも十分応用のきく方法です。勉強では、国
会の答弁にあたるものがテストです。テストの問題をさまざまな角度から予想しながら憶えていくのです。
 たとえば、英語の単語を憶えるときには、頭のなかで、意味の問題が出る場合、スペルを聞かれたら? アクセントを聞かれたら? という具合に、予想しながら
やっていきます。その単語を含んだ文章を想定して、それに訳文をつけてみることもできます。
 このように憶えると、知識が客観的になる効用があるほか、記憶される素材に多方面から光を当てて記憶を確実にする効果があります。つまり、一方から攻めた場合
はその連関が頭のなかで失われると、それと同時に忘れてしまいますが、複数の手口で攻めると、さまざまに連関して、忘れにくくなる効用があるのです。また、憶え
のど
るからには、その知識が、あとで再生されなければ、まったく意味がありません。憶えたのに、テストのときどうしても思い出せず、「 喉 のところまで出かかってい
たのに」と言ってみても、それは結果的には、憶えていないことと同じです。だから、再生の場面を想定しながら、その記憶を実際に使う形で憶えていくことは、いざ
再生の必要が出たときにすぐ記憶が浮かびあがってくる駆動力をつけることにもつながるわけです。

 頭にはいらなくなったら、机から離れてみる。

 何がどうなってしまったのか、頭がすこしも情報を受けつけてくれない、憶えようとするとすぐにはねかえされてしまう――というデッド・ロックの状態に陥ること
がよくあります。
 こんなときは、さっさと机の前を離れることです。といっても、憶えるのを放棄するわけではありません。私は、机の前を離れると、よく庭へ出て、イスに坐って庭
の芝生を見つめることがあります。こうすると、気分がまるで違って、疲れた精神が息を吹返すのを感じます。
 このように、袋小路のような状態になったら、環境を変えて、記憶するようにすることです。外へ出て電車に乗るのもいいでしょう。座席に坐って、改めて憶えはじ
めると、環境の変化で、脳の〝ご機嫌〟が直ったのかと思えるほど、スムーズに憶えられます。
 また、環境を変えてみるのは、あとで思い出す場合にも、好都合なことがよくあります。試験のときに、憶えた内容をすっかり忘れていても、まずどこで憶えたかを
思い出すと、それがきっかけで、記憶をたどることができるからです。とりわけ、長時間ぶっとおしで頭を使う一夜づけのような場合は、環境を変えるのがむずかしい
だけに、坐り場所を変えたり、道具を変えたりする、ちょっとした工夫が記憶の量を大きく左右します。

 ときには要求水準を下げることが、記憶を促す。

〝早憶え〟や〝速憶術〟が必要になるのは、どうしても、ふだんからの用意を怠っていて試験直前に一夜づけをしなければならないといった場合に多いようです。一夜
づけでもなんでも、真剣に勉強にとりくみ、合理的な方法で確実な記憶を獲得するかぎり、なんら非難される筋合いはありません。しかし、この一夜づけを効果的にす
るには、逆に一夜づけにあまり大きな期待を抱かないという、一見矛盾した原則をわきまえることが必要なのです。
 というのは、野菜の一夜漬けが、長いことじっくり漬けこんだ古潰けの、深い味には及ばないのと同じく、日ごろ丹念に勉強を続けてきた場合に比べて、一日や二日
の勉強で達成できる可能性が低くなるのは当然だからです。
 そこで、一夜づけをしなくてはならないときは、満点や九〇点、八〇点を取ることはあきらめ、七〇点を目標にします。こうすれば、同じ時間でもそれだけ内容を
絞って憶えることができます。つまり、無理やり一〇〇の内容を詰めこんで、すべてがあやふやになり、五〇点に落着くより、七割の中身を確実に憶えて、ぬかりなく
七〇点を獲得するほうが賢明であり、実戦向きの戦術なのです。記憶には、このように要求水準を下げることによって確実になる側面があります。

 慣れ親しんだものを身のまわりに置くと、記憶の出入りがスムーズになる。

『スイスイ受験術』にも書きましたが、私は、受験の当日には、着慣れた服を着て、使い慣れた筆記用具を持参することをすすめています。たとえ消しゴム1つでも、
慣れ親しんだものは、便利なばかりでなく、自分の一部のような気がして気分が落着くものだからです。
 憶えるときもそれと同じで、近くに日ごろから親しんでいるものを置くと、不思議に気分がゆったりして、よく憶えられるのです。それは、好きなスターの写真を入
れたロケットでも、いつも、ポケットのなかでガチャガチャいわせているカギ束でもかまいません。気が安まり、快い感じになるだけでいいわけです。
 アメリカで、小学校にはいったばかりの生徒に、幼いころから愛用しているブランケットをわきに置いて勉強させたところ、それをもたないときに比べ、ずっとよく
憶えたという実験結果もあります。
 ブランケットや人形、あるいはロケット、カギ束といった愛用品は自分の分身であり、心理学で言う「延長自我」にあたります。それがあることによって、自我の拡
大ができ、自分が自由にできる範囲が広まったように感じられて、アット・ホームな気分になるわけです。ちょうど、外から家に帰ってきたときにくつろげる、という
気分と同じです。愛用品に暖かく守られて、緊張を解き、なんでもできると思うことが、記憶を促進させるのでしょう。
 これは、憶えた知識を思い出すときにも役に立ちます。愛用品をそばにおいて憶えたことは、思い出すときに、まず、そのときの状況から思い出し、そのものとの関
連でなにを憶えたかがよみがえってきます。愛用品は、記憶再生のきっかけとして機能するのです。
 とりわけ、明日の朝までに憶えてしまわなくてはというせっぱつまったときには、緊張が記憶を抑制することになりかねません。いつも慣れ親しんだものを勉強机の
上に置くだけでも、リラックスでき、短い時間をより有効に使えるはずです。

 苦労して解いたものは、一発で憶えられる。

 たとえば数学や物理の苦手な人の中には、むずかしい問題にぶつかると、あまり考えもせずに、すぐ正解を見てしまう人が多いのではないでしょうか。「ああ、そう
か。案外やさしいじゃないか」と勝手に納得して、もうわかったかのような気になってしまうのです。しかし、これがくせもので、こんな形で納得したことは、しばら
くするとすっかり忘れているのに気づくことが珍しくありません。これに対して、問題解決までにあれこれと試行錯誤を繰返し、苦しんで答を出したものは、いつまで
も鮮明に記憶に残ることが明らかになっています。これは、たんに時間をかけたからとか、あるいは苦しめば報いられるという精神論からではなく、頭の中のしくみの
うえに大きな変化が起こるからなのです。
 これについては、ドイツのゲシュタルト心理学者ケーラーの有名な実験があります。チンパンジーのオリのなかに箱を置いて、これを踏み台にして天井から吊り下げ
られたバナナをとる作業をさせるものです。これは、チンパンジーにとってはとてもむずかしい仕事で、はじめチンパンジーは、踏み台を腰掛けとしか考えません。あ
れこれとバナナを取る試みを繰返すうち、ある〝ひらめき〟が起こって、踏み台をバナナへ接近するための手段と知るようになるのです。それまで、オリのなかを歩き
まわり、踏み台に腰かけているだけだったチンパンジーが、突然踏み台に乗って、バナナに手を伸ばすわけです。
 心理学では、この変化を「認知構造の変換」と名づけます。一般的には、同じものが、いままでとまったく異なった機能をもつものとして、認知されるに至ることを
いいます。
 チンパンジーの仕事と勉強とを、まったく同列に考えることはできませんが、基本的には同じことです。試行錯誤を繰返すうちに、あるひらめきから問題が解けると
いうことは、問題を解決する「見通し」ができると同時に、その問題がどういうしくみになっていて、どこに解決のカギがあるのか、構造的にとらえられるということ
です。たんなるカンやまぐれで問題が解けたのとは違って、問題の中にあるポイントを的確にとらえ、その問題を本質的に理解したことになるのです。いままで真っ暗
だった前途に、一条の光が貫き、「解決法」を照らしだしたかのように感じられるでしょう。
 そうなると、たった一回の経験でも、記憶には鮮烈に残らずにはいません。基礎的な公式でも、ただ公式としてまる暗記するのでなく、苦労してでも、自分で証明し
てみるとよく記憶できるのも、公式を単純な〝形〟としてでなく、構造としてとらえられるからにほかならないのです。

 一夜づけでも、朝、ポイントに目を通せば記憶が倍増する。

 昨夜憶えたからもう大丈夫と安心しきって、翌朝試験に出かけたらまるで思い出せず、途方にくれたという経験は、だれにでもあるでしょう。
 このことはドイツの心理学者エビングハウスが、すでに十九世紀に実験によって明らかにしています。完全に憶えたものでも二十分後には四二パーセントが忘れら
れ、一時間後には五六パーセント、九時間後には六四パーセントが忘却のかなたに運び去られるのです。つまり、記憶は、そのままでは、一晩どころか半日ももたない
のです。この実験は、意味のない文字の羅列について行なわれたものですが、意味のある系列についても、忘却率は変りますが、原理的には同様の傾向があります。つ
まり、忘れないためには、この忘却率があまり高くならないうちに再刺激を与えなくてはならないのです。
 そのためには、一夜づけをしたときなど、眠ったあとの復習がぜひ必要です。しかも睡眠中は、記憶の痕跡は、量的には減っても、スジの通ったものや形のよいも
の、あるいは関連したものが集まって整頓(「体制化」と言う)されるようです。そこで、出かけるまえに、一度ポイントに目を通しておくと、記憶はより確実なもの
になり、一夜づけの効果を倍増させることができるのです。
 ノートの量は少ないほど、全体の記憶に役立つ。

 大学での講義のとき、教壇から見ていると、私の講義内容を一宇一句洩らさず書きうつしている学生がよくいます。私が冗談のつもりで言ったことまで書いているよ
うに思えて、かえって、当惑してしまうことさえあります。そして、じつはこのような学生にかぎって、話の理解度は浅く、試験の結果もよくないことが少なくないの
です。
 熱心なはずの彼らが、なぜ成績が悪いかといえば、ノートをそれ自体一つの目的にしてしまっているからです。ノートは本来、記憶や理解の補助具にすぎません。ど
こにノートするといって、自分の頭の中にノートするのがいちばんいいのにきまっています。それが、記憶であり理解というものです。いくらノートにぎっしりと知識
を詰めこんでも、頭の中に残らなければまったく意味がありません。しかし、人間はノートに記入すると、それで自分の知識がそれだけ増えたような妙な錯覚をもつ傾
向があるのです。しかも詳しくノートするという作業は、たいへんな労力を要します。この労力のため、本当の記憶や理解がおろそかになるのでは元も子もないでしょ
う。ノートは最少限のキーワードにとどめ、そのキーワードで記憶を想起する作業を繰返すことによってこそ、記憶は確かなものになっていくのです。
 あらゆる知識も一網打尽の〝多憶術 〟
〈この章のはじめに〉

 中間試験や期末試験を目前にひかえ、あるいは来たるべき入学試験の準備にかかろうとして、記憶すべき内容のあまりの多さにげんなりして、しばらくは勉強する気
も起こらないといった経験はどなたもおもちのことでしょう。毎日、一時間ずつの授業ではたいした進み方でもないような気がして、つい油断しているうちに、それが
積み重なってうんざりするほどの量になってしまうことはよくあることです。こんな尨大な量の記憶が、混乱なくこの限られた頭脳のスペースにいったい収まるのだろ
うかと、不安にもなるでしょう。こんなときほど、短時間のうちに量をこなす妙手妙案が望まれることはないでしょうが、じつは打つ手がないわけではないのです。
 まず言えることは、記憶内容の「量」に驚かされてはいけないということです。科学的記憶術の立場から言えば、たとえどんなに莫大な量であっても、そのすべて
を、きわめて整然と記憶のヒダに刻みこむこともけっして不可能ではないのです。その具体的な方法については本文でくわしくふれるとして、ここではそのための基本
的な考え方をお話しましょう。
 その一つは、関連することがらをまとめて、量を少なくしてしまうことです。記憶というものは不思議なもので、他の記憶内容と切り離して単独で記憶しなさいとい
われると、かえって憶えにくくなるものなのです。たとえば、英単語を憶える場合でも、ある一語を切り離して機械的に暗記するよりは、その語の語源、反対語、類似
語、名詞形、形容詞形、副詞形など、その語に関連する一群の事項をそのままそっくり憶えてしまったほうが、かえって早く、正確に憶えられるのです。
 多量のものを憶える場合に重要なもう一つのポイントは、〝記憶痕跡をミックスさせるな〟ということです。記憶痕跡というのは、憶えたものが脳に刻みこまれたと
いう印ですが、よく似た内容を短期間に頭の中につめ込んでしまうと、記憶痕跡のあいだに混乱が起こって、いざ思い出そうとしても、どれがどれだかわからなくなっ
てしまうのです。修学旅行などで、京都の寺を一日でグルグル回って帰ったあと、いざ思い出そうとしてもお寺とお寺が重なり合って、どこに何があったかさっぱりわ
からないという現象が起こるのもそのためです。
 こうしたことを避けるためには、記憶の仕方にもおのずから工夫が必要になってきます。同じ時間を勉強するにも、あいだに休憩時間を入れるとか、似たような性質
の科目は続けてやらないといったことも、そのための工夫の一つです。要は、莫大な記憶材料を、どのような手順で、どのようにして憶えていったら、能率よく、しか
もしっかりと頭の中に根をおろすかです。これからお話する「多憶術」の一つ一つを巧みに活用すれば、莫大な量など恐れるにたりずです。

 楽しいことに結びつけて憶えるかぎり、記憶に限度はない。

 中・高・大学生に、「心にいちばん残っていること」という作文を書かせたところ、いろいろな思い出話の中でも、楽しい話がもっとも強く記憶されていることがわ
かりました。人は、幼時からさまざまな体験をしていますが、一般に悲しいことやつらいことは忘れられ、楽しかったことは記憶に留まりやすい傾向があります。精神
分析の祖フロイトはかつて、「自我に脅威を与える(Ego-threatening)ようなことがらは、無意識の世界に抑圧されて、なかなか意識レベルに上昇してこない」という
意味のことを言ったことがあります。私たちが、ときに、「暗い記憶」を夢に見るのは、そこが無意識に支配される世界だからでしょう。
 こうした人間の精神活動を考えると、何かを記憶するときには、できるだけ楽しい体験と結びつけると憶えやすいことがわかります。いかに嫌いな化学分子式でも、
苦虫をかみつぶしたような顔で憶えたのでは、すぐに、無意識の世界に送りこまれかねませんが、たとえば、「酸化第二鉄」の分子式だったら、鉄腕アトムをはじめて
読んだときの感激を思い出し、「塩化ナトリウム」なら、友だちが間違えて塩をコーヒーに入れて飲んでしまった笑い話を思い出します。楽しい話のオブラートに包ん
だ知識なら、どんな難物でも、スラスラといくらでも頭にはいるのです。

 タテ・ヨコの関係をはっきりさせると、記憶は一挙に倍増する。

 最近、テレビの幼児番組を見て興味を感じたものは、平仮名を一字書いたフレームを横につなぎ合わせて意味のある言葉をつくり、さらにそのなかの一字を基点にタ
テに別のフレームをつらねて、別の言葉をつくるゲームです。
 これは、文字を憶える場合だけでなく、タテ・ヨコという位置の相関関係が、記憶量を増やすうえでひじょうな効果を発揮することを示しています。たとえば、いま
まで日本史を時系列でタテに憶えていたのなら、一度ヨコの関係に注目してみることです。日本史と世界史をつなぎ、大きな表にして憶えます。これで、タテの日本史
と、ヨコに位置する同時代の世界各国史との関係が、記憶の中にしっかりとらえられます。
 あるいは、ヨーロッパには、チャールズ(シャルル、カール)という名まえの国王がたくさんいます。しかし、何世であるかを正しく憶えるのはなかなかやっかいで
す。そこで、各時代をヨコにとらずに、チャールズというタテの線できって系列をつくって憶えると、各王の差異が理解でき、ヨコの関係の位置づけもはっきりしま
す。このように、タテ・ヨコの交点で憶えるこの方法は、結びつきが複雑な歴史などで、記憶量を一挙に倍増する効果をもつのです。

 順序を憶えるときは、不変の順序をもったものと対照して憶えるとよい。

つい
 かつて、私の友人に、英語の十二ヵ月を、家族と 対 にして憶えていた男がいました。すこし長くなりますが、その憶え方を紹介すると――一月は、じいさん金持ち
で銭有り(January)。二月は、ばあさん金使い荒くてヘブラリ(February)。三月は、おやじかじいさん死ぬまでマーチましょう(March)。四月は、おっかさん怒っ
てエイプリプリ(April)。五月、兄貴で明治大学(May)。六月、姉貴は純情(June)。七月、オレで自来也(じらいや)大好き(July)。つぎはヨオーガス
ト(August)引受けた弟。セプテン、オクトとつまって九、十月(September, October)。十一月までノベンバー(November)。いよいよ最後で、ウチのポチはジス
テンバーでポックリいった(December)。
 Julyの自来也とはかつて子どもたちに人気のあった映画の主人公で、ドロンドロンとカエルなどに変身したスーパーマンのことです。
 この例は、祖父、祖母、父、母……という、だれにも明瞭な家族の順序を、英語の月の順番に結びつけたものですが、このように、順序どおりに憶える必要のあるも
のは、もう一方にその順序を絶対に忘れないような「対」を置き、それにからめて憶えるとスムーズに憶えることができます。これは、学習心理学で「対連合学習」と
呼ばれている方法の一つで、たとえ憶えたいことを忘れても、一方の「対」さえ憶えていれば、もう片方もイモづる式に思い出されてくるというわけです。この場合
は、家族の序列は変わりようがないものですから、たとえ、Marchが何月だったのかを忘れたとしても、三番目は「おやじ」ですから、「マーチましょう」がでてくる
というわけです。
 この方法は、世界史、日本史、社会、地理など、多くの記憶材料が並列していて、しかも、その順序を間違えてはならないようなときにひじょうに役立ち、そのまま
一網打尽に憶えることができるのです。

 憶えたい言葉を散りばめたストーリーを創作すれば、一気に憶えられる。

 すでにたびたび述べてきましたが、バラバラの知識ほど憶えにくいものはありません。たくさん憶えなくてはならないときには、それらを一挙にまとめて憶えてしま
うほうが能率的であり、しかも記憶に固定しやすいのです。
 そのために、古来、記憶術でよく用いられているのが、憶えたい言葉を一つの文脈のなかに入れこんで、一つのストーリーをつくりあげ、全体の流れのなかで憶えこ
む方法です。
 それには、第一に、バカげたストーリーをつくりあげることが必要です。三〇〇〇年前に書かれた羊皮紙の本『アド・ヘレニウム』にも、「人は、ありふれたことが
らを一般に憶えていないが、奇抜で、不思議な、法外な、といったばかげたことを見たり聞いたりすれば、長い時間憶えている」といったことが書かれています。異様
なことほど記憶に残るのです。
 第二には、イメージ化することです。ちょうど映画のように仕立てあげるのです。単語ならば、イメージを浮かべやすいものに変えて、そのイメージをつなげて、ス
トーリーをつくります。つまり、アニメーションのように、ばかげたシーンが連続するストーリーを創作して憶えるわけです。
 たとえば、tree(木), airplane(飛行機), submarine(潜水艦), telephone(電話), automobile(自動車), squirrel(リス)の六語を憶えるとしましょう。
 大きな木(tree)が、枝を張って、空へ突き出ているイメージを思い浮かべます。なぜか、この木がロケットのように上昇を開始し、根がバリバリと音をたてなが
ら、地上に露出してきます。木は、やがて空中に舞いあがり、飛行機(airplane)のように飛び去ります。根から落ちた土が、地上にパラパラと舞い散ります。
 海上に出た木の飛行機は、突然墜落し、海中に姿を没したかと思うと、ビートルズの曲に乗って、黄色い潜水艦(submarine)に変身。潜水艦のなかでは、やはり黄
色い電話(telephone)が鳴り続けています。だれも、電話に出る者はいません。潜水艦の後尾から、スーッと自動車(automobile)があらわれ、バックミラーが伸び
て、受話器をつかむと、受話器からは、声の代わりにリスが一匹。ミラーの腕を伝って、自動車のなかにはいり、運転席にチョコンと坐ると、そのまま自動車を運転し
て走り去る。といったストーリーになります。
 アメリカで行なわれた実験によると、このストーリー化法は、バラバラに憶えるより七倍も保持率が高いという結果が出ています。ですから英単語や歴史的事件のつ
ながりなどの記憶には、ぴったりなのです。

 接続詞に注意すると、歴史の流れが憶えやすい。

 歴史を勉強するとは、極言してしまえば、ものごとの原因と結果を学ぶことです。何が原因でどういう結果が生まれ、その結果がまた原因となってどうなったか、と
いう因果関係をつかめば、歴史の流れがわかります。
しょうとくたい し そ が うま こ すい こ
 たとえば、「 聖 徳 太 子の死後、蘇我一族が権勢をのばした」という事実を、はっきりと「流れ」として記憶するには、「聖徳太子が死んだ後、 馬 子は 推 子天皇
やましろおおえのおう えみ し
に、領地を請うた。しかし、天皇は、これを断わった。そして、天皇は 山 背 大 兄 王 に皇位を譲る遺言をのこして亡くなった。ところが、馬子の子 蝦 夷らが画策し
じょめい
て、大兄王ではなく、 舒 明 天皇を位に就け、大兄王を殺害した」と、接続詞に気を配って憶えるのです。
 接続詞を記憶することで、脈絡が鮮明になります。普通は、接続詞は「従」の役割に甘んじているのですが、事実間の関係の記憶に際しては「主」にし、事実を
「従」と考えるのです。こうして、接続詞をしっかり憶えておけば、たとえ、一つや二つ事実を忘れたとしても、大筋が崩れることはありません。しかも、原因と結果
は、接続詞によって結ばれていますから、年代の順序をとり違えることもなくなるでしょう。

 歴史上の人物は、身近な人と結びつけると憶えやすい。

さいごうたかもり しょうとくたい し
 あなたは、歴史上の人物のなかで、ソクラテス、プラトン、ナポレオン、 西 郷 隆 盛 、 聖 徳 太 子のうち、どの人に親しみを感じるでしょうか。おそらく、西郷隆
盛や聖徳太子でしょう。ソクラテスやプラトンの名はど忘れすることがあっても、けっして西郷隆盛や聖徳太子の名を思い出せないことはないでしょう。これはなぜで
しょうか。ソクラテス、プラトンは、ずっと過去の人であり、ナポレオンは時代的にはそう古くありませんが、外国人であるためやはりあまり親近感が湧きません。そ
れに比べて、西郷隆盛も聖徳太子もまず第一に日本人であり、前者はまだ死んで百年前後、おまけに東京・上野公園の銅像は、ほとんどだれでも知っています。また後
者は千数百年前の人とはいえ、お札で日々にお目にかかっているので、心理的距離は近いものがあります。つまり、自分の生活に密着度が高い人物ほど、親しみやすく
憶えやすいのです。
い のうただたか かい
 そこで、歴史上の人物を憶えるときには、逆に意識的に身近な人と結びつけてみるのも効果的です。「伊 能 忠 敬 のワシッ鼻は、あの魚屋のおやじそっくりだ」「 貝
ばらえきけん
原 益 軒 は、男のくせにおちょぼ口で、いとこの○○みたい」などと、顔の印象や類似点・共通点を、身近な人の中から見つけます。遠い存在だった人物が、心理的な距
離を短縮されて、すっかり憶えやすくなるはずです。

 類似した漢字は、五七調の短文をつくって憶える。

 漢字は、「感字」とあて字をされることがありますが、そのとおり、文字の感じで使う場合が多いので、類似した漢字を正確に憶えていないと、しばしば、「どっち
だったかな」と迷ってしまいます。私なども、「盆栽」の「盆」だけ書いて、サイは「裁」だったか「栽」だったかと、一瞬ペンをとめてしまうようなことがよくあり
ます。
 漢字は、どんなに複雑なものでも、何種類かのヘンとツクリから成り立っており、わずかな部分の違いでまったく別の意味になるものが少なくありません。そのた
め、類似した漢字は、その相違点に注目して、正しく記憶しなければならないのですが、そのとき効果を発揮するのが、五七調や七五調の短文です。五七調や七五調
は、日本語の言語構造に特有のもので、日本人の心にピッタリくる快いリズムなので、これを利用すると、いったん憶えたものはいつまでも頭の中にしみついて離れな
くなります。
 たとえば、「巳」(み)、「已」(すでに、やむ、のみ)、「己」(おのれ)を、間違えないようにするには、「ミ(巳)は上に、おのれ、つちのと(己)下につ
き、すでに、やむ・のみ(已)なかほどにつく」と和歌に仕立てあげます。
のぼり はば
「識」「職」「織」「 幟 」は、「言うはシキ、耳ショクなれば糸はオル、 巾 ヘンこそはハタジルシなれ」となります。
と ザク ロ スモモ カラモモ
 江戸時代につくられた「歌字尽し」のなかにも、「石留むるザクロなりけり、兆はモモ、木の子、木の口、スモモ、カラモモ」( 柘 榴、桃、 李 、 杏 )、慕、
ひきがえる シン ちから ひ むし つち はば
募、暮、 蟇 、墓、幕を歌いこんだ「 心 シタウ、 力 はツノル、日はクレる、 虫 ヒキガエル、 土 ハカ 巾 マク」などの傑作があります。
 調子がいいので、一度憶えてしまえば、容易に間違うものではありません。さらに一歩を進めて、自分が間違いやすい漢字をリストアップして、語呂を合わせ、自作
の「歌字尽し」を創作してみるのもいいでしょう。
たい
 私の間違えやすい栽と裁、それに戴を含めて、「法衣を着るのが裁判官、木を育てるのが盆栽で、異人の頭に 戴 冠式」とするとか、大学生になってもまだ間違えて
いる人の多い「専門」「学問」「訪問」の門と問は、「一門の門人多し専門家、道問う学問、人問う訪問」などと憶えておけば、けっして忘れることはないでしょう。
こうしてつくった五七調の短文が、あとあとまで記憶の鍵になるのはもちろんですが、歌をつくる作業をしているあいだに、何度も漢字を眺め、さまざまの角度から語
呂合わせの方法を探しますから、自然に間違いをはっきり自覚し、訂正するようになるという効用もあるのです。

 頭文字を並べて、意味のある言葉・文章をつくって憶える。

さむらい
 私が、小学校の二年生のときだったと思いますが、若い先生が、黒板に二、四、六、九、十一と書いて、「西向く 士 、小の月、と憶えるとすぐに頭にはいる」と
言ったとき、幼い私はよほど興味をそそられたらしく、いまだにその光景が頭の中に残っています。だれもが小学生時代に教わることでしょうが、二月、四月、六月、
九月、十一月が、三十日までしかない小の月だというのです。事実、そのとき以来、私は、三十日までしかない月が何月なのか、「西向く士」を唱えるかぎり間違えた
ことがありません。もし、この憶え方がなかったら、ときどきは不安になって、カレンダーを確かめなくてはならなかったでしょう。
 このように、頭の文字をまとめて並べ、意味のあるリズミカルな文章にしてしまうと、数やアルファベット、あるいは漢字の列が、いくつでも頭にはいってしまいま
す。
 その例をいくつかあげてみましょう。
すいきん ち か もく ど てんかいめい
「 水 金 地火 木 土 天 海 冥 」(太陽に近い順に並べた惑星)
「アオキミ、アイス」(赤、オレンジ、黄、緑、青、インジゴ〈藍〉、すみれ色――虹の七色の順)
「貸そうか、まああてにすな、ひどすぎる借(白)金」(K Na〈ソーダ〉 Ca Mg Zn Al Fe Ni Sn Pb Cu Hg Au Pt――金属のイオン化傾向)
「キロキロとヘクトデカけたメートルが、デシに追われてセンチミリミリ」(長さの単位の大小順)
 この最初の例は、意味よりも、むしろリズムで憶えてしまうものです。自分にとって憶えやすいリズムならたとえ意味はなくても、口ざわりだけで長く記憶できるも
のです。私の妻などは、ボクシングの階級名を軽い方から順に、「フバフラ、ウミラヘ」と記憶しています。フライ、バンタム、フェザー、ライト、ウェルター、ミド
ル、ライト・ヘビー、ヘビーの頭文字をとっただけですが、なにかお経のリズムのように快いのではないでしょうか。
 あなたも自分のリズムを作ってみることをおすすめします。

 暗誦は、読む時間の四倍ぐらいをあてたときもっとも効果が出る。

 暗誦の能力は、年齢によって、ひじょうに異なります。年齢が上がるにつれて、なかなか暗誦することができなくなります。外国語を勉強するのに、高年齢になるほ
ど遅々として進まないのは、そらんじる、つまり暗誦する能力が低下することも一因になっています。
 私は、いまだに、中学校のときに学校へ通うみちみち暗誦した英語のリーダーの文章を、よく憶えています。これがいま、文章を書くのに、どんなに役立っているか
知れません。このように、年齢が若いうちの暗誦は、たんなる機械的なものでなく、意味や内容を理解しながらやると、その場かぎりの必要だけでなく、長く知識とし
て血肉化することが多いのです。
 もちろん、テストのときには、何のヒントもなく、つまり手がかりが全然ない状態で、再生を要求されることが多いので、はっきり記憶に定着させてしまう暗誦が、
おおいに役に立つことは当然です。
 この暗誦を、どのような形ですればよいかについて、学習心理や記憶の研究で知られるゲイツという学者は、つぎのような実験をしました。無意味な綴りを十六個憶
えるのに、九分間の時間を与え、全時間を読むことにあてるグループ、五分の三が読みで五分の二を暗誦にあてるグループ、五分の二が読みで五分の三が暗誦のグルー
プ、五分の一が読みで五分の四が暗誦のグループに分けて、記憶の良否を調べました。
 すると、暗誦の時間配分が長くなるにつれて、記憶量が増えたのです。第一の、すべて読みにあてる場合は、直後の記憶が三五パーセントだったのに対して、最後
の、五分の四を暗誦にあてた場合は、記憶が、七四パーセントと二倍以上に伸びました。
 そればかりではありません。四時間後に調べたところ、全時間読みが十五パーセントしか記憶していないのに、五分の四暗誦では、なお、四八パーセントと、半分近
くは、記憶に残っていました。時間がたつにつれ、その差も拡大したわけです。
 これでわかるように、暗誦に多くの時間をさけば、記憶の量が多くなるばかりでなく、記憶したものを、長く保持できることになります。ゲイツの実験によると、読
みを「一」にして、暗誦を「四」にすると、もっとも効率がよいというのです。
 暗誦の場合、よく、「日本語の文章なら簡単だが英語はどうも」と言う人がいます。これは〝食わず嫌い〟以外のなにものでもありません。一見するとむずかしいの
で、そう思ってしまうだけのことです。英文には、独自の流れやリズムがありますから、しばらく暗誦をくりかえすと、意外に簡単に憶えられるものです。

 憶えたいものとかけはなれた連想ほど、印象に残りやすい。

 たくさんのことを短時間で憶えようとすると、最初のうちはさほどではありませんが、時間がたつにつれ、頭の疲れと、記憶内容の類似や重複のため、記憶があいま
いになったり、飽和現象のためいっこうに憶えたいことが頭にはいってくれないことがよくあります。
 これを防ぐために昔から考えられているのが、「連想」を利用した記憶法ですが、これにも一つのコツがあります。それは、連想によって結びつける相手のものが、
憶えたい内容とできるだけ異質で、大きくかけはなれたものであるほどよいということです。
 私は、学生時代にcontemporary(現代の)という英語を、「現代にこのテンプラあり」と憶えたのを、今でも忘れません。「現代」と「テンプラ」とは、なんの関係
もないナンセンスな結びつきです。しかし、そのためにかえってこの記憶が鮮明に頭に残っているのです。家を出るとき、電気器具のコンセントを抜いたかどうか不安
になることがよくありますが、こんなとき、「コンセントを抜くと、そこからヘビが出る」などという連想によってその行為を確かめる生活の知恵があります。英単語
にも、歴史や地理、自然科学上の知識にも、こうした一見奇抜で突拍子もない連想が、類似の内容を他とはっきり区別し、鮮明に記憶にとどめる効果をもつのです。

 「一歩後退、二歩前進」で憶えると、確実に早く憶えられる。

 記憶を確実にするには、反復が必要なことは言うまでもありませんが、かといって反復にあまり時間とエネルギーを費やしてしまうと、どうしても前へ進むのが遅く
なります。できるだけ早く前へ進みながら、しかも確実に記憶を豊富にしていく方法はないものだろうか、これは受験生などからよく聞かれる質問ですが、私はその方
法の一つとして、後退しながら前へ進む「仕進反復法」をすすめています。
 この方法では、たとえば記憶しようとするものを、まず三つの部分に分けてみます。そして、第一の部分を読み終わったら、すぐ第二の部分に移ります。第二の部分
が終了した段階では、第三の部分に進まず、最初まで戻って第一の部分と第二の部分をともに勉強、つまり反復して、それから第三の部分へと前進します。もちろん、
第三の部分が終わったら、全部もう一度やり直して記憶を強化します。これが、「漸進反復法」の特徴です。この方法で憶えれば、時間の経過によって自然に起こる記
憶の脱落現象を防ぎ、〝後顧の憂いなく〟前進することができます。また、完全に反復するのではなく、これからやる困難な部分を既知のものとミックスさせることも
できますから、全体を通じてひとつの思想を表現しているものを理解し、記憶するには好適です。

 新しい部分を既習の部分につぎ足す「直接反復法」も、記憶を正確にする。

 記憶を正確にする方法として、「漸進反復法」とともに「直接反復法」という記憶もあります。これは、「漸進反復法」が、第一の部分が終わったらすぐに第二の部
分に進むのに対して、第一の部分が終わったら第二の部分に進まずに、第一の部分の最初に帰って再出発して第二の部分に進むのが特徴です。既習の部分に、つぎつぎ
に新しい部分をつぎ足していくわけですが、この記憶法では、つぎ足し部分が増えるにしたがって前に習った部分の反復が多くなり、最初は多少時間はかかりますが、
記憶は確実に自分のものとなります。
すず き しんいち
 バイオリンの早期教育の権威である 鈴 木 鎮 一 氏の教育法が、まさにこれです。鈴木氏の教室では、「キラキラ星」という曲がスタートの曲になっていますが、つぎ
の曲に進んでもたえず最初の「キラキラ星」に戻りますから、四、五歳の幼児でも、外国人が驚くほどみごとにこの曲をひきこなしています。鈴木氏は、人間が母国語
を憶える方法からヒントを得たそうですが、たしかに母国語は、母親が繰返し同じ言葉をきかせることによって、子どもの頭のなかで血肉化し、固着します。記憶で
も、初歩にかえってつぎに進み、繰返しの回数を多くすればするほど、スピードもあがり、より多くの記憶材料をこなしていけるはずです。

 数字も、それに意味をもたせると憶えやすくなる。

 一度聞いただけの電話番号を、不思議によく憶えている人がいるかと思えば、自分の会社の電話番号すら、すぐ忘れてしまう人がいます。おそらくこれは、頭のよし
あしによるのではなく、記憶の仕方そのものに問題があるのでしょう。数字をよく記憶する人は、数字を単なる記号としてではなく、記憶するときに何らかの意味を与
えています。たとえば、0.354というきわめて抽象度の高い数字を、子どもが一度聞いただけで憶えてしまうのも、それが王選手の打率という意味をもっているからで
す。一八六八という電話番号も、それだけではなかなか憶えられませんが、歴史に興味のある人なら、これを明治維新の歴史年号だと意味づけすれば、簡単に記憶でき
るはずです。歴史で年号を憶えるのが苦手だという人がよくいますが、これも、ただまる暗記しようとせず、何らかの意味づけをすればすぐ憶えられるでしょう。
 たとえば、神聖ローマ帝国が崩壊した年号、一八〇六年を憶えるにも、その前後にある事件との関連を知って意味づけすれば、具体性のある数字として記憶されま
す。数字に弱いという人は、この意味づけを怠って、ただまる暗記しようとするからなのです。自分の好きなことがらと関連づけて数字に意味をもたせれば、苦手の数
字もスイスイ憶えられるに違いありません。

 憶える内容の正確さをチェックしてはじめて、記憶は増える。

「人の記憶ほどあてにならないものはない」とよく言われますが、その典型的な例が事故現場の目撃者の話でしょう。事故後数時間しかたっていないのに、「歩行者
は、青信号で渡っていて、そこへ、ブルーのライトバンが進入して、はね、そのまま逃げた」と言う目撃者がいるかと思えば、「いや、歩行者は、赤信号で渡ってい
た。はねた車の色も、グリーンだった」と主張するべつの目撃者も現われるのです。あとで調べてみると、ある部分の記憶は正確でも、他の部分の記憶はじつに不確か
なことが多いのです。
 このように、人間は自分の記憶にだれもがみな確信をもっているようですが、いざ細部まで問いつめられると、とたんに記憶があやふやになってしまう場合がじつに
多いのです。こうした記憶の不確かさは、直観とか先入観などによって起こりますが、不正確な記憶が、事件を長びかせたり、迷宮入りさせたケースは枚挙にいとまが
ないといわれます。記憶がまったくないほうがましなくらいだと嘆く刑事もいるほどです。勉強でも、不正確な憶え方をするくらいなら、まるで憶えてないほうがよい
ことがよくあります。
 たとえば、単語カードなどで、「高い」という日本語からくる語感で、highもtallもexpensiveもみな「高い」と憶えこんでしまったとしましょう。これではまるで同
意語になってしまいますが、ご承知のように、この三つは、それぞれ異なった意味をもっています。highは普通には「高所の」の意であり、tallは「背が高い」であり、
expensiveは、「値段が高い」ということです。ところが最初に不正確な憶え方をしてしまうと、「あの山は高い」という英作文を、“That mountain is tall.”などとする初
歩的なミスを犯しがちになります。これでは、憶えなくても同じことです。いや、正確に言えば憶えているということにはならないでしょう。
 そんな間違いは、英語を知らない人がやることだと笑えるでしょうか。日本人はよく、英会話で「私の家は狭い」と言いたくて、“My house is narrow.”と平気で言うそ
うです。これを聞いた外人が、「そんなに狭くては、立って眠るのか」とたずねたという笑い話があります。もちろん、これは、“My house is small.”などとしないと意
味が通じません。narrowは「幅が狭い」という意味だからです。これなども、英語を知らないということ以前に、単語を正確に憶えなかったところに問題があると言え
るでしょう。そうした危険を避けるためにも、一度記憶したことでも、その内容が正確であるかどうかをつねにチェックすることがだいじです。このチェックを怠る
と、誤った記憶がしだいに強化され、何度も同じ誤りを繰り返すことになります。正確さに自信がなければ、ときには憶えるのをやめるぐらいの「厳しさ」も必要で
しょう。

 試験で間違えた箇所こそ、記憶するチャンスである。

 一度終わった試験など、振返りたくもないのが人情かもしれませんが、試験こそ、記憶を正確に、しかも深くするまたとない機会です。試験に出たところは重要なポ
イントであり、もし間違えている箇所があったとしたら、それは理解が不足しているか、間違えて憶えているかのどちらかです。もし、間違えて憶えているとしたら、
前項でもお話したようにチェックが必要です。試験こそ、そのチャンスというわけです。
 しかし、人間には、いやなものは見たくない、したくないという心理があります。ジャイアンツ・ファンは、巨人が負けた翌日の新聞をどうしても見たがりません。
逆に、愉快なときはしきりと見たがるものです。ジャイアンツの勝った試合の翌日の新聞が売れるのもそのためです。アメリカで自動車やステレオの広告を読む人につ
いて調査したところでも、これから買う人ではなく、すでに買った人が〝読者〟の大半だったそうです。これも、自分の判断の正しさを確認したいために、広告によっ
て自分を納得させたかったのです。社会心理学者フェスティンジァーは、これを「協和、不協和の理論」と名づけています。不愉快な情報は、自然に不協和を起こし
て、受け入れる気になれないというわけです。
 しかし、この自我の「不協和」を乗り越えて、くやしく不愉快な誤りをチェックすると、逆に記憶痕跡が確かなものになりやすいのです。がんばって到達したことの
ほうが、すんなり憶えたことより、残存効果が大きいわけです。成績の悪かった答案用紙をろくに見ないで、まるめて紙くずかごに捨てるようでは、いつまでたっても
成績の上がるはずはありません。
 たいていの人は誤りが正解よりも少ないはずですから、誤りの部分は、他の部分と離れて知覚され、記憶に強く焼きつけられます。

 伝記や歴史小説によって、エピソードを知っておくと、歴史は楽に記憶できる。

 歴史というと、年号と事件の羅列ばかりで、おもしろくもおかしくもないという人が少なくありません。しかし、単なる史実にすぎない人物や事件も、私たちと同じ
日常のレベルまでひきおろすことができたら、人間くさい、生きた歴史を感じとれるはずです。そのひとつの方法は、歴史小説や記録によって、エピソードを探してお
くことです。すると、無味乾燥な人物や事件も、生きいきとよみがえり、楽しく憶えられます。変な話ですが、コロンブスも恋をしたのでしょうし、あのビスマルク
だって、階段から足を踏みはずしたことがあるはずです。
 たとえば、アメリカの歴史で、かならず登場する年号、「一八〇〇年首都をワシントンに移す」も、大統領官邸のホワイト・ハウスの一室は、当時、第二代大統領夫
かんしょ
人の洗たく物干し場になっていた、という楽しいエピソードといっしょに憶えれば、楽に憶えられそうな気分になってきます。同様に、日本全国に 甘 藷 (サツマイ
あお き こんよう
モ)を広めた 青 木 昆 陽 がチャキチャキの江戸っ子で、それも魚屋の息子だったという事実を知ると、妙に親しみが生まれてくるでしょう。一人の人間の伝記を読むこ
とは、同時代に生きた人たちを知ることにつながります。こうして、知らず知らずにそれぞれの関連がわかれば、歴史も単なる断片的な記憶とならずに済むでしょう。

 自分の発想法にフィットした参考書を見つけると、憶えやすい。

 参考書を買うとき、有名な著者が書き、一流出版社から出ているものを、内容も見ずに簡単に買ってしまう人が多いようです。しかし、これは誤りです。いかに有名
で、一流であっても、発想法や記憶の仕組みがまったく異なる人の書いた参考書では、まるで役に立たないのです。
 ゴルフのフォームを教わるとき、自分と同じ背丈の人につけというのが鉄則です。背の高低、力のある人、ない人で、スウィングの仕方がまるで違うからです。その
人なりに、自分の体型に合った独特の方法があるわけです。記憶の仕方もゴルフのスウィングと同じで、一般法則はさておいて、各人各様の独特のパターンがあるはず
です。記憶の素材となる参考書は、ゴルフで言えば、フォームを教えてもらう人にあたり、自分のパターンに合ったものを、選ぶようにしたいものです。
 私はかつて旧制中学のころ、自分とピタリ同じ分類の仕方、スジの運び、一覧表のつくり方、太字の使い方、まとめ方をしている参考書を見つけ、おおいに能率をあ
げた経験があります。
「性に合う」参考書に出会うまでは買わない、というぐらいに徹底しないと、参考書を使いこなして、記憶に役立てることはできないでしょう。

 図表化すると、全体がひとまとめに憶えられる。

 はじめて私の家を訪ねてくる人に電話で道順を説明するとき、私の説明を反復しながら、「えーと、時計屋の脇を曲がって……」と、くどいくらいに確認する人がい
ます。私の言葉をそのままメモしているのでしょうが、こういう人は、たとえ地図を見せても、改めて言葉で説明しないとのみこめず、結局近くまで来て、また道順を
聞いてくるということになるようです。
 人間の感覚のなかで、成長するにつれてもっとも発達するのは視覚であることはまえにもお話しましたが、地図化、つまり視覚化ができない人は、感覚器の発達が不
十分なのかもしれません。ふつうは、眼に訴える情報を処理、整理することが、理解と記憶を促進させるわけですから、一目でわかる図や表にするように訓練すること
が、記憶力を強化する近道なのです。
 勉強の場合でも、要点を文字で表現するだけでなく、図解ノートをつくることが視覚化のよい訓練になります。現代国語、英語、歴史、倫理社会などでは、論述式問
題が増えているそうですが、ひとつのテーマを全体として要領よくまとめるにも、図解トレーニングがおおいに役立ちます。因果関係、時間、人物などを図示すれば、
記憶をはっきりさせ、勉強の能率もぐんとアップします。しかも、視覚的にノートを整理しておくと、ノートを閉じたとき、眼の裏に焼きついた記憶がありありと浮か
んできて、再生にもひじょうに有利になります。
 ときには、文字を太く書いたり、図形を色鉛筆で表現すると、さらに立体的になります。また、自分独自の記号を創作して表現すれば、その記号を書くときから、す
でに記憶作用がはじまっているということになるでしょう。
 最近の受験参考書には、何色刷りもの図解がのせられているものが多く見られますが、これもこうした効果を狙っているのでしょう。

 むずかしい法則も、ナマの現実と関連づけておくと憶えやすい。

いし い いさお
 私が親しくしている 石 井 勲 氏は、幼児に漢字教育をすることを熱心に推進していることで知られています。その石井氏の名刺には、「九」「鳥」「鳩」と書かれて
いて、はじめてこれをもらった人は、一瞬何のことかわからずけげんな顔をします。やがて、氏の説明を聞いて、たいていの人が納得したような顔つきに変わるそうで
す。
 ふつう、小学校では、まず書き方の簡単な「九」という漢字を教え、つぎに「鳥」最後に「鳩」を教えますが、石井氏によると、これはまったく逆だというのです。
少なくとも読み方に関して言えば、幼児にはまず「鳩」からはじめ、「鳥」「九」と進むのが、もっとも憶えやすいというわけです。これには、いろいろな理由があり
ますが、幼児の日常体験に近い漢字から教えるべきだというのがひとつの理由です。「九」「鳥」「鳩」のうちでは、鳩がいちばん近く、まだ一歳になったばかりの子
どもでも、「ハ卜」とは何かがよくわかっています。だから、「鳩」から最初に教えるのが、子どもにとっていちばん自然だというのです。「鳥」は、ニワトリやハ卜
やスズメを抽象した概念であり、「九」は、具体性のいちばん少ないものですから、日常の生活とはいちばん離れていて、子どもには憶えにくいというわけです。
 われわれ大人でもナマの現実に近いものほど憶えやすいと言えます。これは幼児にかぎったことではなく、具体的なイメージや生活の実感のあるものに関連づけて記
憶する方法は、勉強の際の記憶の強化にも役立ちます。たとえば、物理で、「音は真空中を伝わらないが、熱は真空中でも伝わる」という法則をそのまま憶えたので
は、味もそっけもありません。そこでこれを、「真空中でキスをしたら、その音はまるで聞こえないが、唇が摩擦し合う熱だけは伝わる」と具体的に言い換えてみるの
です。キスを想像しながら記憶したら、むずかしい法則もいやおうなく頭に刻みこまれるでしょう。なかでも、物理、化学、数学などの理数科目には、現実と離れ、抽
象度の高い知識が多いだけに、とくに威力を発揮します。
 この方法は、情報工学のシミュレーションの〝記憶版〟とも言えます。宇宙飛行士を訓練する場合、もちろん、宇宙空間に関する知識を教えることも必要ですが、と
くに重要視されているのが、宇宙と同じ無重力状態をつくりあげて、本番そっくりの訓練をすることです。飛行士たちは、この無重力空間の中で、知識を具体化し、肉
体化して、頭の奥深くにしまいこみます。単に耳で聞いただけの知識では、未知の宇宙で、とっさの制御が必要なときには間に合いませんが、現実そっくりのシミュ
レーションによってたたきこまれた知識なら、とっさに記憶がよみがえり、安心して使うことができます。

 カードは並べかえて使うと、効果的である。

 テレビで、ぼんやりとドラマを見ていると、ときどき「おやっ」と思うことがあります。カメラが、いつも見慣れているのとは違うアングルから俳優の顔をとらえる
ときです。それによって、いままではなんとも思わなかった女優の意外な魅力を発見したりすることもあります。あるいは歌謡番組で、数台のカメラが作動して、歌手
の身体をあらゆる角度から撮ったりすると、やはり新鮮な一面を見出したりする場合もあります。
ドライブ
 記憶もそれと同じで、ひとつの記憶材料にすべての角度から光を当てると、イメージが鮮明になり、新たな発見もあり、それらが駆動力となって、記憶がしっかりと
根づくのです。そのためには、カードを駆使することです。カードはノートと異なって、自由に並べかえることができます。歴史上の人物をひとりずつカードに書きこ
んでおけば、それを年代順に並べることもでき、国や業績、あるいは事件別に分けて憶えるという方法もあります。一枚のカードをさまざまな枠組みのなかに組込むこ
とによって、その人のことをより鮮やかに記憶できるというわけです。
たか の ちょうえい さ く ま しょうざん
 たとえば、幕末の悲劇の科学者「 高 野 長 英 」と「佐久間 象 山 」のカードを、他のカードとも合わせてさまざまに並べかえてみると、没年順では、長英は象山よ
ひい
り十四年早く、死に方を見ると、長英が自殺で象山は暗殺、蘭学で分類すると、長英は医学に 秀 で、象山は物理・化学系に才を発揮したことなどがわかってきます。
このように、カードのカテゴリーを変え、スポットライトの当て方を工夫すると、ふつうは並び称せられている長英と象山の差が明らかになるとともに、それぞれの人
がらや業績も、よりくっきりと浮かびあがってきます。
 歴史にかぎらず英単語のカードも、十年一日のごときアルファベット順ではなく、トランプをきるようにして使って憶えていく方法があります。こうすれば、〝重要
単語集信者〟によくみられるような、A・B・Cのあたりばかりをよく憶えている、といった偏りも防ぐことができるわけです。

 歴史は劇画ふうに構成してみると、楽しく憶えられる。

「ぼくは、日本史でも世界史でも、劇画のつもりで憶えることにしています」という受験生に会ったことがあります。彼の〝歴史記憶法〟は、ある事実を憶えるとき
に、それを劇画仕立てで自分なりにストーリー化してしまうのです。ただ単なる歴史的事実のままではなんの興趣も湧いてこないので、想像力を自由に駆使して、おも
しろいストーリーを作りあげるのです。
すぎ た げんぱく まえ の りょうたく せんじゅ こ づかばら ふ
 たとえば、一七七一年、 杉 田 玄 白 が 前 野 良 沢 らと 千 住 小 塚 原 で、腑分け(人体解剖)に成功し、日本蘭学史に画期的な一ページを加えることになったことを憶
えるには、カヤの繁る原っぱに、玄白と良沢が、オランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』を携えて現われるシーンからはじめます。カヤを渡る風……いまにも泣き
出しそうな空……カヤの真ん中の空地に死体……もう九〇才になろうとする白髪の老人が、脇差しふうの刀で死体の腹を切裂く……のぞきこむ玄白の顔、良沢の顔、
なかがわじゅんあん
中 川 淳 庵 の顔。ここまでは、ほぼ事実です。ここで、「もしこのとき、その死体の縁者にあたる男がカヤのなかから登場したら、どうなったろう」と考えるので
す。男は、玄白らに向かって、刀を振りかざす……逃げまどう蘭学者たち……雨が降り出す……死体から流れる血と雨が混じる……そのなかに落ちる『ターヘル・アナ
トミア』といった具合に展開するだろう、と自分勝手に想像してしまうのです。
 このように、想像力をいっぱいに働かせて憶えれば、無味乾燥な歴史の事実も生きいきとしたものとして映ってきますし、記憶にふくらみと潤いが出てきます。教科
書の片隅に、なんの感情も示さず、表意記号として記されている『ターヘル・アナトミア』よりは、血の中に落ちた『ターヘル・アナトミア』のほうが、あなたの頭か
ら離れがたい、とは思いませんか。
 まえにも述べたように、自分の興味や関心に結びつけたり、楽しさを強調して憶えれば、記憶が強化されることは記憶の原則ですが、それをさらに徹底させて、現代
ふうにアレンジしてみるのです。あなたがたをとりまく現代は、まさにテレビと劇画の時代です。なかでも劇画は、歴史的事実を描く場合にも、仮説を立てて構成し、
おもしろさを強調するようにつくられています。想像力を駆使する格好の手段になるでしょう。
「もし……」と考えて自分なりの仮説を立てると、人によってさまざまのイマジネーションが浮かんでくるものです。さらに想像をたくましくすれば、自分もその一部
に加えることです。先の例でも、単なる傍観者ではなく、たとえば玄白になったつもりで想像をすると、刀をもった男に追われる恐怖が、記憶を助けてくれることにな
ります。イマジネーションを働かせるのは、とかく単調になりがちな記憶という「仕事」を楽しくする作用もあり、一石二鳥の策と言えましょう。

 教科書にトレーシング・ペーパーをかぶせ、重要語句を塗りつぶして反復するとよい。

 私たちは、なにかを記憶しようとするときに、よく指を使います。歴史の年号を憶えようとすると、年号のほうだけ指で隠して、項目から年号を当てたり、逆に、項
目を隠して年号を思い出すといった具合です。英語の勉強でも、文章の途中の前置詞に指を当てて隠し、前後の文脈から類推するのは、てっとり早く、しかも有効な方
法でしょう。また古典の文法などでも、活用のむずかしい動詞を隠して、活用形をそらで言ってみたり、あるいは、漢字を指で隠して、ルビ(ふりがな)から漢字を推
定したりする方法はだれでも利用しているのではないでしょうか。
 これらは、たしかに効果があるには違いありませんが、指で一度に隠せる範囲には、限度があります。いっきょに多くの記憶材料を憶えたいときには、鉛筆や下敷、
消しゴムまで動員することになりますが、これでは面倒ですし、隠す必要のないところまで隠れてしまいます。そこで、これらの悩みをいっぺんに解決する妙手とし
て、トレーシング・ペーパーを使った記憶増進法をお教えすることにしましょう。
 まず、トレーシング・ペーパーを、憶えたい事項のあるページにスッポリとかぶせ、端を一カ所セロハン・テープでとめて、固定します。そして、憶える必要のある
語句、または文章の一部分を上から黒のマジックインキで塗りつぶすと、その箇所は当然見えなくなります。トレーシング・ペーパーを通して、文章は読めますから、
教科書を読むときには、黒くつぶした箇所までたどっていき、そこで、隠されている部分を思い出しながら、暗記していくようにして、さらに先へ進むわけです。指や
鉛筆がいりませんから、ひじょうにスムーズに進むはずです。
 またマジックは黒だけでなく、赤や青なども使ってカラフルにすると楽しくなり、憶える気力が湧いてくるというものです。この方法は、つくるときには手がかかる
かもしれませんが、一度つくってしまえば、何度でも繰返し使うことができますし、手軽に反復することもできるので、大変効率のいいやり方です。

 言葉を心のなかで繰返しながら書くと、はっきり憶えられる。

 私がまだ旧制の中学生だったころの話ですが、数学の問題がどうしても解けず、解法を見てもその論理がのみこめないときなど、よく「ひとりごと」のようにして、
その解法をつぶやいてみたものです。あげくの果てには、勉強部屋から出て、廊下や居間でもそれをやるものですから、家人が驚いて「勉強疲れで、頭がおかしくなっ
たのではないか」と、心配したことさえありました。しかし私はこのやり方のおかげで、むずかしい論理を頭のなかにすっかりたたきこむことができました。こうして
憶えたもののなかには、いまになっても、まだ忘れないものがあり、われながらびっくりすることがあります。
 言葉には、意識のなかだけで発せられる「内言」と、口から音として出る「外言」とがあり、人間の精神の発達過程からみるなら、「外言」に頼っているのはまだ幼
稚な証拠なのです。よく幼児が、ひとりごとを言いながら遊んでいるのを見かけることと思います。子どもたちは、頭で考えていることを、すぐに外へ出してしまいま
す。それを耳で聞きとって、その刺激を受けて行動するわけです。スイスの心理学者ジャン・ピアジェは、これを自己中心的言語と呼んでいますが、子どもは、こうし
て自分の世界を完結させ、生きているのです。
 しかし成長するにつれて、「内言化」がすすみ、ものを考えるときに、声に出してぶつぶつ言うようなことはなくなります。頭のなかで、自由に言葉を駆使しつつ考
えていけるようになり、精神世界が外へ向かって拡大していくわけです。
 これを逆手にとって、記憶の際にも自分がまだ幼かったころに帰り、「外言」に頼ってみるのも、ときに大きな効果を発揮することがあります。たしかに「内言」
は、意識のなかを滑らかに流れていきますが、それが逆に理解の妨げになることがあります。というのは、さきほど述べた私の体験のように、頭のなかでいくら繰返し
てもわからないのは、心にひっかかるものがないからです。ところが一度、「外言化」してしまうと、流れが変わり、ひっかかりができて、記憶に有利に働いてくるよ
うになるのです。
 英単語や文章暗記のときにも、「外言」は、「内言」とはまるで異なる「響き」をもっていますから、これがインパクトとなって記憶を強化していくというわけで
す。とはいっても、電車のなかのように、周囲に人がいて口に出しにくい場合もあることでしょう。このような場合には、口に出したつもりで、心のなかで本を読むよ
うに、言葉のひとつひとつを意識しながら、繰返し憶えるようにすると、同じような効果があります。要は、スムーズに流れやすい思考活動に、「ひっかかり」をつ
くって、記憶に定着させるように心がければよいのです。

 暗誦などは、全体をひとまとめにして憶えたほうがよい。

 最近の学校では、英語や漢文の授業で、文章を暗誦させるという風景があまり見られなくなりました。これは、暗誦=まる暗記というイメージが強く、生徒にむだな
エネルギーを消費させない、という〝配慮〟のようです。しかし、暗誦も、そのやり方によっては、現代にも通用する、有効な勉強法となります。まる暗記ではなく、
全体の意味把握と関連づけるという姿勢があればよいのです。暗誦の仕方には、集中的暗誦法と分散的暗誦法があります。集中的暗誦法とは、完全に暗誦できるまで、
全体をひとまとめにして憶える方法で、分散的暗誦法は途中をいくつかに区切って憶える方法です。この二つでは前者のほうが能率的で、しかも確実なものと言えま
す。
 たとえば、つぎの文章を暗誦するとしましょう。
「何れの国に至りても、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の五の道にもるる事なし。人のみにはかぎらず、蜜蜂の飛ぶに君臣あり、烏の友哺、鳩の三枝に、父子の礼備れ
そ ろ ばん
り。鶏羽をさげて雌を愛し、猫の不遠慮にさかるも夫婦の道なり。鼠は十露 盤 に乗る兄弟あり。犬の尾をふって集り、鰮すばしりの海にかたまるも、皆朋友の道な
り。さればこそ天地の間を引っくるめて、聖人の教に上こすものなし」
ひら が げんない ふうりゅう し どうけんでん
 これは、江戸時代の発明家 平 賀 源 内 の『 風 流 志 道 軒 伝 』の一節ですが、「集中的暗誦法」では、これを頭から尻までひっくるめて憶えるのですが、こうする
と、全体の論理の流れや文脈のなかで憶え、ちょうど全体に一本の糸を通していくように、頭の中にはいっていきます。つまり、「五の道」とそれらをくくる役をする
「聖人の教」について述べたものとして、記憶されるわけです。完璧に憶えておけば、一部の記憶が脱け落ちるという心配はありません。
 これに対して「分散的記憶法」は先の文章を、いくつかに区切って憶えるのですが、「朋友の五の道にもるる事なし」までが第一の段落、つぎに「皆朋友の道なり」
で第二段落、以下最後の文章が第三段落というふうに分けるわけです。
 しかし、このように、全体を切り離してしまうと、一部が落ちても意味が通じるものなどの場合、そこが記憶から脱落する不安があるのです。
 ただし、あまりに長い内容のものを暗誦しなければならない場合や、無意味なものが延々と並ぶ場合には、「集中的記憶法」は、実用的なものとは言えないでしょ
う。一般に無意味・無関連な記憶材料を暗誦するときは十~三十個、詩や散文のときは十~三十行までが、記憶の限界です。ですからそれ以上ある場合には、一定程度
のブロックに分けて憶えていくようにしたほうが、有利なはずです。

 教科書・参考書は、最低三回読むようにすると記憶の定着度は強くなる。

 私が、はじめて大学の教壇に立ったとき、いま考えても身のすくむ思いのする、苦い経験をしたことがあります。講義のまえに、教材にあたっている一冊の本をこん
せつていねいに読み、内容も十分に理解したつもりで、教壇に立ったのです。これだけ準備をしておけば、二~三時間ぐらいの講義は、苦もなくできると思っていまし
た。ところが、いざ講義を始めて見ると、たちまちのうちに語り終えてしまい、話す材料がなくなってしまったのです。冷汗をかいたのはもちろんですが、それよりも
なによりも、自分の記憶力がいかにあてにならないかを思い知らされました。一回読んだだけの記憶では、わずか一日たったあとでも細かい部分がどんどん脱け落ちて
おり、残ったのはあらすじだけだったわけです。これでは、とても一時間半の講義はもちません。
 この苦い経験を契機として、私は、講義のために本を読む場合には最低限三回読むという習慣を身につけるようにしました。もちろん、ただ漫然と三回、読むだけで
はありません。まず第一回目は、サッと眼を通すだけにして、大筋をつかみながら、「重要だ」と思うところの上部に、鉛筆でうすく横線をひきます。第二回目に読む
ときは、論理展開にポイントを置きながら、重要な語句やセンテンスの横に、こんどは縦の線を入れるのです。最後の第三回目には、重要語句・事項の部分をマルで囲
んでいきます。つまり、一冊の本をそれぞれ別々な読み方で、三回読返すわけです。全体の流れをつかんだうえで、重要箇所をチェックし、さらに細かく重要事項を拾
いあげて、はじめて全体が有機的に関連づけられ、記憶できるのです。最近では、わずか十ページでもこの方法で読めば、五~六時間の講義も、なんなくできるように
なり、記憶にも自信をもつことができるようになりました。
 勉強をするときに、本を読む行為は、記憶とは別のことだと考えている人がもしいたら、それは間違いです。私の〝三回読書術〟のように、反復し、集中して読め
ば、理解度が記憶度を高めるのに役立つのです。教科書や参考書は、ぜひとも最低三回は読むことをおすすめします。

 ど忘れしたときには、全体の「形」を思い浮かべるようにする。

 コロンブスがアメリカ大陸を発見した一四九二年という年号を憶えようとするときには、ふつう、その数字にコロンブスとかアメリカ大陸といったイメージを関連づ
とくがわよしむね
けて憶えます。また 徳 川 吉 宗 といえば、徳川八代将軍というように、やはりこの人名が示している意味・内容が、すぐに頭に浮かぶように記憶しています。これは、
いわば記憶法の原理とも言えるもので、意味内容の理解とかならず結びつけて憶えることがよしとされているのです。
 しかし、いちどきに多くのものを憶えなければならなかったようなときには、あとで思い出す際に記憶がオーバーラップしてしまい、思い出したい記憶が他の記憶に
抑えられ、「知っているはずなのに、どうしても思い出せない」という、いわゆるど忘れの状態に追いこまれることがあります。そんなときにもっとも役立つのは、記
憶法としては亜流ですが、記憶した人名や年号がどんな「形」をしていたかという、パターンのほうから攻める方法です。たとえば、八代将軍が、徳川吉宗だったか徳
つなよし
川 綱 吉 だったかというような、ごくつまらないことをど忘れしてしまったような場合は、意味連関の考え方を一度捨ててみるのです。そして「形」からはいるように
します。
「人名の真ん中がまばらで、空いていたようだ」と思い出すことができれば、「綱」のような、画数の多い字がくるはずはない、と判断できるはずです。憶えるとき
に、意識して「形」を眼に焼きつけるようにしておくと、このように「窮余の一策」としてではありますが、意外と役に立つものです。
 数や文字は、その意味以前にひとつの記号であり、幾何学模様なのです。幼児が文字への興味をもち始めるときのことを考えてみても、まずパターンを手掛りとして
憶えるようになることがわかります。満一歳を過ぎたころから、三角形や四角形に執着し始め、つぎに数字の「1、2、3……」などを、「形」として記憶するように
なります。この「1、2、3……」を、指を折って数える、「ひとつ、ふたつ、みっつ……」という意味には、なかなか結びつけることができないのを見ても、パター
ン認識が先行することがわかるでしょう。
「形」から憶えていくのは、人間の感覚の発達過程からみれば、ごく初期に属する方法です。しかしそれだけに、頭のより深い部分に根づいて、忘れにくいということ
が言えるのです。たとえば、英語で、中学一年のときに学ぶlittleという単語をrittleと書く人は、まずいないでしょう。これは、語頭がrより高さの高いlで始まることや、
まん中のtがダブっていることなどが、「形」として眼に焼きついているからです。一字一字の文字としてではなく、全体のパターンを記憶しているので、けっして間
違えないというわけです。

 部屋中にメモを貼りつけて、その場所、位置を憶えておくと思い出しやすい。

 古代ギリシアやローマの雄弁家たちが、長い長い演説を、じつに楽々とやってのけていたことはよく知られています。当時は、現在のようなペンや鉛筆がなかったの
で、もっぱら、ある種の記憶法によって、演説を憶えていたのです。だから、その記憶法に熟達することが、雄弁家になる条件だったわけです。この記憶法は「キロ」
と呼ばれるもので、自分の家の部分と演説の内容とを結びつけて記憶する方法です。たとえば、演説の冒頭は寝室、まん中は居間、終わりが玄関といった具合に、結び
つけておくわけです。こうしておくと、演説内容を思い出すときにも、まず、住み慣れた家の中を順に思い出していけばいいというわけです。
 この方法は、勉強にも十分活用できます。勉強部屋の各部分に、紙を貼りつけて、その位置との連想で記憶をしていくのです。たとえば、英語の単語の接頭辞を憶え
ようとする場合には、接頭辞を大書した紙を各所に貼りつけます。「超」を意味するsuper, extra-は天井に貼り、「下」を意味するsub-, de-は机のいちばん下のひきだ
し、前の壁にはpre-, pro-, ante-(「前」)、後ろの壁にはpost-, re-(「後」)、部屋のドアの外側にはex-(「外」)と書いた紙片を貼りつけて、そこを見るたびに、い
やおうなしに、眼のなかにとびこんでくるようにしておきます。
 もし、postwarという言葉に出会って、一瞬、意味がわからなくても、後ろの壁にpost-があったことを思い出すことによって、「後+戦争」すなわち「戦後」だろう
と推定できます。またsubconsciousといった長い単語に出会っても、あわてることはありません。sub-は、机の下のほうにあり、consciousは「意識の」という意味だか
ら、「意識の下」、つまり「無意識」ということが思い出せるというしかけです。もちろん、接頭辞については、例外もあるので、いつもこれでたちうちできるとは言
えませんが、思い出せないとき、なんのてだてもないのに比べたら有利です。
 古代の賢人たちが用いたこの記憶術は、現代でも記憶量をどんどん増やすのに、欠くことのできないものとして、十分通用するのです。

 関連事項は、大きな紙に図示すると思い出しやすい。

 試験のときに、どうしても思い出せないことがあると、ページのどの辺に書いてあったかを思い浮かべ、「右ページの上のほう、写真の下にあったから、あれ
は……」と、はたと思い出した経験をもっている人は多いでしょう。空間的な位置を手がかりに、記憶がよみがえってくるのは、人間が、スペースに対して鋭い感覚を
もっている証拠です。
 これを記憶に利用して、重要な事項の全体が、めくらずに一望のもとに見わたせるだけの大きな紙に、事項相互の関連を視覚的に図示していく方法があります。それ
ぞれの事項を、垂直・水平の軸を中心にして、斜線、曲線、破線などで結び、色分けをほどこします。この方法は、都市工学などのシステム・アナリストたちがつくっ
ている、精巧なフローチャートと基本的な考え方はまったく同じです。
 この紙を、壁に貼るか、床にひろげて、イメージとして、脳のヒダに直接刻みこむように記憶します。そして、つぎに眼をつぶって、全体の形が浮かんでくるかどう
か、確かめます。これを繰返しているうちに、大きな紙の全体が、目をつぶっていても、くっきりと見えてくるようになります。これで、情報を完璧にスペース化する
のに成功したわけです。

 テープレコーダーに自分の声を吹き込んでおくと、頭に残りやすい。

 ある受験生に「憶えたいことを、テープに吹きこんで聴くといいよ」と言ったところ、「聴きたければ、吹き込み済みのものを買ってくればいいし、それに吹き込む
時間がムダですよ。吹き込む時間があったら、暗記しますよ」と一蹴されてしまいました。しかし、他人の声で吹き込まれたものに比べると、自分で吹き込んだほう
が、はるかに効果があるものなのです。というのは、自分の〝作品〟は自分の発想にフィットしているので、スムーズに受入れられるからです。アナウンサーや専門家
の声は、スムーズ過ぎて、かえって記憶のアミにひっかかりにくいのですが、その点、自分の声は不思議と耳に残るものです。というのは、自分の声でありながら、私
たちがふだん聞き慣れている声とはひと味違った声だからです。
 たしかに録音に時間を使いはしますが、録音すること自体がすでに記憶作業の意味をもちますし、自分の声をテープで聴きながら、同じことを心のなかでつぶやいた
り、声に出したりすると、音が共鳴しあっている状態と同じで、記憶の強化につながります。時間はムダになるどころか、かえって暗記の効果を高めるのです。とく
に、英単語の記憶の場合は、たんに声を出して暗誦するより、聴覚をより強力に刺激して、多くの単語を頭にたたきこむ決め手の一つにもなります。

 「風が吹くと桶屋がもうかる」式に憶えると、忘れにくい。

 人間の連想にはいろいろな種類がありますが、もっとも突飛な連想に、「風が吹くと桶屋がもうかる」があります。これは、風が吹く→ほこりがたつ→道行く人が目
をやられる→盲人になる→三味線をひいて生活する人が増える→三味線の皮になる猫が殺される→猫が減ってネズミが増える→ネズミは盛んに桶をかじる→そこで桶屋
へ注文が増えてもうかる。というプロセスです。ちょうどシリトリと同じように連想の環が広がっていき、もとの言葉とは無関係な鎖となって発展します。さて、この
中からキーになる言葉を抜くと、風、ほこり、盲人、三味線、猫、ネズミ、桶屋となります。もし、この八つの単語を、ストーリーなしで憶えると、順序どおり憶える
ことは、かなりむずかしいでしょう。
 ところが、この一見、非常識な連想の環のおかげで、一度で憶えてしまうことができるのです。これを記憶法に応用しない手はありません。ひとつが思い出されると
ジュズつなぎになって、それに関連することが苦もなく浮かんでくる、記憶のシリトリは、豊富な情報を記憶し、再生する絶好の手段となるのです。
なつ め そうせき わがはい ねこ くさまくら ぐ び じんそう
 たとえば、国語の文学史などでよく問題にされる、 夏 目 漱 石 の作品を発表順に憶えるとしましょう。かれの主な作品は『 吾 輩 は 猫 である』『 草 枕 』『虞美 人 草
さん し ろう もん こうじん ひ がんすぎまで みちくさ めいあん
』『 三 四 郎 』『それから』『 門 』『 行 人 』『彼 岸 過 迄 』『 道 草 』『 明 暗 』などですが、これを順番に、しかも正確に憶えるために、先に述べた連想の環を作って
さか い てる お
みるのです。人によって、連想のパターンは異なるでしょうが、ここでは記憶術の大家として有名な 坂 井 照 夫氏の〝作品〟を紹介しましょう。
 猫が草枕をして寝ています。
 草枕には虞美人草の絵がついている。
 虞美人草を三四郎が踏みつけた。
 三四郎はそれから門へ入った。
 門の前に行きずりの人がうずくまっている。
 その行人は、彼岸過迄道草をしていた。
 道草が明暗の別れ道だった。
 じつに、うまく作られているとは思いませんか。この〝連想の環〟を作るのには、苦労するかもしれませんが、そこはフィーリング世代と呼ばれるあなた方のことで
すから、優秀な作品ができることと思います。それに、この方法の長所は、一度作ってしまえば、自分のオリジナルなので、まず忘れることがないという点にありま
す。ぜひ、試してみてください。
 いつも新鮮、すぐに思い出せる〝確憶術 〟
〈この章のはじめに〉

 記憶というのは、憶えたことを頭の中にしっかりしまいこんで、必要なときに意のままに取り出してこれるものでなければならないことは言うまでもありません。肝
心の試験場で、せっかく憶えたことを思い出せないようでは、何のために一生懸命勉強したのかわかりません。皮肉なことに、こんなときにかぎって、試験場を出たと
たん、魔法のように、忘れていたことを思い出し、くやしい思いをさせられます。
 この章では、確実に憶える記憶のテクニックをいろいろお話しますが、当然のことながらこの中には、随時、意のままに思い出せるという意味も含まれています。必
要なときに、いつでも思い出せてこそ、本来の意味で憶えたということになるのです。
 では、確実に憶えるための基本原則は何でしょうか。これを一言でいえば、記憶のシュプールを深くするということにつきるでしょう。スキーをやる人なら、シュ
プールといえば、すぐあの新雪の上に鮮やかにつく二本のスキーの跡を思い出すはずです。このシュプールという言葉は、ドイツ語で足跡という意味ですが、記憶を確
実にするためには、なによりも記憶の足跡を深くすることがたいせつなのです。
 もちろん、記憶の足跡、あるいは記憶痕跡といっても、頭の中に生理学的実体として、目に見えるような足跡が残されているわけではありません。ただ、「記憶」と
いう事実がある以上、私たちの頭の中に何らかの生化学的変化の「あと」が残されているはずだ、と心理学や大脳生理学では考えているのです。つまり、この「あと」
が深ければ深いほど、私たちの記憶は確かになり、忘れにくくなるということです。
 このシュプールの彫りを深くするには、同じシュプールの上を何度も繰返しすべるように、同じことを何度も何度も繰返して憶えることが最善であることは言うまで
もありません。しかし、この繰返しという作業は、私たちにひじょうに大きな時間的、心理的負担をかけるものです。この章の目的としているところは、この負担をい
かに軽くし、同じ時間でいかにシュプールの彫りを深くするかのテクニックをお話しようということにほかなりません。そのためには、一度憶えたことを逆に繰返して
みるとか、同じ繰返すなら九時間以内にするということもたいへん有効です。
 またこの章では、こうして確実に憶えたはずのことを、どうしても思い出せないときのために、憶えたことを何としても引っぱり出す方法にも触れています。ど忘れ
克服の特効薬が、いざというときに思いがけない効力を発揮してくれるにちがいありません。

 英作文や古文などは、〝逆方向〟で憶えると、より確実になる。

 参考書を一冊も使わずに、教科書だけで抜群の成績をおさめている高校生から「秘訣」を聞いたことがあります。彼の勉強法は、ひとことで言えば「逆方向学習法」
とでも名づけられるもので、じつにうまく記憶の原理を応用しているのです。英語を例にとって、そのポイントをご紹介しましょう。
 彼はまず、大型のノートの片方のページに、教科書の文章を一行おきに写します。つぎに、わからない単語や熟語の下に、赤でアンダーラインをひいておきます。つ
いで、もう片方のページに、その文章の日本語訳をやはり一行おきで、だいたい英文と対応するように書いていきます。翌日、このノートを教室に持参して、授業のと
きは日本語訳の誤りを直すことに集中し、家に帰ってから、このノートをフルに活用します。あるときは、日本語訳の文章だけを見て英文をつくったり、またあるとき
は、日本語訳のなかの単語から英語の単語をチェックしたりするのです。ときには、英文から正しい日本語訳をつくることもするそうですが、彼は、七対三の割合で、
日本語→英語の勉強に時間を費やしているとのことです。
 たしかに、英語でだれもが苦手とするのは、英作文のようです。授業ではたいてい英語から日本語へはいるために、どうしても、日本語から英語へ向かう〝逆方向〟
が弱くなりがちになるのでしょう。彼は、その弱点をよく知っていて、教科書一冊でそれを十分にカバーしているのです。私が感心したのは、英作文に重点を置いてい
ることよりも、彼の学習法が、心理学の考え方にも合致している点です。
こうばい
 学習心理学で、「記憶は憶えこんだ順に思い出されやすい」という再生 勾 配 の法則があります。たとえば、英作文より英文解釈のほうが得意な人が多いのは、英語
から日本語へという形が英語学習の本流になっているためです。この方向性を逆転すると、英文に対する理解が進み、記憶が確実になって、結果として英語全体の成績
が上昇してくるはずです。単語カードも、この原理をふまえて、裏から使ったり、トランプのように切ってカードそのものの順序を変えて憶えるようにすると、記憶が
確実になること請合いです。
 他の科目でも同様です。古文では、現代語訳から古文をつくって、現代語のほうから古語を思い出す作業を続けるのです。歴史も、一七八九年はフランス革命の年と
憶える一方で、フランス革命は何年だったかと、つねに逆方向から攻めることによって記憶を確実なものにしていくのです。数学で公理や公式を、それが生まれるプロ
セスを追ってみるのも同じ理くつです。そしてこの方法が有効なことは、彼の成績が端的に実証しています。

 忘れたことを思い出すには、それが書いてあった本やノートのページを思い出してみる。

 忘れたことを思い出すときにもっとも重要なのは、それをストレートに思い出そうとせず、思い出すための手がかりを発見することです。憶えたと思っていること
は、それ自身が孤立して記憶されたわけではなく、他のさまざまのものと連関しているわけですから、連関しているものをひとつでも見つけられれば、そこから忘れた
ことをたぐり寄せることも可能です。映画などで、殺人現場の検証に立合っている刑事が、死体のそばから髮の毛をつまみあげて、それが事件解決のカギになるといっ
たシーンを見かけますが、記憶の手がかりもこの髪の毛と同じです。
 その有力な手がかりになってくれるものは、まず、前述した、本やノートの中の空間的位置関係です。左ページにあったか、右ページにあったか、右ページでも右上
か右下かという手がかりさえ発見できれば、忘れたことを思い出すのはもうすぐです。教科書や参考書に印刷された見出しや文字の形、アンダーラインなどから記憶の
糸を一本ずつたどって、ついに目的地に達したときの喜びはまた格別です。
 また、記憶するときに、ページのイラストや写真に注目するのも、思い出すときの絶好の手がかりになります。私は、古い本を見るのがひじょうに好きですが、まず
いちばん先に目のいくのはイラストと写真です。昭和初期に出版された本を開いて、そこにある写真の人物のファッションなどを見ていると、その本の雰囲気がよくわ
かって、自分も昭和初期に帰ったような気分になります。興味をもって、本を読みはじめますから、理解も進みますし、そのとき感じた雰囲気が、いざ必要なときの手
たいらのしげもり ご と ば じょうこう
がかりになってくれるのです。私の中学時代の経験でも、たとえば、 平 重 盛 の像と後鳥羽 上 皇 の像が同じページに出ていて、〝帽子〟の形が違うところから重盛
のほうが前にあったことを思い出し、苦手の歴史で満点をとったことがあります。
 人間は視覚的な動物と言われ、空間的な位置づけに関してはすぐれた能力をもっていると言われます。とくに、垂直、水平、左右、上下、ななめ上下といった代表的
な空間的定位は、頭のなかにおのずとできあがっています。本についたインクのシミがきっかけとなって、その隣りにあったものを突然思い出したりするのも、意識せ
ずに、空間の位置関係が頭にはいっているためでしょう。記憶するときも、このような意識作用を利用すると、記憶した材料を再生するのにひじょうに有効です。自分
の気に入ったマンガのヒーローやヒロイン、あるいはスターの顔が描いてあるシールをいくつも買っておいて、記憶したページの要所に貼っておくのもいいでしょう。
シールの図柄は、記憶材料とともに頭に刻みこまれて、思い出すときに、その図柄が手がかりになって、きっと鮮明な記憶が呼び戻されるはずです。

 眼をつぶりながら憶えると、記憶が定着しやすい。

あん しる
 暗記とは、「 暗 に 記 す」と書くように、頭の中の闇の部分に知識を刻みこむことですが、この闇を現実につくるには、なにも暗い場所を探さなくても、眼をつぶり
さえすれば、いつどこにいても瞬時にして創造できます。
 眼をつぶると、外界のさまざまな視覚刺激が遮断され、自分の自由なイメージがつくりやすくなります。このイメージづくりが、記憶をがっちりと定着するのに役立
つのです。それをより効果的にするには、眼をつぶったり、黒いまぶたの裏側をスクリーンに見立てて、そこに憶えたい単語のスペルを書きつけ、人名だったら、その
人の名まえと、もしわかれば姿かたちを刻みつけながら憶えるのです。よく、「眼の裏に焼きついて離れない」という表現がありますが、意識的にそれをつくりだすわ
けです。
  これは、十~十五歳ぐらいの子どもによく見られる「直観像(Eidetic Imagery)」によく似ています。これは、実物が眼の前にないのに、あるのと同じくらいはっき
りと心に描かれる像のことです。たとえば、「何年何月何日の曜日は?」と問われて即座に答える子がいますが、これは憶えているわけでなく、直観的なイメージを
パッと表現しているのです。眼をつぶることで、これに類似した像がつくれるのです。
 記憶術の大家のなかには、眼をつぶって、知識を頭のなかやまぶたに刻みつけるようなジェスチュアをする人がいますが、これは単なるジェスチュアではなく、実際
に記憶を強固にする手段でもあるのです。試験場でも、憶えたときと同じように眼をつぶると、その動作に触発されるように、まぶたの裏に、像が鮮やかに浮かびあ
がってくることがあります。
 なお、眼をつぶって外界を意識から遮断すると、精神も集中し、それだけでも、十分に記憶促進の効用があるのです。

 憶えたことを人に教えると、記憶はいっそう強化される。

 ある民間企業で人事を担当している後輩がいるのですが、彼がかつて興味深い事実を語ってくれたことがありました。というのは、就職試験の一次試験、つまり筆記
試験の成績がよいのは、おしなべて家庭教師のアルバイトをやっている者が多いということでした。その原因を二人で考えてみたのですが、私の考えによれば、家庭教
師をやっている学生は英語や国語を他人に教えているわけだから、それだけ人よりも多く、憶えている知識を反復できることがその理由ではないかと思うのです。
 今の大学生は、こう言っては失礼かもしれませんが、あまり勉強していません。受験生活に終止符を打つと、まるで別人であるかのように、遊び始めます。そのため
に、せっかく高校時代までに蓄積してきた知識の記憶が日を追うごとに薄れていってしまうようです。その点、家庭教師をやっていれば、たとえ週に二回でも、中学生
や高校生を相手に、〝自分の過去〟に戻るわけですから、そのたびごとに、記憶が刺激され、活性化してくるというわけです。就職試験の日が近づいて、あわててにわ
か勉強を始める学生との差は、このあたりに原因があると思われるのです。一度、死んでしまった記憶を呼び戻すのと、つねに刺激を与えられ、頭の奥深くで生きてい
る記憶をよみがえらせるのとでは、それこそ天地雲泥の開きが出てくるのは当然でしょう。
たか ぎ しげ お
 また、私の友人の一人に日本の奇術研究の第一人者である 高 木 重 朗氏がいます。私も奇術がまんざら嫌いでもないので、よく会って教えを乞うのですが、そのたび
に感心するのは、数多い奇術を、そのトリックとともに、じつによく憶えているということです。彼の場合も、やはり「人に教える」ということが、記憶の強化と直結
しているのだと言えます。
 そもそも人に教えることができるためには、自分が理解しているのが先決で、これは暗記していることとまったく同じことなのです。また「教える」という行為は、
「反復する」こととも同じ意味をもっています。さらに、いつ、どこを尋ねられるかわからないのですから、それに対する心の準備もできている、というわけです。
 また、この高木氏にしても、忘れてしまって、即座には教えることができないという場合もあるようで、そのたびに調べ直して、もう一度憶えることを余儀なくさ
れ、ますます記憶は強化されて、定着することになるわけです。勉強についてもこれとまったく同じことが言えます。「苦手だ」とか「憶えられない」などと弱気を出
さないで、憶えたことは、積極的に他人に教えてしまうことです。教えることによって、自分の頭の中で知識が整理され、理解も深まり、復習ができるという、まさに
一石三鳥の効果があるのです。

 トイレや風呂に、きまった本を一冊おいておくのもよい。

いとかわひで お
 ロケット工学の権威・ 糸 川 英 夫氏の家のトイレと風呂には、いつもきまった本が置いてあり、読み終えるごとに新しい本に変えられていくそうです。そこにはいる
と、好むと好まざるとにかかわらず、一定期間自動的にある一定の本とつき合わされることになります。氏の該博な知識の秘密の一端を知るような気がしますが、これ
はけっして、時間を惜しむため、空白時間を埋めるためといった消極的な動機からではないはずです。
 というのは、一般に、日本の家屋は、構造的に私的な空間を許さないようにつくられています。そのなかで、一人きりになれる空間といえば、トイレと風呂くらいの
ものでしょう。その中にはいると、人は完全に自分をとり戻し、安心感が湧いてきます。ときには、内省的になることさえあります。したがって、集中力も高く、かな
り高度な内容の本をもちこんでも、じっくり理解し、記憶を強化することができるのです。
 私自身も、トイレには、よく本や雑誌をもちこみますが、風呂にまではさすがに本はもちこみません。しかし、それでも、頭はかなり高速度で回転させられます。憶
えたものを繰返したり、自問自答するには、またとないチャンスでしょう。
 現に、この本の中に盛り込んだアイデアのいくつかは、風呂にはいるたびに一つまた一つとまとめられ、整理されたものです。
 とくに、あまり得意でない科目の征服のために、この風呂学習法やトイレ勉強術は、効果を発揮しそうです。これらの場所は、いやなら行かなくてもいいという場所
ではありませんから、ほとんど毎日、半ば強制的にそこにおかれた本に触れなくてはなりません。ほかに何もありませんから、いやでもその本を手に取り、パラパラと
めくらないわけにはいかないのです。こうして時間がたつにつれて、情が移るというか愛情が出てきて、いつのまにか、その本を一冊読破・征服し、不得意科目が得意
科目に変わることさえ期待できるのです。

 電車の中で憶えるときには、一区切りごとに窓外の景色に目をやると思い出しやすい。

つい
 二つのことがらが時間的に接近して起こると、それが頭のなかで「 対 」となり、その「対」という形で憶えられることがあります。このようにして記憶されたもの
は「対」の一方を見出すと、他方もおのずから再生されます。これが、この本でもしばしば紹介してきた記憶術の原理のひとつ「対連合」です。ところで勉強部屋でな
くとも、この「対連合」の原理を、ごく身近なところで応用し、それなりの成果をあげることができるので、それを紹介しましょう。
 たとえば、電車の中です。坐りながら、あるいは吊り皮につかまりながら憶えるときは、一区切りすむごとに窓の外に目をやるのです。すると、記憶しようとする内
容と、その瞬間の景色とが「対」になり、あとで思い出すときには、景色のほうを手がかりに「対」の相棒を思い出せるということになるわけです。理科の食物連鎖の
ことを憶えていたときに、運よく窓の外に大きなスキヤキ屋の看板が見えたとしたら、でき過ぎでしょうが、なんでもよいから、その瞬間に見えたものもいっしょに頭
に焼きつけておけばよいのです。また、記憶のあい間に、窓外に目を転じることは、ほんの一瞬とはいえ、気分転換にもなります。記憶のあいだに、休止時間がもてる
ので、前の記憶と後の記憶がダブってしまい、両方とも不明瞭になるのを防ぐこともできるのです。

 反復した回数を記録しておくと、記憶は強化される。

 勉強にも、一定のリズムがあります。はじめは遅々として進まなかったのに、やがて急激に能率が上がったかと思うと、そのままの勢いで全体を征服してしまうこと
もあります。あるいは、波を打つように、遠くなったり遅くなったりしながら進み、その日の目標を達成することもあります。ときには、リズムに乗らず、全然能率が
上がらない場合もあるでしょう。
 このリズムは、その日の心理状態や個々の記憶材料によって異なっています。各々の記憶材料について、完全に憶えるまでに反復した回数を記録してみると、かなり
のデコボコがあり、難易の差も歴然としてきます。こうすると、憶えるのにひじょうに苦労したものについて、なぜむずかしかったのかを分析することが可能になりま
す。それを考えることが記憶の強化につながりますし、自分の記憶法の欠陥が浮かびあがってきて、能率的に記憶する方法を見つけだすきっかけになってくれます。ま
た、不得意なところや興味が湧かない部分はとばしがちになります。もし反復回数を記録しておけば、あとで点検して、苦手な科目や箇所ほど回数が少ないことを発見
するはずです。憶えていないのは反復回数が少ないためだとわかれば、苦手意識もなくなり、勉強のデコボコが平らになります。

 友人との会話の中で知識を確かめあうと、記憶が定着する。

 まえに、歴史の勉強のかたわらで、伝記などを読むことが、断片的、抽象的で、そのためにあやふやになりやすい記憶を、血のかよった確かなものにしてくれること
をお話ししましたが、同様なことが、友人との会話における知識や情報の交換についても言えます。まだしっかりと根をおろしていない記憶、自信のない記憶などが、
それを通してより確実なものになって、あなたの脳細胞に定着するのです。
 というのは、私たちの記憶は、自分一人でそれを獲得した時点では、まだひじょうに主観的なものです。自分で選んで買ってきたばかりの洋服のように、まだ人目に
は触れず、第三者からの評価も受けていません。もしかしたら、ただの思いこみで、それがいいと思っているにすぎないかもしれないのです。それだけに、ほんとうに
自分の身についたものかどうか、自分自身でも不安な一面があり、それが記憶自体の不確かさにもつながっています。世間に通用しない間違ったものを憶えていても仕
方がないからです。
 それに、最近の学生、生徒の勉強の仕方は、知識を得、記憶を増やす作業はしても、それがひじょうに孤独な一人作業であり、獲得した知識なり記憶なりを、自分の
口から外に出し、実際に使ってみる機会が少ない傾向があります。これでは、せっかくの知識も、温室栽培のひよわな植物の苗のように、雑多な情報が渦まく現実社会
の空気に触れると、たちまちなえしぼんで、根づくまえに死んでしまいます。
 そんなことにならないために、気のおけない友人との会話の中で、最近憶えたばかりの知識を交換し合うのが有効な一つの方法なのです。少々あやふやな記憶でも、
これこそは自信があるという確実な知識でもかまいません。友人をつかまえて、気軽に使うことです。「おまえ、独占価格って知ってるか?」「管理価格のことだろ」
「そうそう、なかなかやるね」「あたりまえさ。ビールなんかがそうだろ」「鉄もね」「うん、おれたち消費者が損してるんだ。結局、値が高くなるからな」などと
いった調子で、勉強の合い間にどんどんやってみてください。
 同じ材料を勉強していても、人はそれぞれ理解の仕方が違うものです。あなたが、あやふやにしか憶えていなかったことを、友人は詳しく知っていたり、またその逆
のこともあるでしょう。そのために、こうした会話によって、お互いに自分の弱い部分を補強でき、また知っているつもりのことも、いざ口に出して言おうとすると、
記憶がよく整理されていないことに気づいたりするのです。「記憶とは、使えば使うほど確実なものになる」という大原則とあいまって、友人との会話は、あなたの記
憶の定着に、かならず一役買ってくれるはずです。

 日本語の中に憶えたい英単語をもちこんで使ってみると、記憶は確実になる。

 戦後、日本語のなかに、大量の外国語(とくに英語)が流入してきたことは周知の事実です。ですから日本語に、英語をはじめとしたカタカナが混じっていても、
ちっとも奇異な感じはしないものです。むしろカタカナがはいっていない文章を読むと肩がこってくるような気さえします。
 こういった現象を利用して、自分の憶えた英語を日本語のなかにもちこんで使ってみるのも、記憶を確かにする有力な方法となるのではないでしょうか。キザだと思
われるのがいやなら、友だち同士で〝協定〟して、お互いに英語を混ぜて使うようにすれば、刺激し合いながらできる楽しみもあります。こういう方法を実行するとき
は、日本語の文脈ですでによく使われている英語から始めるとよいでしょう。そういった英語は案外、意味が正確に理解されていないことが多いものです。こういった
例としては、paradox, anachronism, dogma, pedantic, logic, authority, orthodoxなどがあげられるでしょう。あなたは、これらのうちどれだけ正確な意味を知っていたで
しょうか。
 これらを使うときには、スペルを思い浮かべるとともに、「本当の意味は?」と自問してみるようにします。「あの人は、科学のauthorityだから」というふうに「大
家」の意味に使うのも一例で、このチャンスに、authorityでいちばん重要な意味は、「権威、威信」であることをはっきりさせていきます。実際に使いながら、なんと
なく、あやふやに憶えている単語を、正確なものとして記憶することができるというわけです。そしてこういうやり方に慣れたら、もっと日常的な生活用語に英語を
使っていくようにすればよいのです。もちろん、なんでもかんでもそうしてしまうと、かえって英語が目立たなくなってしまい、記憶像が薄れてしまうので、この点は
注意してください。また、実際に口に出して言わなくても、歩きながらでも、ゴロッとしているときでもよいから、頭の中で思いついたものを英語に置き換えてみるの
です。
 すると、英語上達に欠かせない、英語で考えるという習慣を身につけるための引き金にもなり、一石二鳥の効果をもつわけです。また、日本語の文章を読みながら、
カタカナ言葉を見かけるたびに、原語のスペルと意味を思い浮かべてみるのもよい方法です。「主人公がベルボーイ時代に身につけた、荒っぽい変則ファイトと、一流
のハスラーには、ハスラーとしてのプライドがある」などという文章は、かっこうの〝練習台〟で、bellboy=ホテルの給仕、fight=闘争・けんか、hustler=腕っこき、
pride=誇り、と一語ずつ確認していくのです。文章自体の意味もよくわかってきますし、あとで、同じ単語にぶつかったときに「hustlerは、荒っぽい変則ファイトと
いっしょに憶えたから……」と、意味を思い出す手がかりにもなるでしょう。

 記憶の難易度を一定の色で区別すると、復習しやすい。

 先日、たまたま乗りあわせた国電の中で、受験生とおぼしき若者が、一生懸命参考書を読んでいました。ちょっとのぞいて見ると、かれの参考書はまことにカラフル
なのです。赤や青や黄色、はては緑やピンクのサインペンまで使われて、じつに美しい色模様をつくっており、ちょっと見ただけでも、やる気が湧いてくるような、ま
るでオーダー・メイドの参考書といったような感じを受けました。
 それにヒントを得て考えたものなのですが、五色も六色も使わなくてもよいから、せめて赤・青・黄の三色を有効に使って、復習しやすい参考書やノートを作ってみ
てはいかがでしょうか。赤・青・黄色、言うまでもなくこの三色は交通信号と同じです。赤は危険、青は安全、黄色は注意を表わしているわけですが、その意味をそっ
くり、参考書やノートの記憶事項にあてはめるわけです。たとえば、赤は重要事項のうちでもよく間違えるものとかどうしても憶えられないもの、つまり自分にとって
危険なもの。青は比較的よく憶えているもの、憶えやすいもの。また黄色はあいまいではっきりと憶えていないもの、といった具合に色分けしてみます。これによっ
て、自分にとっての記憶の難易度は、一目瞭然というわけです。
 こうしておけば、復習するときにどのようなところにポイントを置いてやっていけばよいかという〝戦略〟をすぐにたてることができます。あまり、時間のないよう
なときには赤く塗られた部分だけ集中してやるとか、余裕のあるときには赤と黄色の部分に力を注ぐようにするとかすればよいのです。また青い部分などは、さっと目
を通すだけで十分なことがわかっていますから、ただ単調に読んでいくのに比べると、力点の置き方を変えることができるので、はるかに能率的な復習ができることに
なります。また、黒い活字だけでできている〝色気のない〟参考書やおしきせの二色刷・三色刷に比べて、自分の手と頭で多彩・多様に色分けしたものは、使いやすさ
の点でも差があるでしょうし、美しいものを見れば、やる気も出てくるというものです。

 とり違えやすい固有名詞は、「ところ変われば品変わる」の原則を適用する。

 私が旧制中学のころ、西洋史(いまは東洋史と合わせて「世界史」となっています)は得意科目の一つでしたが、そのなかで、いつも間違えてくやしい思いをしてい
たのが、国王の名まえでした。イギリス、フランス、ドイツ、スペインなどの、いわゆる西欧列強諸国の歴史に、絶対王政がしかれていたことは周知の事実ですが、そ
こにはかならず同じような名まえをもった国王が顔を出しています。チャールズなどというのは、もっとも頻繁に顔を出す、〝売れっ子〟の一人です。一国だけでも一
世や二世、果ては九世、十世まで続いているような王朝があって混乱をきわめているのに、それが何カ国にわたって出てくるのですからたまったものではありません。
 そこで私は、この混乱・錯綜を何とか解決しようと頭をひねって考えた結果、一つの方法を編み出しました。たしかに教科書ではどこの国の国王もチャールズと表記
されてはいるが、名まえだって、「ところ変われば品変わる」で、すべて同じではないのではないか、と疑問を抱いたのが、そのヒントでした。さっそく、兄のもって
いたドイツ語やフランス語の辞書で調べてみると、案の定、ドイツではカルル、フランスではシャルルというのが、その国の言語どおりに表記した呼び方でした。さら
にスペイン語では、カルロスということもわかり、思わず手をたたいて喜んだものでした。
 そして、これをすぐに記憶に利用したのは言うまでもありません。たとえば、それまでは「チャールズ一世」などというと、まずフランク王国(現在のフランス)を
繁栄に導いたチャールズ一世、スペイン絶対王政を築いたチャールズ一世、さらに「権利の請願」を受理したイギリスのチャールズ一世と三人も出てきてよく間違えて
いました。しかし、この憶え方を利用するようになってからは、フランク王国はシャルル一世、スペインはカルロス一世、「権利の請願」はチャールズ一世、という具
合に間違えたくても間違えないようになったわけです。
 これだけにとどまらず、さらにほかの人名はどうかと調べてみました。「フィリップ」はフランスではフィリップでも、スペインではフェリペです。また「ウィリア
ム」はドイツではヴィルヘルム、「ヘンリー」もフランスではアンリというような具合です。(いずれも「」をつけたものは英語表記、つまり教科書での表記です)
 世界史の人名や地名など、とくに混乱しそうなものは、教科書どおりに憶えなければならない、などという規則はないのですから、このように自分なりに区別する方
法を見つければ、よいのです。また、その国語によって、特有の語感というものがあり、聴覚の面からも区別がはっきりして、記憶はいっそう鮮明なものとなるでしょ
う。

 ど忘れしたときは、そのものズバリを思い出そうとしないほうがいい。

のどもと
 試験場でのど忘れほど、悲劇的なものはありません。たしかに知っているはずのものが、文字どおり、 喉 元 まで出かかっているのに、なにかが足りない、そこであ
せって頭がカーッとなってくる、時間はドンドン過ぎていくという具合で、眼の前がボーッとしてくることさえあります。このまま終了のベルを聞き、終わってから教
科書を見て、地団駄踏むことは目に見えています。
 ど忘れは、このように、ど忘れした事柄を集中して思い出そうとしても、なかなか思い出せるものではないのです。たとえば、どこかヘカサを置き忘れてきたときの
ことを考えてみましょう。まず、「最後に行ったのはどこだったかな」と、記憶の糸をたぐり寄せるでしょう。それまでの自分の行動を、順に思い出していきます。
「Aまではカサを持っていた。つぎに行ったのはBだったけど、あのときはカサはなかったな。すると……」と、しだいに核心に迫っていきます。「そういえば、Aを
出て、電車に乗った。網棚にカサを置いて、そうだ!」と、どこで忘れたかを、思い出すわけです。
 つまり、この場合は、時間的な経過や空間の移動といった周辺状況から絞りこんで、忘れ物の場所を確定していくのです。
 試験や勉強の際のど忘れにも、この方法を適用してみるのが、思い出すための最良の方法です。ど忘れしたそのものを直接的に思い出そうとせず、思い出すための手
がかりを周辺から探していくのです。中学の理科で、「北天の星は、北極星を中心に左まわりに、一時間□□度の割合で動く。これは地球の自転のためである」という
問題で、□□のなかにはいる度数一五を、ついど忘れしてしまったら、その周辺にある地球の動きや、天体の年周運動についての記憶から思い出していくのです。□□に
こだわるのでなく、カサを探すのと同じ要領で、ジワジワと、そこへ向かって焦点を絞っていくわけです。北極星という恒星の日周運動を学ぶ直前になにを憶えたのか
というところまで、記憶が到達できれば、思い出されやすくなります。
 いざというとき、こうした方法をとりやすくするためには、憶えるときにも、思い出しやすいような憶え方をしておくことです。あちこちととびとびに憶えないで、
まず系統立てて、順に憶えておきます。そうすると、思い出すときには、その順序にたどれば、ど忘れしたものに楽に行き着くことができます。また、憶えようとする
ものの関連事項もかならず憶えておくことです。この関連事項からも、ど忘れを防止できるでしょう。
 試験のときは、どんなささいなことにも頭が混乱しがちですが、系統立てて勉強をしておけば、かならず思い出せるという自信も生まれてくるというものです。

 一冊のノートを多科目に使い分けると、記憶のためのエネルギーが長もちする。

 日本の中学生・高校生のノートをみて気のついたことですが、そのほとんどが科目ごとにノートを決めて使い分けているようです。授業で先生の講義を書きとるぶん
には、それでもかまわないのですが、知識を整理したり、それを復習・記憶していくときにも、同じ方法を踏襲するのは考えものです。ノートの使い方ひとつで、記憶
の残り具合はまったく違ってくることを知っておく必要があるのではないでしょうか。
 記憶というものはやっかいなもので、表面的に類似したものや見かけは異なっていても質の等しいものが集まると、記憶痕跡がたちまち融合したり、同化してしま
い、個々の記憶が吸収され、埋没してしまうという特徴があります。こうなると、それぞれの記憶は再生されにくくなってしまいます。心理学的ではこの現象を、「
ちょうじょう
重 畳 効果」と呼んでいますが、せっかく憶えたのに思い出せないのでは、記憶した意味がなくなってしまうというものです。
 この重畳効果を意識的に防ぐ方法としておすすめしたいのが、一冊のノートや単語帳を、複数の科目用に使うという方法です。たとえば、単語帳の一~十ページまで
は英単語、十一~二〇ページは数学の公式、二一~三〇ぺージは社会の暗記事項というように、〝カラフル〟にするのです。ページを繰ってもくっても、英単語―発音
記号―日本語訳がギッシリというノートでは、見ただけでため息が出てくるというものです。それに耐えながら憶えていったとしても、重畳効果のために記憶が抑制し
合ってしまい、時間のかかるわりには効果がうすい、ということにもなりかねません。
 ところが、このように多科目用の暗記ノートを作っておくと、心的飽和を避けることができます。心的飽和というのは、同じ行動を繰返しているうちに、目標の達成
意欲を失うことをいいます。集中力がなくなるのはそのせいなのですが、ノートの中で内容がいくつも変化すると、目先が変わって新たなエネルギーが生まれ、やる気
が起こってくるというわけです。

 「憶えた」と思ったことも、安心せずもう三回繰返す。

 ふつう、徹底して憶えたものは、ざっとおおざっぱに憶えたものより、長期間、しかも鮮明に憶えているものです。試験に出そうもない箇所、やさしい箇所はつい流
しがちになりますが、試験でミスを犯すのはだいたいこの部分です。「もう憶えた」「ここは簡単に憶えられる」という安心感が、じつはくせものなのです。
 こうしたミスを犯さないためには、憶えたことを何度も繰返す「過剰学習」が必要になってきます。何度も繰返すなどというと、大変な作業のように思えるでしょう
が、習慣化してしまえば、繰返すのがあたりまえというふうに、記憶のパターンがつくられます。
 ゴルフや野球などのスポーツでも、この「過剰学習」が大変重要視されています。やさしいこと、基本的なことを何度も繰返すことが、他のどんな練習をするよりも
上達に結びつくというのです。そのために、野球では正しいフォームでバットの素振りを繰返すことが奨励されています。ゴルフでも、一日一回クラブを握るとか、ク
ラブを振るとかの簡単なことが、上達のためのなによりの秘訣だと言われます。
 こうしたことをおろそかにしたために、いざ本番で三振したり、とんでもないミスを犯すことになるのですが、記憶でもっとも危険なのも、基本をおろそかにして
「もう憶えた」と安心してしまうことです。「過剰学習」の原理も、憶えたあと何度も繰返し、記憶をたいせつにしてあげようというところに特徴があります。「過
剰」などというと、何か余分なことをやるという意味に受け取られがちですが、これが記憶を確かにするもっとも早道なのです。
 問題は、「過剰学習」で最低何回繰返せば、余計な負担にならないかです。私は、勉強の相談にくる中・高校生に、「とにかく三回繰返す」という習慣をつけること
をすすめています。この三回には、心理学的な根拠はありませんが、私の体験や、多くの受験生の調査からみて、記憶を定着させるに必要な繰返しの基準になるのでは
ないかと思われるからです。
 どんなに簡単なことでも、とにかく三回は繰返してみることです。すると、今まで五回も六回も繰返さなければ憶えられなかったことも、不思議に三回で憶えられる
ようになります。おそらく、三回繰返せば憶えられるということが自己暗示になって、記憶によい影響を与えるのでしょう。ここまでくれば、「過剰学習」が余分な負
担になるどころか、勉強の能率をあげるポイントにもなります。また、この三回の繰返しが慣れになると、科目の違いによる記憶のデコボコも少なくなり、どんなささ
いなことも、しっかりと根を張っている状態をつくりだすことができ、成績もぐんぐんアップしてくるはずです。

 新しい言葉・専門用語などは、日常用語に組みこんで使うと憶えやすい。

「記憶力が悪くて、自信がありませんから、すみませんが紙に書いてくれませんか」などと、自信のなさそうな顔で言う人の通弊として、新語や専門用語など、なじみ
のない言葉に、心理的な違和感をもっていることが少なくないようです。つまり、それを日常の会話に導入して、自由に使いこなす自信がないために、憶えられないの
です。なかには、こちらが外国語をまじえて話すと、その言葉の意味も質問せずに、「先生は、横文字ばかりおっしゃるから、私みたいに頭の悪い者にはさっぱりわか
らないのです」と最初から拒絶反応を示す人もいます。
 これでは、記憶を増やせる可能性はありません。それがさらに、「記憶力が悪い」と思い込む原因となって、悪循環を繰返していくのです。しかし、まったく聞きな
ささざわ さ ほ こ がら
れない人名でも、何回か聞いているうちに、しだいに親近感が湧いてくるように、日常的に使えば、なじみが出てくるのです。 笹 沢 左保氏原作の連続ドラマ「木 枯 し
もん じ ろう こ むろひとし
紋 次 郎 」が放映されはじめた当初、フォーク調の主題曲(小 室 等 作曲)は、奇異な感じで迎えられたのに、しばらくすると、すっかりなじまれ、ヒットしたのも、
同じ理由です。
 勉強でも、なじめないからといって敬遠していたのでは、一生なじめないままで終わってしまう危険があります。あらゆる機会に使っているうちに、新しい言葉に親
近感をおぼえ、知らぬ間に内容の理解も深まっていきます。
 たとえば、「約束手形」や「為替手形」は、経済の専門用語で、はじめて聞いたときは、区別がさっぱりわからず、よそよそしい感じがしてならないでしょう。しか
し、「約束手形」には、「振出し人が支払い日と場所を約束して振出す」と定義してあり、「為替手形」には、「振出し人が支払いを第三者に依頼する」と定義されて
います。これでもいちおうはわかりますが、さらに理解し、確実に憶えるには、日常用語に使ってみることです。
 たとえばこんなふうに使ってみてはどうでしょうか。友だちといっしょに食事をして、たまたま金がなかったら、「出しといてよ。約束手形を発行するからさ」と言
えば、相手が「約手」のことを知っていたら、「いつ、どこで払うんだい」と聞きかえすでしょう。「そうだ、A君に金を貸してたから、為替手形にしてあいつに払わ
せようか」とも言えます。手形の実際の運用法とはちょっと違いますが、日常化して、意味を平易にしておけば、よく憶えることができるのです。
 新しい言葉や専門用語は、ちょうど、新品のクツと同じです。新品のクツは、はじめは、足に当たって履きづらいのですが、足になじむにつれて、足にぴったりは
まってきます。専門用語も自分の言葉にしてしまえば、もう恐れるに足りない〝ただの言葉〟にしてしまえるわけです。

 夜中に目を覚まして眠れないときは、記憶強化に利用する。

 夜中にふと目を覚ましたあと、頭がさえ渡ってしまい、眠れないことがあります。こんなとき、懸命になって眠ろうとするほど眠れなくなることは、どなたも経験が
あるでしょう。私はこういう状態に陥ったときは、無理に眠ろうとせず、その日に学んで記憶したことを強化する機会にしています。
 憶えて九時間以内に復習することが、記憶の強化に役立つことはすでにお話しましたが、復習の時間が早ければ、それだけ効率もよくなります。眠ってまだ三時間く
らいしかたたずに目覚めたときは、就寝まえに勉強したことを復習する絶好のチャンスです。どうせ眠れないなら、眠くなるまで復習の時間にあてるほうが、よほど得
策というものです。
 そのときのためというわけではありませんが、私は眠るときはかならず、読み直すための本とカードを置くことにしています。夜中にふと目覚めて眠れなくなったと
き、本を読んで復習したり、昼間読んで気のつかなかった要点を書きとめたりするためです。こうしておけば、よいアイデアが浮かんだときも、すぐにメモでき、朝起
きたときに忘れてしまったなどということもありません。みなさんの頭に挑戦した『頭の体操』の問題のいくつかも、じつはこうして生まれたのです。これがひとつの
習慣になってしまえば真夜中の勉強もまんざら捨てたものではありません。
 もちろん、一度眠ったら七、八時間は眠り続けるのが健康的であることは言うまでもありません。こうした方法のために、翌日の勉強にさしつかえるようなことが
あったら、かえって記憶にマイナスかもしれません。ただ、たまたま目覚めてしまって眠れないようなときは、眠る努力をするよりも、記憶強化に利用してみるのもよ
い、ということです。そのためにも、いつでも利用できるように、その日に憶えた素材を枕もとにそろえて〝待機〟させておくのもいいでしょう。この準備があれば、
朝早く目覚めたときも、わざわざ勉強机に向かわなくても、寝床の中で前夜の簡単な復習ができてたいへん便利です。

00 中途半端に「できた」と思うより、「できない」と思ったほうが記憶にとどまる。

 サスペンス小説を読んでいて、いちばんのおもしろみは、やはりストーリー展開の緊張感です。解決へ向かって進んでいるのはよくわかるのですが、一方で、このま
まずっと未解決で展開してくれないかという思いに、私はいつもかられます。というのは、解決にはたしかに爽快感はありますが、同時にそれまで続いていた快い緊張
感が失われ、一種の虚脱感にとらわれるからです。そして、しばらくすると、その小説のことなどすっかり忘れてしまいます。
 日常の記憶でも、ものごとが終わったとなると、とたんに忘れることがあります。私も、ゼミで一年間つきあって、名まえや人柄までよく憶えたはずの教え子が、い
ざ卒業してしまうと、それほど期間はたっていなくても、名まえを思い出せないことがしばしばあります。何人かの人を紹介されたときも、やさしい名まえですぐ了解
できたものと、聞きとれなかったり、字がわからなかったりしてすぐに了解できなかった名まえとでは、後者のほうをよく憶えています。
 これを心理学では「ツァイガルニク効果」と呼びます。ツァイガルニクという心理学者が、被験者を二つのグループに分け、簡単な問題をいくつか与え、一方には完
全に解いてから終わらせ、もう一方のグループにはやりかけのままで中止させました。そして、両方のグループに、いままでの問題を思い出すようにと言いました。そ
の結果は、「未了グループ」のほうがよく憶えていたのです。このことは、「終わったと思って緊張が解けると忘れるが、まだ終わらず緊張感の残っているほうが、よ
く憶えている」ということを示しています。
 また別の実験によると、答が会心のできだった場合、答は出たが中途半端だった場合、未了の場合とを比べてみると、問題内容が、もっとも鮮やかに記憶に残ってい
たのは、会心の出来だったときで、ついで、未了の場合、いちばん忘れられたのが、中途半端な答のときでした。
 答が完璧だったときは別として、あまり自信がないまま終わるぐらいなら、「まだ未解決」と心残りのままにしておくのが、記憶にとってはよいということになりま
す。
 ですから、問題集をやるときなど、自力で解決できなかった問題を、ヒントや答を見て、それで「できた」と思ってしまうことが、記憶にとっていかにマイナスであ
るかわかります。かりに、ヒントや答を見て解決法をいちおう理解できたとしても、「この問題についてはまだできない」と思っていたほうが、その問題はよく記憶に
とどまるのです。
 問題集でのドリルは、試験と違って、実力判定のためというよりは、むしろ実力練成のためのものです。だから、問題集をやった、答が出たといって「済み」にして
しまうのではなく、あくまでもその内容や解法、考え方を記憶に残すことが必要なのです。

01 よく間違えるものは、わざと間違えることで是正される。

 タイトルを見て、疑問を感じる人がいるかもしれませんが、始終間違えて困ることは、意識的に間違えて憶えるようにすれば、やがて間違えなくなることを証明した
のは、アメリカの心理学者ダンラップです。彼は、かつてから、定冠詞のtheをhteと間違えるクセがあって、悩んでいました。普通にタイプを打つときには、正しく書
けるが、急ぐと、すぐ打ち間違えてしまうのです。これを直したくて、もう絶対こんな間違いはしないぞと心に言い聞かせながら、わざとhteというスペルで、タイプ
用紙に一枚半も打ちました。その後さらに、この誤字練習を続けたところ、三ヵ月後には、いっさいミスをしなくなったというのです。
 自分でもさすがに驚き、これは自分だけに通用することかもしれないと、速記学校の生徒にも同じことをやらせてみました。すると、正しい綴りを練習させるより
も、「聞違い」とはっきり意識させながら練習をさせるほうが有効だと実証されたのです。
 常識的に考えると、間違いを多く練習すると、それが動かしがたい記憶として固定しそうに思えますが、意外にも、結果は反対だったわけです。これは、学習目標に
適合しない動作、つまり間違い動作が、わざとそうすることによって、学習目標に適合する動作と峻別され、その結果、目標に適合する動作だけが残るからだと考えら
れます。
 記憶は、正しく憶えるにこしたことはありません。しかし、いかに正しく憶えても間違えるようなときには、意識的に間違ってみると、逆に正しい記憶が定着するわ
けです。漢字の書取り、英単語などのように「うっかり間違う」ことが多いものは、この方法を活用すると、意外な活路が開かれることがあります。

02 復習するときは、憶えたときの順序を変えてみる。

「反復なければ記憶なし」と言っても過言ではないほど、記憶に反復はつきものです。私もこの本で、反復の重要性について何度も触れてきましたが、反復の仕方がへ
ただと、勉強の能率はいっこうにあがりません。たいていの人は、一定の順を追って、いつも同じパターンで反復しているようです。たしかにこの方法は、バラバラで
あるはずの素材を、順序という文脈でとらえて、位置を固定して憶えますから、思い出すときにもどこにあったかを思い出せばいいわけで、きわめて有効な方法と言え
ましょう。このオーソドックスな方法を、反復の基本としてだれもが使うのもうなずけます。
 しかし、この方法には、いくつかの欠点があります。まず第一に言えることは、実戦向きでないということです。たとえば、英単語を憶えるときに、アルファベット
順に憶える方法だけに頼って憶えていると、憶えたつもりでいても、テストのときに単語は、当然のことですが、アルファベット順には出てこないので、応用がきかな
くなる、という悲劇的な事態を招くことになりかねません。
 第二の欠点は、記憶にバラツキが出やすいということです。前にも述べたように、順序を固定して憶えると、はじめと終わりの記憶は比較的確かですが、中ごろはあ
やふやになっていることが多いのです。人間はとかく、なにかものごとを新しくはじめたときには精神が集中しますが、慣れてくるにしたがって散漫になってくるもの
です。いつも同じ順序で反復を繰返していると、精神を集中した箇所としなかった箇所が同じになり、記憶にバラツキが生じる恐れがあるのです。
 同じ順序で復習する第三の欠点は、勉強に変化がなく、記憶のための持続力が減退することです。たとえば、いつも気乗りのしないところから勉強を始めなければな
らないとなると、机に向かう気も起こらず、エンジンもなかなかかかってくれません。
 これらの欠点を補うには、ときには、いったん憶えたら、順序をこわしてしまい、アットランダムに並べ換えてみるのも一法です。無作為に記憶をひとつひとつ
チェックしていけば、実践向きの力もついてきます。本来は時間的順序で展開する歴史でも、「時系列」をこわして復習することによって記憶を強化しておけば、たと
え時代をバラバラにした問題が出されても、けっしてまごつくことはありません。
 順序を逆転させたり、好きなところから復習したりする記憶法は、記憶のバラツキを防ぎ、気分転換の役割も果たしてくれます。よく勉強するわりには成績が上がら
ないと悩んでいる人は、一度この方法を試してみるといいでしょう。

03 長時間同じものを記憶するときは、軽く休憩をとると能率がアップする。

 ノートの作り方の項でも触れたことですが、同じことを、それも長時間続けると、人間は集中力を失い、注意力も散漫になってきます。同じようなもの、類似したも
のを記憶しているうちに、それぞれが抑制しあって、確かな記憶として定着しにくくなってしまうのです。
 マッグーとマクドナルドという二人の心理学者による、つぎのような実験があります。まず、被験者たちに形容詞の一連のリストを記憶させたあと、グループに分け
ます。Aグループには笑い話を読ませ、Bグループは三けたの数を暗記させ、Cグループは無意味綴りを記憶させ、Dグループはさきに記憶した形容詞とまったく無関
係な形容詞の記憶をさせ、Eグループはもとの形容詞の反対語、Fグループは同意語をそれぞれ記憶させるという作業を課したのです。そのあとで、いちばん最初に記
憶した形容詞のリストを再生、つまり思い出させたところ、笑い話を読んでいたAグループの再生率が、もっともよく、半分近い四五パーセントを思い出しました。以
下しだいに悪くなって、Bグループ三七パーセント、C二六パーセント、D二二パーセント、Eグループで一八パーセントになり、もとの形容詞と同じ意味の言葉を記
憶したFグループはわずか一二パーセントしか思い出せないという結果を得たのです。
 この実験からわかることは、類似したものを連続してやるよりも、まるで別のことをするほうが、より思い出しやすくなるということです。それも、笑い話を読むと
いった、記憶時の緊張を解きほぐすような〝一服〟が、とくに有効というわけです。この方法は、世界史や日本史、また生物などの類似したものの暗記量が多い科目の
試験を控えているときなどに大きな力を発揮します。

04 一度憶えたことは、つねに頭の中で自問自答してみる。

 言うまでもなく、記憶はただ憶えたというだけでは何の役にも立ちません。再生、つまり思い出すことができて、はじめて意味があるのです。思い出しやすいように
憶えるにはどうしたらよいか、これは記憶法則のポイントの一つですが、そのための方法に、〝自問自答法〟があります。これは、一度憶えたことも、つねに意識的に
頭の中で自問自答することによって、記憶の痕跡をさらに深く刻みつけようとするものです。
 過去に起こった大きな電車事故や大地震で、同じ状況にいた人の多数が死亡したのに、冷静に行動したために難を逃れた人の調査をしたことがあります。その結果で
も、彼らのほとんどが例外なく、つねにいざという場合に備えて、この〝自問自答法〟を活用していたことがわかりました。ある人は、さまざまな事態を想定して、た
とえば、「地震で、玄関のあたりが崩れ、とび出せなくなったらどうするか」「勝手口から、裏の通りに出る」「それでは勝手口もダメだったら?」「六畳間の窓から
べい
出ると、ちょうど足が石 塀 にかかるから、塀伝いに」「塀が倒れていたら?」……と、。さまざまな対処法を頭のなかで反復練習していたそうです。おかげで、実際
に地震にあったとき、即座に対応して難を免れたというわけです。
 試験場で、問題用紙を前にしたとき、ど忘れに悩まされることなく、すぐに問題に対応できるようにするには、やはり、この方法が威力を発揮します。憶えたこと
を、つねに頭の中で自間自答しながら記憶を固めてさえおけば、答は自然に出てくるというものです。
 私の知人から、中学生になる息子が高校受験の社会科の勉強にテレビを利用しているという話を聞いたことがありますが、これこそまさにこの自問自答法です。テレ
ビのなかった時代に育った私には、とうてい思いつかない巧みな記憶法です。彼は、夕方六時半からのニュースを欠かさず見るようにしているというのです。彼は、な
にもニュースから社会科の知識を得ようとしているのではなく、ニュースを、すでに知っていることの反復のためのきっかけにしていたのです。
 たとえば、「首相は、今朝、大阪の経済界実力者との会談後、記者会見を行ない、当面は、国会を解散する意思のないことを明らかにした」とキャスターが言うと、
彼は、「それでは、地方議会の解散は?」と自問し、「有権者の三分の一以上の署名で、選管に請求できる」と自答します。さらに「解散の手続きは?」「住民投票を
行ない、過半数ならば解散」などと、続けます。「春闘や秋闘のころには、労働問題がよくニュースに出るので、労働関係はすっかり憶えてしまった」と自慢していま
したが、たしかに、ニュースを聴いていると、社会科の全領域をカバーする自問自答ができるようです。

05 十日後の一時間の復習より、九時間以内の十分間の復習のほうが記憶を定着させやすい。
 憶えなくてはならないことは山ほどあるのに、なかなか勉強が進まないというとき、人はとかく一度憶えたことはそれでよしとして、どんどん先へ進みたがるもので
す。記憶に繰返しがたいせつだということは十分わかっていても、ひととおり進んで、何日かたったらもう一度、二度と繰返せばいいと思っている人が案外多いのでは
ないでしょうか。
 つまり、繰返しをするのは何時間後、何日後でもかまわないと考えている人が、かなり多いのではないかと思うのです。
 もしそうだったとしたら、これはせっかくの努力を、ずいぶん無駄にしているといわなければなりません。というのは、同じ繰返しでも、それを最初の記憶から何時
間後にするかで、その効果がまったく違ってきてしまうからです。
 前述した有名なエビングハウスの実験によると、人間の記憶には一般に忘れられやすい部分と忘れられにくい部分とがあり、全体の三分の二を占める忘れられやすい
部分は、一度憶えただけで後の繰返しをしないかぎり、たいてい九時間以内に忘れられ、残りの三分の一は、一日、あるいは数日という長いサイクルで次第に忘れられ
ていくといいます。
 同じ繰返しをするなら、すっかり忘れてしまったことをまた新たに憶え直すより、おぼろげながらまだ形をとどめている記憶を補強し、息を吹き返させたほうが、ど
んなに能率的であるかは明白でしょう。
 となれば、記憶の中のもっとも忘れられやすい部分が、まだ多少なりとも頭の中に影をとどめている九時間以内に、記憶作業の繰返しをすれば、五日も十日もたって
からだったら一時間も費やす繰返し作業が、たったの十分そこそこで十分な効果をあげることもありうるわけです。
 かといって、三十分後や一時間後のようにあまり直後の繰返しでは、逆にまだ忘却率が高まっていませんから、補強する意味がないことは言うまでもないでしょう。

06 同じ内容でも、異なった形式で繰返すと記憶はより確実になる。

 記憶にとって、繰返しが不可欠な要素であることは、何度もお話してきました。しかし、この繰返しの仕方にもいろいろな方法があり、とくにいったん憶えたはずの
知識を、より確実にし、思い出しやすくするには、それなりの工夫が必要です。
 記憶の第一段階における繰返しは、とにかく同じ内容を同じ方法で機械的に繰返すことです。英語の単語、歴史の年代、人名とその業績、化学式、数学や物理の公
式、いずれをとっても最初憶えるときは、理屈抜きでとにかく反復訓練します。ときには、お経のように口の中で繰返しとなえることも必要になってくるでしょう。
 しかし、こうしていったん憶えた記憶を、より確実なものにし、思い出しやすくするには、こうした同じ方法による反復訓練だけでは心もとない一面があるのも否定
できません。単純な反復作業は、どうしても慣れや飽きを生じやすいため、目が単に活字の上を走っているというようなことになりかねないのです。とくに、記憶の確
認は、最初憶えたときと同じ方法では、つねにその知識をある一方向から眺めるだけに終わりやすく、効率のよい方法とは言えません。
 そこで、記憶の確実化をはかるためには、その知識に関して過去にとってきた方法とできるだけ、別な方法をとるようにします。まったく同じ内容でも、それに接す
る形が違うと、その内容が新鮮に見え、さらには同じ内容の別の面が発見できるという効用があるのです。卑近な例では、たとえば、「刑事コロンボ」をテレビで見て
から、たとえ同じ内容でも、そのストーリーを本にしたものを読むと、新鮮な感動があります。もし、映画になっても、おそらくまた新たな感動を求めて見に行くに違
いありません。
 記憶についても、これとまったく同じことが言えるのです。歴史の勉強でも、最初に教科書を繰返し読んで憶えたら、つぎには年表で確認し、さらに参考書を使い、
つぎに歴史地図にあたり、さらに間題集をやるというように、角度を変えて憶えます。予習、復習、授業で、それぞれ形を変えてやってみるのもいいでしょう。
 こうして、形をずらしながら繰返すと、そのたびに思考がまったく異なったパターンで展開し、反復の効果があがるのです。
 英単語を憶えるにしても、英単語を見てその意味を日本語で言うという方法だけでなく、単語帳を逆に見て日本語から英語を思い出す方法や、その語を含んだ短文を
訳す方法、その語を使った英作文をする方法など、多角的に攻めることによって、記憶は、もう忘れたくても忘れられないほど強固なものになっていくはずです。

07 参考書の目次は、バラバラの記憶を体系づけて定着させるのに役立つ。

 参考書や教科書は、中身の記述がもっとも重要なものであることはもちろんですが、記憶の効率化という観点で見たとき、注目しなければならない強力な武器の一つ
として、目次があげられます。もしあなたが、本の中身の勉強に懸命になるあまり、目次などは、何については何ページに出ているという、たんなる場所さがしのため
の〝案内板〟にすぎないと考えているとしたら、即刻、その考え方を改めていただきたいのです。
 その理由の第一は、目次こそ、ともすると断片的になりがちな個々の記憶を体系づけ、整理して脳ミソの中にしまいこむ、より確実な記憶のための案内板になりうる
からです。つまり、目次に記されている第一章、第二章……という章分けは、その本に述べられることのもっともおおまかな骨格を示し、それぞれの章の中にさらに第
一節、第二節……というように、その章を構成する重要な要素があげられています。たとえば、ある世界史参考書では、もっともおおまかな章立てとして、Ⅰ文明の発
生、Ⅱ古代文明の成立、Ⅲ東アジア文化圏とイスラム文化圏、Ⅳヨーロッパ世界の形成、Ⅴヨーロッパの近代化とアジア諸国の繁栄、Ⅵヨーロッパ近代国家の発展、Ⅶ
現代の世界、があげられ、さらに、たとえばⅣヨーロッパ世界の形成が、1西洋中世世界の形成、2西洋封建社会、3封建社会の変動、などのように分けられ、その中
の1西洋中世世界の形成の要素として、ゲルマン民族の大移動、フランク王国の成立と発展、中世国宗の誕生、ローマ・カトリック教会の発展、ビザンティン帝国の盛
衰があげられています。
 つまり、目次とは、言い換えれば、その本のもっとも重要な全体の流れの、必要最小限の簡潔な要約なのです。ですから、極端に言えば、なによりも先に憶えなけれ
ばならないのは、細かい人名や事件よりもむしろ目次そのものだとも言えましょう。そして、あなたの記憶にある細かい事項は、この目次の中のどこに、どのように位
置づけされるかという課題を通してこそ、はじめて確かな記憶として頭の中に定着するのです。
 目次が、記憶術の武器として有力なのはまず第一にこうした理由からですが、その本を学んでいく日常の勉強においても、さまざまな利用法が考えられます。たとえ
ば、その本を開いて勉強するときは、いつも、まず目次をひととおり見てから、その日の予定ページにはいるというやり方があります。それによって、今まで習ったこ
とと、これから習うこととの関係における、その日の予定の全体的な位置づけがつねに明確になります。さらに、目次にあげられている項目は、どれをとっても、論述
式問題などの主要なテーマになるものです。この項目だけを見て、その内容が思い浮かぶようになることこそ、その科目の完全なマスターにつながるのです。

08 試験で間違えたところは、かならず記録にとどめておく。

 私は試験とは、「どのくらいわかっているか」を知るとともに、「どのくらいわからないか」を知るためのすぐれた手段だと思っています。試験は、ふだんの勉強で
は判断できない欠点や誤りを客観的に指摘してくれるものですから、点数よりも事後の処置が重要なことは言うまでもありません。ところが、誤った箇所を厳重に
チェックし、正しい答えを記憶することは、だれにとっても愉快なことでないためか、容易に忘れてしまうという困った現象が起こります。
 こうした現象を避けるためには、テストの間違いを義務として記録するのも一法です。たとえば、試験問題から間違った部分だけを取り出して、科目別にスクラップ
しておくのもいいでしょう。また、〝誤答記録専用ノート〟をつくって、左ページに誤答を書き、右ページに正答を記しておいて、ときどき開いて見るのも有効です。
テストの間違いは、結局、記憶のもっとも弱い部分がえぐり出されたのも同じですから、これを忘れずにとっておけば、その弱い部分が埋められ、同じ陥し穴に二度と
落ちずに済むはずです。
 ゴルフでも、同じコースに何度も行くと成績がしだいによくなってくるものです。これも、まえに犯したミスがしだいに頭に刻みこまれて、同じミスを犯さないよう
に慎重にプレーするためでしょう。ゴルフ好きのある知人は、成績の悪かったときほど、スコアカードを慎重に点検し、ミスの原因をよく考えるそうです。ですから、
同じコースに二度目に行ったときは、まえの成績が嘘のようなよい成績を上げています。
 成績の悪かった答案用紙を点検し、それを記録にとどめる作業は、自我をいじめることでもあり、たいへんにつらいことです。しかし、どこに記憶の不備があったの
かを反省して、自分のウィークポイントを強化していけば、逆にその部分がもっとも得意になることも可能です。こうして、苦手科目を征服していくにつれて自信も深
まり、他の科目にもよい影響を与えます。一時の苦痛や不愉快さを逃れようとすると、あとでそれがもっと大きな苦痛になって返ってくるのです。

09 索引は、絶好の〝記憶チェック・リスト〟になる。

 参考書や教科書を記憶術の道具として見直してみると、目次のほかにもう一つ、索引という強力な武器があります。索引は、目次と違って、重要事項が体系的にでは
なく、アイウエオ順とかABC順に機械的に並べられています。じつは、この機械的に前後の脈絡なしに並べられているということこそ、索引が目次と違った意味で記
憶の補強に役立つゆえんなのです。
 というのは、目次の場合は、体系的な知識の整理に格好の〝見取り図〟を示してくれますが、反面、重要事項が相互の関係に基づいて並べられているため、個々の知
識の確かさをためそうとしても、前後の項目がヒントになってしまい、厳密な意味での個々の知識の確認にならない場合が、おうおうにしてあるのです。その点、索引
は一つひとつの項目が、前後の項目とまったく関係なく、独立して並べられています。そのため、索引の項目の一つひとつについて、十分知っているかどうかを、公正
にためしてみることができるのです。項目の一つひとつをたどりながら、記憶の確かさをチェックできるという点で、索引は、その本に関する記憶の、絶好の〝チェッ
ク・リスト〟と言うことができます。
 このとき、並んだ順番に従って、しらみつぶしにチェックしていってももちろんいいのですが、もうすこし工夫すれば、こんな方法も考えられます。索引の中には、
項目の中のとくに重要なものを太字で印刷してあるものがありますが、そうでなくても、たいていその項目が登場するページ数が、「○○…54、60、105」
「××…82、95~97、113、120」のように、もらさずあげられています。そのページ数の多さが、そのままこの本でのその項目の登場頻度を表わし、重要度のラ
ンキングを示しているといっていいでしょう。知識を確かめるときは、このランクの高いものから、いまの例でいえば、○○より××のほうを優先して復習していけばよ
り能率的なのです。
 索引のもう一つの効用は、目次とはまた違った観点での知識の整理ができるということです。たとえば歴史では、目次で歴史の流れにそった知識の整理ができるのに
もとおりのりなが
対し、索引では一つの事柄をいろいろな観点から見直せるのが特徴です。一例をあげれば、「 本 居 宣 長 …39、45、90、101~103、155」という項目をひく
と、まず一〇一~一〇三ページに、本居宣長について詳しく書かれていることがわかります。そのページを読むと、宣長という人物に関する記述から、逆に歴史の流れ
を連想することができます。そして、三九、四五、九〇、一五五ページと、とびとびに出ている箇所では、まえには気づかなかったり、忘れていたりした意外なつなが
あんどうしょうえき
りを確認することができます。農本主義者の 安 藤 昌 益 が、本居宣長と同じページに出ていることを見つけて、宣長が、農民の困窮に関心をもっていたことを思い出
すといった具合です。

10 何本かの〝連想の鎖〟の交点を求めると、忘れていた記憶がよみがえる。

 まえに、記憶を確実にするためには、一つだけの方法ではなく、何種類かの形を変えた憶え方で憶えておくことがたいせつであることをお話しました。確実な記憶と
は、即、思い出しやすい記憶であることは言うまでもありませんが、万一、ど忘れしたり、記憶があいまいな事柄がでてきたら、この憶え方をそのまま逆にたどること
によって、埋もれていた記憶を発掘することができます。
 つまり、思い出したいその事柄が、だいたいどのあたりにあるかの見当をつけ、その周辺でいくつかの角度から、関連事項の〝連想の鎖〟をつくってみるのです。も
ともと、記憶とは、それだけ単独で頭の中にはいっているわけではありません。むしろ、いま述べた記憶法のように、意図的に多方面に関連づけられ、〝連想の鎖〟で
編まれたネットとして頭の中にしまいこまれているものです。したがって、図式的にいえば、一本の〝連想の鎖〟と、また別方向からの〝連想の鎖〟をたぐると、その
交わったところに、思い出したかった記憶が見つかるはずです。
 たとえば、英語の正誤問題の中に、魚のサケを意味するsalmonが出てきて、その単語に複数の-sがついていたとします。これがあやしいなというところまでは気がつ
いても、はたしてsalmonに複数の-sがつくことがあるのかどうか、記憶があいまいです。こんなときは、たとえば〝連想の鎖〟の一つとして「英語の単複同形とか複数
形をもたないものは何か→数えられないものは複数形にならない→数えられないものとは、抽象的なものや、つねに群をなして数えられないものだ→魚はよく群をなす
ことがある」などと思い出し、一方で魚という〝連想の鎖〟から「ほかの魚ではどうか→マス、アユ、コイ→コイ=carp→広島カープ→他球団はドラゴンズ、ブレーブ
ズと-sがついている→しかしホエールズと鯨にも-sがついている→鯨は魚ではない」――ざっとこのような〝連想の鎖〟を交わらせると、魚には複数の-sがつかないこ
とが思い出され、salmonsの-sが誤りであるとわかるのです。

11 ど忘れしたときは、五十音を順番につぶやいてみる。

 記憶にとって、ど忘れほどやっかいなものはありません。たんに思い出せないというのなら、何らかの手段で思い出す手がかりもつかめますが、ど忘れしてしまった
のですから、スポッとそこだけ意識が陥没しているようなもので、思い出すための手がかりもなかなかつかめません。私の中学時代の友人も、歴史の試験で、「朱子
学」という、中学生なら忘れることなどけっしてないはずの言葉をど忘れして、油汗を流したことがあります。試験終了まぎわやっと思い出して窮地を脱したのです
が、彼の思い出し方がなかなか秀逸なのです。
のど
 彼は、どうせ思い出せないならと、「あ」からはじめて、五十音を順に小声でつぶやいていったというのです。考えてみれば、ど忘れはたいてい、 喉 のところまで
出かかっていて思い出せないのですから、最初の一文字を発見するために、口のなかでつぶやいて、のどに刺激を与えるという方法は理にかなっています。試験が終
わったあとで、彼は「〝し〟のところまできて、不思議にピタッとやめてしまったので、それでピンときた」と話していましたが、「し」の音が聴覚記憶と脳のどこか
で結びついていたのにちがいありません。この方法がいつでも成功するとはかぎりませんが、窮余の一策として試してみる価値はあると言えましょう。

12 いざとなったら、頭をたたいてみるのも手である。

 記憶とは、系統立てて憶えたつもりでも、知らぬまに自己運動をして、思いもよらないつながりとともに脳におさめられていることがあるものです。思い出そうとし
ても、容易に出てこないのは、脳が勝手に記憶を処理し、自分では意図しなかった配列になってしまっているのが原因であることがよくあります。人間の脳は、巨大な
ファイル・キャビネットであると同時に、バカでかいオモチャ箱でもあります。その中には、きちっと整理整とんされている知識と、雑然と積み重ねられている知識と
があるのです。
 とくに、手がかりがさっぱりつかめない記憶は、オモチャ箱のほうに混じっている可能性も強いので、こんなときは脳のジタバタ運動(運動暴発)を起こして、強制
的にひっぱり出す方法もあります。たとえば、頭をたたいて物理的に刺激するとか、まったく無関係なむずかしい迷路問題を解くなど、とにかく脳細胞に強い刺激とな
るようなことをしてみるのです。
 少々荒っぽい方法ですが、尋常な手段でダメなときは、試してみる価値はあります。記憶は、本人の気づかないところで結びあっているので、本人の関知しないとこ
ろから発見されることは、十分考えられるからです。
13 雑音・騒音も、思い出すキッカケとすることができる。

 みなさんにも経験があることと思いますが、自分の声をテープレコーダーに吹きこんで、再生してみると、吹きこんだときにはまったく気のつかなかった、さまざま
な音がはいっていることがあります。自動車のエンジンの始動する音、犬の鳴き声、子どもの話し声など、いったいいつこんなに雑音がはいったのだろうかと、われな
がら驚かされてしまいます。録音するときに、このような雑音が気にならないのは、それが、意識の背景、心理学で言う「地」になっているからです。これに対して、
録音されているテーマは、「図」として意識の表面に出てきています。しかも、この「地」と「図」とは、ワンセットになっており、切り離すことのできないものとし
て構成されています。
 ものごとを記憶しようとしているときも、頭の中にこの「地」と「図」があるのです。さまざまな雑音が周囲にあり、そのときは意識されなくても、頭という精密な
コンピューターに、記憶の内容と同時に、インプットされているはずです。犬の鳴き声を聞いたとたんに、アウトプット、つまりなにかを思い出したりすることがある
のは、雑音や騒音が記憶の「地」になっているためです。
 このメカニズムを利用すると、それらの音をきっかけにして記憶を再生することができるはずです。じっさい、私の知っているある高校生は、暗記のときにこの方法
を実行しています。彼は、単語帳の各ページの右端をかならず空白にしておくのです。憶えながら、窓外で車のきしむ音がしたら、さっそく、その単語の横にある空白
に「いま道路で、キーッという車輪のきしむ音がして、一瞬びっくりした」などと、日記ふうにメモしておきます。
 雑音や騒音は気が散る原因になり、記憶の妨げになることのほうが多いのですが、こうしてメモしておけば、退屈さがまぎれるだけでなく、「treasureを憶えていた
とき、車のきしむ音がしたっけな」と、雑音がかえって、思い出すきっかけになってくれるということです。

14 記憶術のための記憶術は、かえって害になる

 これまで、記憶にまつわる基本原理から始めて、速憶術、多憶術、確憶術というかたちで、百余りの方法・テクニックをご紹介してきました。この本の読み始めのこ
ろに比べたら、かなり自信がもてるようになったのではないでしょうか。というのも、ここで紹介している方法は、どれをとってみても、今すぐ実行可能なものばかり
だからです。いや、この本を読み終らないうちから、既に実行している人がいるかもしれません。
 しかし、実行に移るまえに、最後にひとことだけ、蛇足になるかもしれませんが老婆心ながら注意しておきたいことがあるのです。それは記憶術というものを使う対
象を、きちっとわきまえるということです。記憶術というのは、あくまでも記憶できるもの、また記憶すべきものについて用いるべきものである、ということです。理
解すべきものや思考すべきものを相手にしているにもかかわらず、何でも記憶術で対処しようとしてはならないのです。たとえば、数学の図形問題や数式問題、また物
理の力学や電気の問題などは、暗記したところで、何の役にも立たないことは、みなさんも経験的に知っているはずです。にもかかわらず、試験のまえになると、あせ
りが先に立ってしまい、問題や答そのものを暗記しようなどと考えてしまうのです。やみくもに、記憶術に頼ろうとすると、記憶力の基礎となっている「理解力」「思
考力」が逆ににぶってしまう危険性があるわけです。
 いままで、たびたび触れたように記憶とは、理解という土台があってこそ、はじめて成り立つものなのです。まさに〝理解は記憶の母〟ということです。その肝心の
理解力が落込んでしまっては、元も子もありません。わたしが、この本を書いた真の目的は、科学的・合理的な記憶術のテクニックをマスターすることによって、まる
暗記や棒暗記にかかっていた無駄な時間やエネルギーをすこしでも節約し、その浮いた分を、理解や思考のほうにまわすようにしていただきたい、ということにつきる
のです。ですから、記憶術は一見、目的のように見えながらも、じつは手段なのです。その手段と目的とをはき違えてしまっては、勉強の能率があがること、またそれ
に伴って成績がアップすることそのどちらもおぼつかない、ということにもなりかねないのです。記憶術のための記憶術は、かえって害になる、というわけです。
 この本では便宜上、記憶術を「速憶術」「多憶術」「確憶術」の三つに分けていますが、これらがお互いに補い合ってこそ、それぞれのテクニックがその真価を発揮
するものだ、ということです。「より速く より多く より確実に」というのは、この三つの性格をムラなく備えたときはじめて、記憶というものが完璧になる、とい
うことを言い表わしているのです。

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