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現代文  評論
渡部真一

美しさの発見 〈全二回〉
講師

 
高階秀爾
■学習のねらい■
評論を読んで、文章の構成・展開を理解し、論旨を的確にとらえます。また、
当然だと思っていたことについて、あらためて深く考えてみます。
学習のポイント
問題提起の部分を読み取る
〈1〉

具体例の用い方に注目する
「美しさ」についての一般的な考え方をとらえる
少年龍之介が叱られたわけを考える
〈2〉

「美しさ」についての筆者の見方をとらえる
全体の論の展開と筆者の言いたいことを確認する
理解を深めるために
 美しさ の 発 見 〈1〉
問題提起の部分を読み取る
本文は、四つの部分に分けられています。導入の役割を持つ第一段落の話題は
何でしょうか。
「コロンブス」や「キュリー夫人」「ライト兄弟」など、いろいろ
な人物が話題になっていますが、
主役は彼らではなく、筆者の意図は、「発見」と「発
明」との違いを確認することです。
 「発見」……昔からちゃんと存在はしていたけれども誰も気づかなかったもの
を見つけ出すこと。
 「発明」……今までになかったものを新しく創り出すこと。
これを受けて、筆者は問題提起をします。「美しさ」を「発見」するというときも、
同じなのだろうか、と。
ラジオ学習メモ

具体例の用い方に注目する
第二段落で、筆者は具体例を挙げます。それは、次の二つです。

国語総合
松尾芭蕉は、目立たないすみれ草の新鮮な美しさを発見し、俳句にした。

第 79 〜 80 回

⃝ザンヌは、サント・ヴィクトワール山を描き、誰も表現しなかった新しい
美を表現した。
この二つの例の共通点はどういうことでしょうか。それは、芭蕉の俳句を読み、

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またセザンヌの絵を見る私たちが、彼らの俳句や絵によって、すみれ草やサント・

ヴィクトワール山の美の魅力に導かれた、という点です。その共通点を読者に理
解してもらうために、一見、全く無関係とも思える芭蕉とセザンヌの例を用いて
いるのです。
「美しさ」についての一般的な考え方をとらえる
筆者が芭蕉の句とセザンヌの絵という二つの具体例を挙げたのは、何のためで
しょうか。それは、彼らによる「美しさ」の「発見」ということに関連して、
「美
しさ」についての一般的な考え方を示すためです。その考え方を筆者は、いろい
ろな言い方で説明しています。
*「美しさ」は、そのものから発する放射能のようなものである。
*「美しさ」は、自然の風物や芸術作品など、そのもの自体にあって、我々は
それを受け取る。
*「美しさ」は、対象そのものの持つ属性である。
このように、
「美しさ」は、美しいと見られるもの、そのもののほうに存在す
0 0 0 0 0
るという考え方が「広く一般に受け入れられている」と筆者は言います。という
ことは、他の考え方もありそうだ、ということになります。
 美しさ の 発 見 〈2〉
少年龍之介が叱られたわけを考える
第三段落で筆者は、今度は少年の頃の芥川龍之介のエピソードを話題にしまし
た。
「美しいもの」として、
「雲」と答えた少年龍之介は、なぜ先生に叱られてし
まったのでしょうか。
先生は、
「 雲 が 美 し い も の だ な ど と い う の は お か し い 」 と 叱 っ た の で す。 こ の
とき龍之介少年を笑った他の生徒も、
この先生も、「美しさ」は、「花」や「富士山」
に内在している性質だ、という一般的なものの見方をしていたのでしょう。そし
ラジオ学習メモ

て、一般に人が「美しさ」を認める「花」や「富士山」と、そうでない「雲」と
は別の種類のものだ、と考えていたので、芥川少年がまじめに答えていないと思
って先生は叱った、というわけでしょう。

国語総合
第 79 〜 80 回
「美しさ」についての筆者の見方をとらえる
筆者はなぜ、少年龍之介のエピソードを紹介したのでしょうか。それは、「美

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しさ」についてのもう一つの考え方を示すためです。少年龍之介は、実際に「雲」

を「美しい」と感じていたにちがいない、と筆者は言います。そして、次のよう
に論を展開します。
*人は魂が高揚しているとき、あるいは、鋭い感受性と柔軟な魂の持ち主は、
平凡なものに「美しさ」を見いだすことがある。
   ↓
  「美しさ」は、対象にではなく、それを感じる人間の心のほうにある。
=「美しさ」はあるものに内在する性質ではなく、人間の心の中に生まれるも
のだ。
全体の論の展開と筆者の言いたいことを確認する
第一段落……「美しさ」の発見とはどういうものか(問題提起)。
第二段落……芭蕉とセザンヌの例を挙げ、「美しさ」についての一般的な考え
方(=「美しさ」は花や山などの対象そのものに内在する性質・価
値だ)を提示。
第三段落……少年龍之介のエピソードを紹介し、「美しさ」についてのもう一
つの考え方(=「美しさ」は対象に内在する性質ではなく、人間の
心の中に生まれるものだ)を提示。
第四段落……「美しさ」を知る心の働きが、私たちの心の世界を広げてくれる。
このように、全体の論の流れを確認できます。筆者の言いたいことは、次のよ
うにまとめられるでしょう。
「美しさ」は、対象の中にあらかじめ存在しているものではなく、鋭
い感受性と柔軟な魂によってそれを感じる人の心の中に生まれるものだ。
また、そうして「美しさ」を知ることが、私たちの心の世界を豊かにし
てくれる。
ラジオ学習メモ

国語総合
第 79 〜 80 回

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美しさの発見
渡部真一
講師

た か し な しゅう じ
高階秀爾 
コロンブスは、アメリカ大陸を発見した。
キュリー夫人は、ラジウムを発見した。
「発見」という言葉は、ふつうこのような場合に用いられる。私が小学生の頃、
『発明発見物語』という本が子どもたちの間に人気があって、もちろんコロンブ
スやキュリー夫人なども登場してきたが、その中に、「発明」というのは今まで
になかったものを新しく創り出すことで、「発見」とは、昔からちゃんと存在は
していたけれど誰も気づかなかったものを見つけ出すことだというような説明が
あったと記憶している。つまり、飛行機はライト兄弟が「発明」するまで、どこ
にも存在していなかったが、アメリカ大陸は、昔からちゃんと存在していた。た
だ、コロンブスがそれを「発見」するまでは、西欧人にその存在が知られていな
かったにすぎないというわけである。
だがそれでは、
「美しさの発見」というのも、やはり同じことだろうか。
 山路来て何やらゆかしすみれ草
ばしょう
という芭蕉の一句には、確かにそれまで誰も気がつかなかったような新鮮な美し
さの「発見」がある。セザンヌは、サント・ヴィクトワール山を描き出した作品
で、それまで誰も表現しなかったような新しい美を表現した。我々は、山道を歩
きながら道端にふと一輪の淡い紫色の花を見つけ出した時、十七文字の中に凝縮
せんりつ
された芭蕉の世界の微妙な戦慄を思い出さないわけにはいかないし、セザンヌの

絵を知った後には、それ以前と同じような眼でサント・ヴィクトワール山を眺め
るわけにはいかない。コロンブスやキュリー夫人の「発見」が我々の知識の世界
を広げてくれたのと同じように、芭蕉やセザンヌの「発見」も、我々の感受性の
世界を大きく広げてくれたにちがいないのである。
しかし、それでは、芭蕉やセザンヌが「発見」したというものは、いったいな
んなのだろうか。
それがすみれの花そのもの、あるいはサント・ヴィクトワール山そのものでは
ラジオ学習メモ

ないことは、明らかである。それだったならば、それは「発見」の名に値しない
ものであったろう。芭蕉はそれまで誰も知らなかった新種の草花を見つけ出した
わけではないし、セザンヌは地図に載っていないような未知の山を発見したわけ

国語総合
でもない。それどころか、サント・ヴィクトワール山は、昔からプロヴァンス地

第 79 〜 80 回
方の人々にとっては、毎日見慣れている極めて親しい山であったはずだし、恐ら
おうさか
くは逢坂山を越える山道のどこか道端にひっそりと咲いていたすみれ草を見つけ
たのも、決して芭蕉が最初ではなかったはずである。

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それでは彼らは、花や山そのものではなく、花や山に内在していながら、それ

まで誰も気がつかなかった何か特殊な性質、ないしは価値を見つけ出したと言う
べきであろうか。そして、その特殊な性質、ないしは価値が、美しさと呼ばれる
ものと考えてよいのであろうか。
もしそうだとすれば、
「美しさ」というのはすみれ草や山から発するいわば放
射能のようなもので、優れた詩人や画家がそれに気づくまでは人々から隠されて
いるが、いったん芸術家がそれを「発見」すれば、人々の眼にも明らかなものと
なり、芸術家はそのエッセンスを凝縮して作品の中に定着させることによって、
いっそうはっきりとその姿を人々に提示するのだということになる。
つまり、相手は自然の風物であっても、あるいは芸術作品であっても構わない
が、いずれにしても「美しさ」はその相手のほうにあって、我々は、なんらかの
手段でその「美しさ」を受け取る、ないしは感じ取るというわけである。
このように「美しさ」を本質的に対象そのものの持つ属性であるとする考え方
は、はっきりそう意識されてはいないにしても、かなり広く一般に受け入れられ
ていると言ってよい。
あくたがわ りゅう の すけ
芥川龍之介が小学生の頃、先生が教室で「美しいもの」の例を挙げなさいと言
った時、少年龍之介が「雲」と答えて先生に叱られたという話を、以前どこかで
読んだことがある。ほかの子どもたちは、「花」とか、「富士山」とか答えたのに、
龍之介が「雲」と言ったので、教室中が失笑し、先生は、雲が美しいものだなど
というのはおかしいと叱ったのである。このエピソードは、龍之介が子どもの頃
からいかに鋭敏な感受性の持ち主であったかということを示すものとして、しば
しば引き合いに出されるが、それと同時に、先生のほうが ── それと他の生徒
たちも ── 「美しさ」というものを「花」や「富士山」の中に内在しているあ
る種の性質と考えていたことをも裏付けている。つまり、ラジウムやウラニウム
には放射能があるが、その辺の道端の石っころには放射能がないというのと同じ
で、龍之介がたまたま、
「 美 し さ 」 と い う 放 射 能 を 持 っ た も の と し て「 雲 」 と 言
ったので、皆笑いだしたのである。
しかし、
「美しいものは雲」と答えた時の少年の心の中に、確かにある種の実
感があったにちがいないことは、容易に想像される。我々は、魂が高揚している
時、例えば人を愛している時には、空の雲にも涙を流すことがある。詩人という
のは、人並み優れた鋭い感受性と柔軟な魂の持ち主だから、ふつうの人がなんと
も感じないような平凡なものに、思いもかけず「美しさ」を見いだすということ
は、しばしばあるにちがいない。だが、もしそうだとしたら、
「美しさ」は、草花
ラジオ学習メモ

や山といった対象にあるのではなく、それを「美しい」と感じる人間の心のほう
にあると言わなければならないのではないだろうか。つまり、放射能のようにあ
0 0 ともしび
るものに属する性質というよりも、一人一人の人間の心の中にふとともった灯火

国語総合
のようなものではないだろうか。

第 79 〜 80 回
芭蕉とセザンヌは、時代も、国も、表現手段も、まるで違っていて、お互いど
うしなんの関係もなさそうに見える。しかし芭蕉のすみれ草の句に「美しさ」を

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発見する心は、セザンヌのサント・ヴィクトワール山の画面に感動する心と、無

縁のものであるとは決して言い切れない。むしろ、芭蕉の句に心ひかれるものを
感じることのできる人こそが、セザンヌの造形の持つ「美しさ」をも理解しうる
と言ってよいのではないだろうか。
セザンヌの作品に感動するのも、名もない職人の作った民衆の中の作品にひか
れるのも、地中海の水の泡から生まれたと伝えられる美の女神を表現した遠い昔
の彫刻に心を震わせるのも、突き詰めて考えれば、結局同じ一つの心のはたらき
にほかならない。
「美しさ」を知ることは、そのまま、心の世界の広がりを保証
してくれるものだと言ってもよいであろう。
ラジオ学習メモ

国語総合
高階秀爾(たかしな・しゅうじ)1932年(昭和 )〜。東京都生まれ。

第 79 〜 80 回
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美術評論家。主な著作に、
『芸術・狂気・人間』
『名画を見る眼』
『美の回廊』
『西洋の眼 日本の眼』
『日本の美を語る』など。
「美しさの発見」は、
『新編 
人 生の 本 美 しさの発 見 』
(1972年刊)に発表され、本文は『日本近

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代の美意識』 (1986年刊)より。

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