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淡江大學日本語文學系碩士在職專班

碩士論文

指導教授:劉長輝 博士

自然 人生的觀照與
日本人美意識

研究生:劉燕玲 撰

中華民國 109 年 6 月
淡江大學日本語文學系碩士在職專班

碩士論文

指導教授:劉長輝 博士

自然・人生の観照と
日本人の美意識
The concept of nature & life with
Japanese’s sense of beauty

研究生:劉燕玲 撰

中華民國 109 年 6 月
論文名稱:自然‧人生的觀照與日本人美意識 頁數:103
校系(所)組別:淡江大學 外國語文學院日本語文學系碩士在職專班
畢業時間及提要別:108 學年度第 2 學期 碩士學位論文提要
研究生:劉燕玲 指導教授:劉長輝 博士
論文提要內容:
所謂的美意識,是在接受美麗的對象時,在創造精神的態度中產生作用的意識。日本自古
代開始,接受了中國文化與佛教等外來文化,這些外來文化與日本的傳統文化融合後,發展出
其獨特的文化內涵,這當中也產生了日本人獨特的美意識。
本論文旨在透過日本人的自然觀,命運觀,生死觀的探討,來理解日本人的美意識。首先
在序論中的先行研究中,藉由以往研究者們的成果來概觀日本人的美意識。在第一章論述日本
的自然環境,及分析其對自然觀有何影響。日本人喜愛自然,期望與自然共存、調和。這可說
是日本人自然觀的核心。另一方面,日本人在自然變化中,感受春夏秋冬四季的變化,及自然
事物的盛衰與凋零。我們可以發現在這樣的自然觀中,孕育出「物哀」的美意識,及在文學中,
產生了許多有關「飛花落葉」的作品。
在第二章中,分析了日本人的忍耐心理。佛教的無常觀滲透至日本人的精神意識中,因此
即使遭遇不幸或困境時,都能以冷靜態度應對,面對死亡也如日常一般地看待。此外,日本人
也有「命運在天」的想法。對所有的事物都是以因為這是命運、宿命來做思考,因此心中常存
有「斷念」的思惟。在這樣的覺悟之下,日本人不要求完美,而是追求不完全的美。在日本茶
道中,閒寂的美意識最能表現這種不完全的美。
第三章中,論述了武士的起源,與武士道概念的歷史變遷。提到武士道,浮現的是武士對死
亡的覺悟。對於死有所覺悟的武士,他們追求的是比生命更高的價值。置生死於度外,做自己
應該去做的事。這樣的心態對武士來說是很重要的。從「花中第一為櫻花、人中第一為武士」
這句諺語可以看出櫻花與武士之間有相似之處。如同新渡戶稻造所說的櫻花是武士道的象徵。
櫻花的綻放與凋散,對於面對死亡有所覺悟的武士而言,毅然慷慨赴義的死亡是一種理想的美
學。櫻花、武士、死亡,三者之間密切連結,相即不離。而日本武士此種的行動美學可以說是
一種死亡的美學。

關鍵字:日本人美意識、自然觀、命運觀、生死觀、無常觀

*依本校個人資料管理規範,本表單各項個人資料僅作為業務處理使用,並於保存期限屆滿後,
逕行銷毀。
表單編號:ATRX-Q03-001-FM030-03
Title of Thesis:The concept of nature & life with Total pages:103
Japanese’s sense of beauty
Key word: Aesthetic Consciousness of the Japanese, View of Nature, View of Destiny, View of Life and
Death, View of Life as Impermanence
Name of Institute:Department of Japanese,Master Program, Tamkang University
Graduate date:June 2020 Degree conferred:Master of Arts
Name of student: Liu Yen-Ling Advisor: Dr. Liu Chiang-Hui
劉燕玲 劉長輝 博士
Abstract:
The so-called aesthetic consciousness refers to an awareness of effects on the creative attitude when accepting
a beautiful object. Since ancient times, Japan has accepted Chinese culture, Buddhism, and other foreign cultures.
These foreign cultures have blended into Japan’s traditional culture to develop unique cultural connotations. The
unique Japanese people’s aesthetic consciousness has also come about.
The purpose of this paper is to gain an insight into Japanese people’s aesthetic consciousness by exploring
their view of nature, view of destiny, and view of life and death. First, from the previous studies in the preface, the
results of past researchers are adopted to gain an overview of Japanese people’s aesthetic consciousness. In Chapter
1, Japan’s natural environment is discussed and its impacts on the view of nature are analyzed. Japanese people are
fond of nature and expect to coexist and live in harmony with nature, which is the core of Japanese people’s view
of nature. On the other hand, through the natural changes, Japanese people can feel the changes of the four seasons
and the rise and fall of natural things. With such a view of nature, the “mono no aware” aesthetic consciousness is
bred. Moreover, many works pertaining to “blossoms fall and leaves scatter (the evanescence (impermanence) of
worldly things)” have been created in literatures.
In Chapter 2, Japanese people’s mindset of patience was analyzed. The view of life as impermanence in
Buddhism has penetrated the spiritual awareness of the Japanese. They manage to cope with a calm attitude even in
the face of misfortune or difficulty. They perceive dying as something that just is. Additionally, Japanese people
also believe “fate is in the hands of the heavens”. They contemplate on all things from destiny and fate orientations.
Therefore, the “desisting” mindset often exists in their hearts. With such a realization, Japanese people do not ask
for perfection but pursue the beauty of incompleteness. In the Japanese tea ceremony, the aesthetic consciousness
of idling best manifests this beauty of incompleteness.
In Chapter 3, the origin of samurai warriors and the historical evolution of Bushido (the way of warriors) are
explored. When it comes to Bushido, the realization of death rises before a samurai warrior’s mind. Samurai
warriors who have come to a realization about death pursue a value greater than life itself. The attitude of “doing
what should be done without any regard for one’s own life” is a very important for Samurai warriors. From the
proverb “Japanese cherry blossoms (sakura) are the best among all flowers; Samurai warriors are the best among all
people”, it can be seen that Japanese cherry blossoms and samurai warriors share similarities. Just as Nitobe Inazo
put it, “Japanese cherry blossoms symbolize Bushido”. To a samurai warrior who has come to a realization of
death, the blooming and withering of Japanese cherry blossoms is the aesthetic ideal of heroically sacrificing one’s
life. Japanese cherry blossoms, samurai warriors, and death are closely linked and inseparable. The aesthetic of
action by Japanese samurai warriors can be said to be the aesthetic of death.

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表單編號:ATRX-Q03-001-FM031-02
論文テーマ:自然・人生の観照と日本人の美意識 頁数:103
校系(所)組別:淡江大学 外国語文学部 日本語文学系修士在職專班
卒業年度及び要約別:108 学年度第 2 学期 修士 学位論文要約
氏名:劉燕玲 指導教官:劉長輝 博士
論文要約:
美意識とは、美的な対象を受容し、また創造する精神の態度において働く意識である。日本は古代
から、中国文化や仏教思想などを取り入れ、日本の伝統的な文化と融合し、独自の文化を発展してき
たのである。そして、日本人は独特な美意識を生み出した。
本稿の論述の目的は、日本人の自然観、運命観、死生観の考察を通して、日本人の美意識を理解す
ることにある。まず序論の先行研究で諸先学の研究を踏まえて、日本人の美意識を概観する。第一章
では、日本の自然を述べ、そして、日本の自然は日本人の自然観にどのように影響を与えたかを分析
する。日本人が自然を愛し、自然との一体感、自然との共存を意図して、自然との調和を目指そうと
している。これは、日本人の自然観の中核を成すものである。一方、日本人は自然の変化の中で、四
季を感じて、自然の隆盛、凋落を感受する。このような自然観の中に、「あわれ」の美意識が孕まれ、
そこから「飛花落葉」の文学が生まれ育ったことがわかる。
第二章において、日本人の忍従的な心理を分析する。仏教の無常観の受容で、日本人はどのような
不幸や困窮に遭っても、冷静な態度を持ち、死亡に面しても、日常的なこととして向き合おうとして
いる。また日本人が「運は天にあり」という考え方を持っている。世間のことに対して、それを運命、
宿命と考えて、あきらめるしかないどいう考えを常に心の中に置いておくのである。こうして、日本
人は完璧な美をもとめず、不完全な美を追求する。日本の茶道に見られる、わびの美意識は最もそれ
を表現することができるものである。

第三章では、まず武士の起源を明らかにし、そして、武士道概念の歴史の変遷を論述する。武士道
といえば、死に対する覚悟がすぐに思い浮かぶ。なぜなら、死の覚悟を抱く武士にとって、生命より
も価値高いものがあるからである。生死を度外視し、いまの自分がやるべきことを成し遂げるべきだ
という心構えがなによりも大切なものである。「花は桜木、人は武士」という言葉から、桜と武士の
間に似たところが見られる。新渡戸稲造が言ったように、桜 は 武 士 道 の 象 徴 で あ る 。 桜はぱっと
咲いてぱっと散る潔さで、いつも死ぬことを覚悟する武士にとって、理想的な美をただよわせるもの
にほかならない。桜と武士と死、この三者の間には密接な関連があり、互いに強く作用しあった結果、
武士の行動美学が現れてくる。こうした散華の美学、滅びの美学が日本独特な美意識の顕現にほかな
らないといえるのである。

キーワード:日本人美意識、自然観、運命観、死生観、無常観

*依本校個人資料管理規範,本表單各項個人資料僅作為業務處理使用,並於保存期限屆滿後,
逕行銷毀。
表單編號:ATRX-Q03-001-FM030-03
目次

序論................................................................. 1

第一節 研究動機と目的.......................................... 1

第二節 先行研究................................................. 3

第三節 研究方法と本論文の構成.................................. 6

第一章 自然観とその周辺......................................... 8

序................................................................ 8

第一節 日本の自然環境と風土.................................... 8

第二節 日本人の自然観 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 16

第三節 自然観に基づいた日本人の美意識 ....................... 24

結語.............................. ........................... 33

第二章 運命観とその周辺.......................................... 35

序................................................................. 35

第一節 日本人の忍耐心理 ..................................... 36

第二節 日本人の運命観 ...................................... 43

第三節 運命観に基づいた日本人の美意識........................... 50

結語.............................. ........................... 58
第三章 死生観とその周辺.......................................... 60

序................................................................. 60

第一節 武士の誕生..................................... 61

第二節 武士道と死の覚悟 ...................................... 68

第三節 武士の死生観から見た美意識 ........................... 76

結語.............................. ........................... 86

結論.................................................................. 89

参考文献 ........................................................ 95
 

序論

第一節 研究動機と目的

日本は温暖な気候に恵まれ、四季の変化によって様々な自然の美が生まれた。この環

境の中で育まれた日本人は、自然に対して鋭く且つ繊細な感受性を抱くようになる。そ

の意味で日本人は、美を感じる心に、世界にも類いなく優れた民族と言えよう。日本人

は、四季の変化から、
「もののあわれ」や「無常観」を感じ、また「幽玄の美」や「わ

び」や「さび」といった独特な美意識を生み出した。古代から、中世を経て、近世に至

るまで、それぞれの時代に、登場した日本人の代表的な美意識の現れ方には独特なもの

がある。たとえば、平安時代の『源氏物語』に現れた「もののあわれ」の美学、中世の

仏教的「無常観」の美学、能楽の「幽玄」の美学、茶道に見られる「わび・さび」の美

学、いずれも日本人の美意識の代表的な具体例である。

日本人は四季の移り変わりによって、文学、芸術、建築などに自然への憧憬が見られ

る。自然を愛する日本人は、その精神生活も自然からの影響が大である。したがって、

日本人は自然に対する感覚を鋭敏にし、日常生活においても、常に自然を愛する美意識

を表している。

日本人が自然の美を象徴する言葉として「花鳥風月」や「飛花落葉」などがあげられ

る。唐木順三は「咲く花のにほふが如くといって、時勢や人生の全盛の感情をそれに託

し、落葉において凋落を、秋の夕暮において寂寞を歌つた。即ち心のほどを季節に託し

」1と述べたように、日本の和歌に満開の花を賛美する歌があると共に、散
て表現した。

った花を惜しむ歌もある。その中から、「もののあわれ」や「無常観」の美意識が見ら

れる。特に、武士精神における亡びの美学は日本人の独特の美意識を代表するものだと

いえよう。武士道の美学がもっとも顕著に現われる場所は戦いの場にある。武士道の特

                                                       
1
  唐木順三『日本人の心の歴史(上)』(筑摩書房、1993) p.11 


 
 

徴は世俗の価値を越え、ある絶対の価値に殉じる精神である。武士は自己の理想を掲げ、

崇高な価値を追求し、そのために命を犠牲にすることをも惜しまない。
『葉隠』に「武

士道と云は、死ぬ事と見付けたり」2という言葉がある。武士は生への未練を断って死

に潔く身を投げようとしてはじめて死生を超越する「自由」の境地に到達しうる。それ

が武士としての死の覚悟という美学なのである。

ドナルド・キーンにより、日本人の美的表現の最も代表的なものの一つが「ほろび易

さ」である。彼は『日本人の美意識』で、次のように述べている。

日本人が最も好む花が桜であることは、言うまでもない。その理由は、まさにこ

の花の開花の期間が、殆どうらめしいほど短い上、盛りを見とどける前に、花が

散ってしまわないかという恐れが、ひどく大きいからである。ただの数日間の開

花を楽しむために、それでも日本人は、この果樹のくせに実を結ばず、代りにい

やらしい毛虫を沢山寄せつける樹に、それこそ首ったけなのである。
(中略)昔か

ら武士はよく桜にたとえられた。武士の理想は、老兵となって、ゆっくり消えて

行くのではなく、その体力と美との最高潮点において、劇的な死に方をすること

だったのだ。3

このように、自然美の中から武士道の美学の象徴である桜を見いだすことができよう。

桜の美学こそ自然を愛する日本人の美学の根底を成すものである。なお、桜に象徴され

る自然美への憧憬の奥には無常観が存する。

本論文の目的は日本人の自然・人生の観照と美意識を探究することにある。また武士

精神における死の美学がどのように顕現しているかをも明らかにしたい。

                                                       
  斎木一馬・岡山泰四・相良亨校注『三河物語 葉隠』(岩波書店、1983)p.220 
2

  ドナルド・キーン著、金関寿夫訳『日本人の美意識』(中央公論新社、1999) p.35-3
3

6 


 
 

第二節 先行研究

日本人の美意識については、これまですでに数多くの先行研究がなされている。ここ

ではその主だったものを取り上げて概観することにする。

唐木順三は『日本人の心の歴史(上)
』において、日本人の季節への鋭敏な感受性を

以下のように論じている。

日本人が鋭敏な感受性をもつてゐると、さきにいつたが、それを最もよく示して

ゐるのが季節感といつてよい。我々日本人は、眼で、耳で、鼻でまた肌で、舌で、

季節や季節の推移を感じる。雲の色や形で、風や雨の音で、松茸やさんまを焼く

にほひで、乾いた、また湿った空気で、しゆんの食物で季節を感じる。
「目には青

葉山ほととぎす初鰹」といふ素堂の句が代表的に示してゐるやうに、五官を通し

てその折々の季節を感じ取る。4

ここから分かるように、日本人にとって、季節の変化を通して、人間は自然とともに

生きている。山や川、草や花、鳥や獣など単なる自然景観や動植物だけではなく、それ

らはもう日本人の生活の一部になっているとされている。こうしたことから、日本人は

その独特な季節に関する美的感覚を培ってきたと考えられる。

梅原猛は「百人一首」を通して、日本人の美意識を下記のように述べている。

外人はしばしば花がるたの中に、驚くべき優雅な日本人の美意識を見る。一月の

松から、梅、桜、藤をへて十二月の桐にいたるまで、四季おりおりの自然観賞が

札にあらわされているのだ。
『百人一首』には、四季の歌が三十二首、恋の歌が四

十三首ある。しかも四季の歌の半分はさびしい秋の歌で、恋の歌のほとんどは悲

しい失恋の歌である。たとえば「有明のつれなく見えし別れより暁ばかりうきも
                                                       
4
  唐木順三『日本人の心の歴史(上)』(筑摩書房、1993) p.11 


 
 

のはなし」
(壬生忠岑)という歌がある。ある暁、男は女と別れたが、そのとき女

は、夜明けの空に残っている月のようにつれなく、無情であった。男はそのとき

以来、暁ごとにそのつれない別れを思い出し、悲しくなるというのである。月に

寄せる悲しい恋の歌だ。その悲しげな感情のリズムは、壬生忠岑のこの歌から、

能や浄瑠璃をへて、現代の島倉千代子や橋幸夫によって歌われる歌謡曲まで、一

筋に貫いているかに見える。みちたりない欲望を、あきらめとうらみのまざった

感情で、余韻嫋々と表現する美意識こそ、日本人の美意識を根源であろう。5

このように、日本人は季節への鋭い感受性をもって、自然を讃美する数多くの文学作

品を作った。特に人間の感情を自然の変化に託して表わす和歌から、日本人の自然を愛

する気持ちとそこから派生する美感が窺知できる。そこで、
『万葉集』には恋の悲しみ、

寂寥感、孤独感、無常観といった日本人の美学が見える。そして平安の文学に「ものの

あわれ」の美が大いに描かれている。山田宗睦は『日本人の美意識』において、以下の

ように論じている。 

われわれ日本人の美意識をあらわす、もののあわれという用語があります。もの

のあわれの<もの>というのは、対象的なもの、物質ではないでしょう。もののあ

われとは何かというと、桜の花なら桜の花という物がある。桜は咲いて、やがて

散る。その桜という物の移り変わりにつれて、自分の心がどういうふうにそれに

かかわって変わってゆくのか。咲いて非常に美しいと自分はそれを見ている。や

がて風とともにそれがはらはらと散る。それにつれて自分の心の中に、もの悲し

い、たゆとう気持ちが生まれる。その総体をひっくるめて、もののあわれという

                                                       
5
  梅原猛『日常の思想』(集英社、1982) p.320-321 


 
 

わけです。6

以上のように、日本人は命を短くかけて散っていく桜の花に、人生そのものを投影し、

人生の無常観を感じることがわかる。また日本人や移ろいゆくものやはかないものに美

を感じる感性を持っていることも窺える。

また新渡戸稲造も「武士道の象徴は桜の花だ」といったように、日本の武士には、桜

に象徴される自然美への憧憬の奥に無常観が見える。そこで、武士は自分の理想を掲げ、

崇高な価値を求めるために、命を潔く犠牲にしても惜しまないのである。

相良亨は武士の死の覚悟について、次のように論述している。

覚悟のある武士は、運命が尽きたと思う時、唇に微笑すらうかべ泰然自若として

死につく。時に死を愛するがごとくすらみえる。彼は死を怖れうろたえることが

ない。それは、覚悟ある武士には、その生存の最後の一瞬まで、なすべきこと、

死守すべきことがあり、なすべしと、あるいは死守すべしと心にきめるところが

あるからである。覚悟ある武士にも、死は出来うれあばさけたいものである。死

はかなしいものである。だが、彼には生命よりも価値高いものがある。覚悟ある

武士とは、この価値の序列をはっきりと心にきめた武士、価値の序列をいかなる

時にもくずさぬように心を備えた武士である。7

ここから、武士が命よりも価値の高いものを重んずることが分かる。武士が主君への

忠誠や名誉を重んじ、自らの生命を軽んじる。桜の花のように、ただ数日間咲いて、ま

た散るのである。

筆者は以上のような先行研究を踏まえ、日本人の自然観を通して、またそれを武士の

                                                       
6
  山崎正和 多田道太郎 山田宗睦 田辺聖子 橋本峰雄『日本人の美意識 ゼミナール』(朝
日新聞社、1974) p.227 
7
  相良亨『死生観 国学』(ぺりかん社、1994) p.46-47  


 
 

死生観と関連づけながら、日本人の美意識という課題の究明を進めていきたい。

第三節 研究方法と本論文の構成

本論文では、主として文献研究を駆使して行うことにする。関係書物、論文や学術雑

誌を参照しながら、日本人の自然観、運命観、死生観における日本人の美意識の諸相と

その周辺を探究していきたい。

以下は本論文の構成である。

序論

第一節 研究動機と目的

第二節 先行研究

第三節 研究方法と本論文の構成

第一章 自然観とその周辺

第一節 日本の自然環境と風土

第二節 日本人の自然観

第三節 自然観に基づいた日本人の美意識

結語

第二章 運命観とその周辺

第一節 日本人の忍耐心理

第二節 日本人の運命観

第三節 運命観に基づいた日本人の美意識

結語

第三章 死生観とその周辺

第一節 武士の誕生


 
 

第二節 武士道と死の覚悟

第三節 武士の死生観から見た美意識

結語

結論

本研究は日本人の自然観、運命観、死生観を通して、日本人の美意識を考察するもの

である。研究内容は以下のように探究を進めていきたい。

序論においては、本研究の動機、目的や構成などを記す。本論は第一章から第三章ま

である。

第一章では、日本の自然環境を概観する。そして、その自然環境の影響によって、日

本人の自然観を分析する。また、日本人の自然観にどのような美意識が孕まれたのかを

探究する。第二章は、日本人の忍耐心理を分析するものである。その心理はどのように

日本人の運命観の形成に影響を与えたのかを論ずる。そして、その運命観の中から日本

人の美意識を見いだす。第三章では、武士の起源を明らかにし、次に武士道概念の歴史

の変遷を論述し、また武士の死の覚悟に対する心構えを究明する。そして武士の死生観

にどのような美意識を持っているかを探究する。最後の結論では、論文全体の内容をま

とめて、記すこととする。


 
 

第一章 自然観とその周辺
 
序 

私たちがいま見た日本文化は決して短い期間で形成されたものではない。日本人は日

本列島に住んで、人種、地形、気候などによって、独自の文化を築き上げた。私たちは

日本文化への驚きと讃美を禁ぜずに発するとともに、その独自の文化が形成されてきた

背景を探究すれば、より一層日本文化への理解を深めることができよう。 

日本の伝統文化の中に、いろいろな面で自然の影響があると見られている。例えば庭

園の建造、茶室の装飾、和食の盛り付けなどに、自然がもたらした影響は数多くある。

したがって、日本人ほど自然を愛する民族はないのではないかと思う。日本人は自然に

接している間に、だんだん、自然に対する愛情が生じ、それがまた自然への哀憐や畏怖

などの気持ちに変わり、日常生活の至るところに表現されている。はっきりとした四季

の変化、多様な景観によって、日本人の独特な美意識が生まれるに至った。 

本章は、日本人の自然観の形成、またそこから発達してきた日本人の美意識の探究を

目的とするものである。具体的な論述は以下のように進めていきたい。第一節では、日

本の自然環境を論述し、第二節においては、日本人の自然観がどのように成立したのか、

第三節では日本人の自然観はその美意識にどのような影響をもたらしたかを検討する。                             

第一節 日本の自然環境と風土

日本はアジア大陸の東、西太平洋に位置し、南北約 3,000 キロにわたって、弓のよう

に延びている島国である。日本の国土は四つの大きい島と、数多く小島からなっている。

また、日本は環太平洋造山帯とよばれる、太平洋をとりまく造山帯に属しているため、

地殼変動が激しく、火山活動や地震も多い。つまり、日本列島そのものが火山帯、地震


 
 

帯に位するともいえる。なお、日本は活発な地殻変動によって、山岳地帯が発達してい

て、山地が約 70~80%占めている。その大部分は急傾斜で、森林に覆われている。山地

から海に向かって多数の川が流れているが、その多くは短く急流で、山岳地で峡谷を形

成するなど、変化に富んだ風光明媚な地形を作り出してきた。また、川の下流部で、海

に流れ込むあたりには平野が広がっている。

日本列島は中緯度地帯に位置しているため、ほとんどは温帯気候に属しており、四季

の区別ははっきりしている。しかし、日本列島は北から南まで長くのびていることと、

複雑な地形や海流の影響を受けて、地域によって気候が大いに違っている。たとえば、

北海道は亜寒帯に属し、冬の寒さが厳しく、梅雨はない。沖縄は亜熱帯に属しているた

め、一年中気温が高い。それに、起伏の激しい山脈が日本列島を縦断しているため、日

本海側と太平洋側とでは、異なる気候になる。夏は南東から、冬は北西からの季節風が

吹き、その影響で、夏は太平洋岸で雨が多く、冬は日本海岸で雪が降りやすい。また夏

に季節風で、6~7 月や 9~10 月の間に、梅雨や秋霖が降り続く。台風も 8 月から 10 月

頃までしばしば日本列島を襲う。これは大きな被害を伴うと同時に、梅雨と台風は大切

な水の供給源となるメリットも大きい。温暖多雨の気候によって、日本列島に生息・生

育する動植物の種類の多さ、つまり生物の多様性は生み出される。

このような地形と気候によって、日本列島は複雑な環境をもって、そこで生活を営む

日本人に大きな影響を及ぼしており、しかも日本独自の文化の成立に大きな役割を果た

している。

前述したように、日本人は自然を愛する民族である。自然からの刺激を受けて、自然

への感受性を生活に表現する。宮城音弥は人間心理と風土の影響について、以下のよう

に述べている。

自然環境は生理心理的変化を与えるだけでなく。感情的影響、ひいては性格をつ

くる土台になるし、意志や一般の行動を左右する。性の芽生えの時期も風土と無


 
 

関係でないし、発達心理学の諸現象とも関連する。

さらに、風土は衣食住の仕方を決定するし、社会生活、産業、芸術、宗教、神話

など、文化や社会現象の基礎となる。たとえば、日本の風土ゆえに、日本人はイ

ネをつくって米を常食にしたが、稲作は日本人を一定地域に定住させ、家族の協

同を要求した。8

以上の内容から見ると、人間社会は衣食住から人間の性格まで、自然環境と風土から

受けた影響が非常に深いと言える。

さて、日本の風土はどういうものなのか。また日本人の国民性形成にどのような影響

を及ぼすのか。まず、風土の意味を見よう。風は空気の流れること、大気の循環、つま

り気象、また気候の違いを意味する。土は地表を覆う物質層で、各地の地形や気候の違

いにより、異なってくる。辞書によると、風土とは、「土地の状態。住民の慣習や文化

に影響を及ぼす、その土地の気候・地形・地質など」9ということである。それによっ

て、風土には、自然的な要素と歴史的な要素がこめられている。人間がある土地で生活

を営み、その生の営みの痕跡として築き上げられてきた歴史には、自ずからその地の自

然環境に由来する影響がある。要するに、風土は、単に自然を指すのではなく、人間に

よって作られた社会・文化をも意味する。

では、こうした豊かな自然環境が日本人の国民性に対してどのような影響を及ぼした

のか。以下、明治時代からの風土論に関する書物を取り上げて、一瞥しておきたい。

まず、1894 年(明治 27 年)に志賀重昂により書かれた『日本風景論』を取り上げる。

それは日本の風土を紹介する著作である。この本では、日本の風景について、科学的に

叙述するだけでなく、日本文学の古典を引用し、日本の自然美を賛美する。志賀重昂は

「この江山の洵美なる、生植の多種なる、これ日本人の審美心を過去、現在、未来に涵

                                                       
8
  宮城音弥『日本人とは何か』(朝日新聞社、1972年)p.14 
9
  松村明・三省堂編修所編『大辞林第三版』(三省堂、2006年)p.2188 

10 
 
 

養する原力たり。」10と述べている。つまり、彼は日本の優れた自然環境が日本の民族の

物事への美的感覚を育成する根源的な力であると力説している。

三宅雪嶺は「真善美日本人」という論文で、日本が「気候温和、風物清純」11な国で

あると記し、また日本人と自然の関係について、次のように述べている。

要するに日本の国や、山水の美に於いて更に欠く所あらざるなり。国已に然り、

而して元々や実に斯の美なる山水の間に生長するより神気自ら怡々たるの風を存

し、事々物々専ら実用に適するのみを以て主眼となす莫く、多少の慰愉を取つて

其の間に補綴せんとするものの如し。12

この一文から、日本人は美しい風土の中で生まれ育ち、自然美に対する感受性を培う

民族であるという内容を読み取ることができる。そのため、日本には、貧しい家でも「壁

に錦絵を張りつけ、徳利に四季をりをりの花をいけ」13とあることから、日本人は自然

と深く関わる生活を過ごしていることがわかる。

芳賀矢一は「国民性十論」で、日本人には「忠君愛国」、
「祖先を崇び家名を重んず」、

「現実的・実際的」、「草木を愛し自然を喜ぶ」、「楽天洒落」、「淡泊瀟洒」、「纎麗纎巧」

「清浄潔白」
、「礼節作法」、
「温和寛恕」といった国民性の特色を有し、そして「気候が

温和である。山川は秀麗である。花紅葉四季折々の風景は誠にうつくしい。かういふ国

」14と説いている。同書では、衣食住から
土の住民が現生活に執著するのは自然である。

文学に至るまで、日本人は自然の恩恵を受け、自然からの影響が非常に深いと論じてい

る。例えば、「日本皇室の御紋は菊と桐で、徳川家は葵である。今日の家々の紋にも、

桔梗、桜、梅鉢、沢瀉、葵、牡丹、蔦、梶の葉、藤、松等の類が最も多いのも当然の結

                                                       
10
  志賀重昂『新装版日本風景論』(講談社、2014年)p.337 
11
  三宅雪嶺「真善美日本人」、生松敬三編『日本人論』所収(冨山房、1977年)p.55 
12
前掲書 p.56 
13
  同前 
14
  芳賀矢一「国民性十論」、生松敬三編『日本人論』所収(冨山房、1977年)p.174

11 
 
 

」15というところからも、日本の家紋は自然から図案化したものが多いことが
果である。

理解できる。それは日本人が昔から自然から材料を取って、生活を営み、それによって、

日本独自の文化を構築してきた証拠なのである。

風土を論ずる諸々の著書の中で、よく知られているのは和辻哲郎の『風土』である。

この本は世界各地の風土の諸相を比べ、各々の自然環境がそこに暮らす人々の国民性に

どのような影響をもたらすのかを論じるものである。
「風土と呼ぶのはある土地の気候、

気象、地質、地味、地形、景観などの総称である。それは古くは水土とも言われている」

16
と、和辻哲郎はこう定義している。ここでいう風土とは、決して我々周囲の自然環境

だけではなく、人間と共存関係を有する自然そのものである。

和辻の『風土』では、世界の風土にモンスーン、砂漠、牧場を三つの類型に分けて、

日本がモンスーン地帯に属すると述べられている。またモンスーン域の風土の特性につ

いて「暑熱と湿気との結合」17と和辻は言っている。夏には、海洋から陸に吹く暑く、

「世界における一つの特殊な風土」18を生み出した。モンスーン
湿った季節風によって、

地域には、暑熱と湿気との結合によってもたらされた湿潤は、豊かな作物を繁茂させる

が、一方、この湿潤も大雨、暴風などの自然災害をもたらす。その故、人々は抵抗しが

たい自然の暴威を忍ばざるをえない。受容と忍従がこの風土にいる人々の生存のありか

たである。和辻は日本の風土の特性を以下のように論述している。

風土のみを抽象して考えても、広い大洋と豊かな日光とを受けて豊富に水を恵ま

れ旺盛に植物が繁茂するという点においてはなるほど我々の国土とインドとはき

わめて相似ているが、しかしインドが北方は高山の屏風にさえぎられつつインド

洋との間にきわめて規則的な季節風を持つのと異なり、日本は蒙古シベリアの
                                                       
15
、生松敬三編『日本人論』所収(冨山房、1977年)p.177-1
  芳賀矢一「国民性十論」
78 
16
和辻哲郎『風土―人間学的考察』(岩波書店、2015年)p.9 
17
  前掲書 p.35 
18
  前掲書 p.34 

12 
 
 

漠々たる大陸とそれよりもさらに一層漠々たる太平洋との間に介在して、きわめ

て変化に富む季節風にもまれているのである。大洋のただ中において吸い上げら

れた豊富な水を真正面から浴びせられるという点において共通であるとしても、

その水は一方においては「台風」というごとき季節的ではあっても突発的な、従

ってその弁証法的な性格とその猛烈さとにおいて世界に比類なき形を取り、他方

においてはその積雪量において世界にまれな大雪の形を取る。かく大雨と大雪と

のに二重の現象において日本はモンスーン域中最も特殊な風土を持つのである。

それは熱帯的・寒帯的の二重性格と呼ぶことができる。温帯的なるものは総じて

何ほどかの程度において両者を含むのではあるが、しかしかくかくまで顕著にこ

の二重性格を顕すものは、日本の風土を除いてどこにも見いだされない。19

このように、和辻は日本の風土が二重性格―熱帯性と寒帯性の特性―を持っていると

指摘している。このような特別な風土から、日本人はその性格と国民性において、どの

ような影響を受けたのか。和辻は下記のように述べている。

だから台風が季節的でありつつ突発的であるという二重性格は、人間の生活自身

の二重性格にほからなぬ。豊富な湿気が人間に食物を恵むとともに、同時に暴風

や洪水として人間を脅やかすというモンスーン的風土の、従って人間の受容的・

忍従的な存在の仕方の二重性格の上に、ここにはさらに熱帯的・寒帯的・季節的・

突発的というごとき特殊な二重性格が加わってくるのである。20

和辻は日本人の性格を自然の脅威の一つである台風と結びつけている。モンスーン地

域に生きる人々は受容的、忍従的な二重性格を持っている。さらに地理と気候によって、

日本の風土は熱帯性・寒帯性と季節性・突発性の二重性を示している。そのため、日本

                                                       
19
  和辻哲郎『風土―人間学的考察』(岩波書店、2015年)p.199-200 
20
  前掲書 p.201 

13 
 
 

人の受容的性格は、熱帯性・寒帯性の影響で、
「調子の早い移り変わり」、
「疲れやすく

持久性を持たない」21と言われている。そのうえ、季節性・突発性によって、
「感情の昂

揚を非常に尚びながらも執拗を忌む」22といった日本的気質も現れている。また、日本

人の忍従的性格は、熱帯性・寒帯性で、「あきらめでありつつも反抗において変化を通

じて気短に辛抱する忍従」23なのである。そして、季節性・突発性の影響で、
「繰り返し

行く忍従の各瞬間に突発的な忍従を蔵している」24こともある。和辻は「しめやかな激

情、戦闘的な恬淡」25という言葉で、日本の国民的性格を表している。

和辻は風土を「人間存在の構造契機」とした。というのは、人間と自然環境との関わ

りは不可分である。人間はある仕方で自然と繋がって生きている。人間は風土に合わせ

て、生活の仕方を形成していく。和辻はこのように自然風土を人間存在のあり方と連結

させる。こうして、違う風土が人間の精神構造に深い影響をもたらす。また人間は自然

を通じて、その風土に暮らす人々自身を認識する。つまり、ある民族の思想や文化の発

展はその土地の自然環境・風土条件により深く規制されていると考えられる。

また農業経済学者である飯沼二郎は従来の風土論が「風土の影響を静態的にとらえて

いた」26と指摘している。彼は『風土と歴史』に次のように述べている。

たしかに、風土というものは、人間の力でほとんど変えることのできない自然の

ワクではあるが、しかし、それをどう利用するかは、人間の側の主体的な条件(端

的いうならば、資本と労働の在り方)のちがいによって変わってくる。27

以上のように、飯沼氏は風土論が動態論的に捉えるべきだと主張している。彼はアメ

                                                       
21
  和辻哲郎『風土―人間学的考察』(岩波書店、2015年)p.202 
22
  前掲書 p.203 
23
  同前 
24
  前掲書 p.204 
25
  前掲書 p.205 
26
  飯沼二郎『風土と歴史』(岩波書店、1970年)p.7-8 
27
  前掲書 p.8 

14 
 
 

リカ合衆国の西部の例をあげて、人間側の主体的な条件の変化を説明している。十九世

紀前半まで、アメリカ合衆国の西部はほとんど不毛の地だったが、資本と労働の在り方

の変化によって、穀物の生産地になったのである。以上のような論点が、飯塚浩二の『人

文地理学原理』にも見られる。

吾々人類はその肉體の生理的なる機能を通じて自然と交渉をもつと同時に、又、

社會的な生産過程(技術)を媒介として自然と交渉してゐる。此の場合に社會的

な生産過程が歴史的な発展に從つてゐるならば、人類社會と自然との交渉關係は

歴史的な発展の相に於いて把握せらる可きであり、自然的條件なるものの具體的

内容は歴史的に限定せられたるものとしてのみ正當に理解せられるであらう。28

つまり、自然の影響よりも、人間が特定の生産過程を通じて、それぞれの地域社会の

生活様式を作り上げたわけである。

以上の風土論からみると、人間は自然に強く影響されるとともに、人間の側からも、

「景観十年、風景百年、風土千年」29とい
自然に巨大な影響を及ぼすのも否定できない。

う言葉が如実に示すように、景観は今の生活を反映するもので、風景は時間性を感じる

ものであり、そして風土は時間の流れに人間の歴史、文化が見られるものである。桑子

敏雄も「日本の川と風土」に「自然の恵みとリスク、そして人びとの生活は、空間と人

間の関わりが積み重なった履歴のなかに重層的に堆積しているのである。この重層性が

風土である。」30と述べている。言い換えれば、風土が形成されるには、人と自然との

長い月日をかけた営みが必要である。

前にも触れたように、日本は四季の変化に富み、また台風や地震など突発的な自然災

害が多い。このような自然を背景に、日本人の生活様式ないし文化、精神構造など、自
                                                       
28
  飯塚浩二『人文地理学原理』(岩波書店、1940年)p.18 
29
  佐佐木綱 巻上安爾 竹林征三 廣川勝美 神尾登喜子『景観十年風景百年風土千年』
(教文
堂、1997年)p.17 
30
  桑子敏雄『日本文化の空間学』(東信堂、2008)p.73 

15 
 
 

然と深く絡んでいる。それでは、このような自然に培われてきた日本人にとって、自然

とは何か。また日本人はどのような自然観をもっているのかを次節で論述してみたい。

第二節 日本人の自然観

日本語を勉強し始めたころ、なぜ日本人が日常生活の会話中にいつも「今日暑いです

ね」、
「寒いですね」など天気と関する話題から始まることに疑問を持っていたのである。

日本語を勉強すればするほど、日本語に自然に関する言葉が多いことに驚いた。荒垣秀

雄も昭和二十三年(1948)二月十五日の朝日新聞「天声人語」に以下のように述べてい

る。

日本人ほど「天気の話」を毎日のアイサツにする国民は少ない。欧米人はよほど

変った天候なら話題にするが、
「寒いですね、暑いですね」と昨日とさして変りば

えもせぬ平凡な寒暑を熱心に語り合うのは日本人独特のようだ。別に排斥するわ

けではないが、日本人の生活様式がそれだけ気候の影響を受け易いからかも知れ

ない。つまり気候の変化を遮断して人工の適温の中に住むだけの高い生活文化を

もつようになれば、寒暖のアイサツは自然になくなってくるだろう。

それだけ日本人はまだ生物的生活に近い生活を営んでいるわけで、自然が怒るに

つけ微笑するにつけ、生活感情も左右され易い。季節の移り変りに心を潜める俳

句の発達も、このような風土的性格から生まれたものであろう。

しかし人間も、木や虫や山川と同じく自然の一部で、木の年輪同様人間の心身に

も気候が年輪を刻んでいることは疑えない。天候による穀物の豊凶が、民族の悲

劇や経済恐慌や戦争や平和の誘因にもなっているのだ。31

                                                       
31
  荒垣秀雄『自然―「天声人語」十八年の歳時記』(朝日新聞社、1972)p.16-17 

16 
 
 

これを見ると、日本人は確かに自然に深く影響されていることが分かる。荒垣は朝日

新聞の「天声人語」欄に、十八年間にわたって、六千回余りの記事を書いた。その中か

ら、日本の自然について、あるいは季節などについて書いたものを集めて、
『自然』と

いう著作を出した。彼自身も驚いたのは六千余篇のうち、一割の内容が自然に関する感

想であったからである。すなわち平均十日に一回は自然の風物を書いた。荒垣はその本

のあとがきで「日本元来の美しい風物や微妙な季節の移り変りに目を向け再認識するこ

とによって、われひとともに祖国に対する愛情が呼びさまされるのだ」32と言っている。

彼はこれらの記事を通して、読者に自然に対する共感を持たせていたのである。

日本人にとって、自然は見近なものである。日本人は自然に対して、どのような態度

を抱いているか。まず文化人類学者クラックホーン氏(Florence Rockwood Kluckhon)が提

出した自然と人間の関係についての説明を見てみよう。彼女はそれを「Man Subjugated to

Nature, Man In Nature and Man Over Nature 」33 というように三分類した。それはすなわ

ち人間が自然への服従、自然との調和、自然を征服するということである。またスペイ

ン系アメリカ人が自然への服従としての代表、中国人が自然との調和としての代表、西

欧人が自然を征服としての代表を指摘している。言うまでもなく、日本人の社会は Man

In Nature、つまり自然と共存する社会だと分類されえよう。西欧人と異なり、日本人は

自然を支配しようと思わなかった。自然との一体感、自然との共存を意図して、自然と

の調和を目指そうとしている。これは、日本人の自然観の中核と言っても過言ではなか

ろう。なぜ、日本人は自然と対立する考え方を取らないのか。それは第一節に述べた日

本のおかれた地理的環境や気候などと深い関係があるからである。佐藤功一は日本の国

土について、以下のように賛美している。

山紫水明、日本景観は此の一言につきる。も少し精しく説明すれば、山は重疊と
                                                       
32
  荒垣秀雄『自然―「天声人語」十八年の歳時記』(朝日新聞社、1972)p.390 
33
  Clyde Kluckhohn AND Henry A. Murray “Personality IN NATURE,SOCIETY, AND CULTUE”
(ALFRED‧A‧KNOPF, 1954) p.347

17 
 
 

して變化に富み、水は豊かで透通るやうな流れが到る處に囁き、大地はいつもし

つとりと濕つて樹は鬱蒼と茂り、花は咲き満ち鳥は長閑に歌ってゐる。如何にも

美しく自然はいつも満面の笑みをみせてゐる。如何にも恵まれ切つた楽土、其名

の示す如く太平のその太平洋上の極楽土である。34

佐藤は日本は「花咲き鳥歌ふ楽土である」35と描いている。しかし、日本はモンスー

ン地帯にある風土なので、台風もあれば、大雨もある。また造山帯にあるのだから、地

震と火山活動も多い。このような自然環境は、いろいろな災害が起こり、人間の命まで

を奪う圧倒的な破壊力をしばしば示してきた。その意味で、日本の自然は「表面は極端

な楽土であつて而も内實は極めて恵まれざる國土」36である。

日本人は美しい自然に対して、親しみたい心を持っているが、自然がもたらす不可抗

な災害を恐れる心もある。寺田寅彦はこうした日本の自然について、以下のように述べ

ている。

このやうに吾等の郷土日本に於ては脚下の大地は一方に於ては深き慈愛をもつて

吾々を保育する「母なる土地」であると同時に、又屢刑罰の鞭を揮つて吾々の兎

角遊惰に流れ易い心を引き緊める「厳父」としての役割をも勤めるのである。37

以上のように、寺田は日本の自然の美しさと醜さの両面性を強調している。日本の自

然は日本人にとって、母親の慈愛のように無限の恵みを与えると同時に、また父親の厳

罰のように、恐ろしい威力を持って、彼らを制約する。その結果として、日本人の自然

に対する態度は、自然を征服するのではなく、自然に服従し、自然と一体になりたいの

である。これが日本人の物質または精神生活の諸方面に大きな影響を及ぼすことは言う

                                                       
34
  佐藤功一「民族性と住宅観」『思想』(岩波書店、1923)p.84 
35
  同前 
36
  同前 
37
  寺田寅彦『寺田寅彦全集 文学篇 第五巻』(岩波書店、1936)p.579 

18 
 
 

までもないであろう。

では、日本人はどのように自然を愛するか。明治十年に来日した外国人モースが見た

日本の感想から、それを窺い知ることができる。

この地球の表面に棲息する文明人で、日本人ほど、自然のあらゆる形況を愛する

国民はいない。嵐、凪、霧、雨、雪、花、季節による色彩のうつり変り、穏やか

な河、とどろく滝、飛ぶ鳥、跳ねる魚、そそり立つ峰、深い渓谷―自然のすべて

の形相は、単に嘆美されるのみでなく、数知れぬ写生図やカケモノに描かれるの

である。38

彼が驚いたのは日本人がいろいろな自然を絵に描くことである。日本人は自然から霊

感を得て、「松、竹、その他の最もありふれた物像を使用」39して、絵画などの装飾芸

術を創り出した。それだけでなく、日本人は自然を和歌や俳諧に詠み、自然を庭に移し

て楽しんでいる生活を過ごしてきた。さらには季節の推移を通して、自然の移り変わり

に関心を持ってきた。日本人と自然の関係は如何に深いかということが、吾々は数多く

の日本古典文学の内容から見ても分かる。『万葉集』『古今集』『新古今集』などに自

然を描いた多数の和歌が見られる。また、雨の降り方がさまざまに言い分けられる。た

とえば、春雨、梅雨、五月雨、夕立、秋雨、時雨などがそれである。このように降る季

節や時刻によって、豊かな雨の名が作られているのは日本の自然が鋭敏の感受性を育て

たからである。では『笈の小文』の中で、芭蕉が詩人の生き方、在り方を表わした有名

な一文を引いて見よう。

西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶におけ

る、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を

                                                       
38
  E.S.モース著、石川欣一訳『日本その日その日1』(平凡社、1990)p.223 
39
  同前 

19 
 
 

友とす。見る処、花にあらずといふ事なし。おもふ所、月にあらずといふ事なし。

像花にあらざる時は、夷狄にひとし、心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出、

鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。40

造化とは天地万物を創造し育てることで、また造物主によってつくられたものである。

四時とは四季のことである。この一文によると、日本人は四季の変化を微妙に味わい、

天地の生命を感じ取ることが分かる。こうして、日本人は自然の季節のリズムに則って、

それとペースを合わせた生活を営んでいて、自然と不可分の文化を作り出した。

自然を身近なところに取り込む作業の一つが縮小化である。『縮み志向の日本人』の

中で、韓国人の著者李御寧は日本文化の特徴がすべてのものを小さくする傾向にあると

指摘している。これも、日本人が自然を征服しようとするのではなく、自然を人間の生

活の中に取り込もうとする証拠の一つといえよう。和食、着物、日本的家屋から、茶道、

華道、歌舞伎などに至るまで、例外なく、長い時間にわたって工夫し、その洗練されて

きた生活様式において、自然の影響が随所に見られる。日本の伝統技術においては、職

人は今でも、「自然のあり方やその力を生かしつつ自然と関わるというこのようなあり

方」41の発想に基づいて、伝統技術、技法を保ちつつ、駆使している。

日本人にとって、「自然を人間の技術によって力づくで押さえこもうとするのではな

くて、自然の大きな力を認めそれを生かすことで、いかにその力の発露の過激さをやわ

らげるかというところに、人智と人為の工夫が見られました。」42と吉田喜久子は指摘

している。吉田は木工職人や織物職人などを例にして、職人が材料を入手した後、すぐ

加工するのではなく、材料そのままを眺めていることを楽しむということを話している。

日本の建築には自然から取った材料は何も加工せず、そのまま柱や門などに使うことが

                                                       
40
  井本農一編『日本古典文学 第28巻 芭蕉』(角川書店、1989)p.261-262 
41
  吉田喜久子「科学技術文明と日本人の自然観」 『人間と環境』2(人間環境大学人間環境学部
紀要、2011)p.146
42
  同前 

20 
 
 

よく見られる。また加工する場合があっても、「その素材の持ち味を最大限生かすよう

な仕方で加工する」43のである。在日三十年近く、韓国出身の日本文化研究者呉善花も

日本の伝統的な職人技術について、次のように述べている。

日本人が世界の誰にも負けない精密な技術をさまざまな面で発展させてきた秘密

があるのではないだろうか。自然の素材の側から聞こえてくる「声」を察知して、

その「声」に応えてほぞを彫る。人間の側から対象に働きかけて行使される技術

というよりは、自然の素材のあり方を細やかに受け取っていく感受性の豊かさを

磨き、それをもっと技術を上達させていく。そこに日本人の物作りにかかわる、

技術的な伝統のベースがあるように思われる。(中略)

伝統的な職人技術には、自然と融け合って生きていた、おそろしく古い時代の人

間精神のあり方が保存されているといってよいのではないだろうか。44

それは日本人は長期に亘ってに自然と接触して培ってきた豊かな感受性で、独自な文

化を構築したと言えよう。このような感受性が今でも現代の日本社会に残って、生き続

けていく。作家司馬遼太郎も「職人。じつにひびきがいい。そういう語感は、じつは日

本文化そのものに根ざしているように思われるのである。」45と言っている。こうして、

日本職人のものづくりから、自然との調和を保とうとする態度が見られる。この態度を

食生活に表現すれば、新鮮な食材を新鮮なままの形で食べるのが日本料理の特徴の一つ

である。人間的作為たる調理法や人工的な調味料などできるだけ控え、豊かな自然から

もらった食材の持ち味を最大限に楽しむことから、日本人の自然に対する尊重、自然を

愛好する自然観を見いだすことができる。なおかつ、日本人が自然への感応力に優れて、

四季のうつろいに敏感であることを持って、旬の文化を多様に発達させてきたのである。
                                                       
43
  吉田喜久子「科学技術文明と日本人の自然観」『人間と環境』2(人間環境大学人間環境学部
紀要、2011)p.146
44
  呉善花『日本復興の鍵 受けみ力』(海竜社、2011)p.75 
45
  司馬遼太郎『この国のかたち 二』(文藝春秋、1990)p.131 

21 
 
 

ところが、日本の自然は四季の変化に富んで、また豊かな恵みをもたらしてくれると

同時に、台風や地震などにより自然の暴威がふるうことも多々ある。したがって、日本

人は、自然を愛する一方で、自然災害に対する恐怖も持っているのである。廣井脩が「日

本人における自然と人間の関係はきわめて一方的であり、『偉大な自然』と『卑小な人

間』という対比が、つねにそこに存在している。」46と言ったように、自然の暴威は人

間の力をはるかに超えるものである。

また自然と人間の関係について、安部能成は以下のように述べている。

この大震災、大火災に面して誰しも直に感ずることは、絶大な自然の暴力に對す

る人間の無力である。人間がその上に立ち、座り、巣くひ、そこに喜び、悲み、

怒り、笑ふ所の大地、即ち人間一切の生活の根底となつて居る所の大地が、ぐら

ぐらと揺るぎ出しただけで、もう我等の生活は混亂し、顚倒し、不安を感ずるに

十分である。況んやこの大地の震動によつて大都會に於ける一切の人間的營為を

壓潰した上に、更に猛火の勢を添へてそれを燒盡すに至つては、誰人も皆人間の

努力遂に何に價するものぞとの感を禁じ得ない。47

日本の自然は測り知れない美を蔵している。日本人の美意識はすなわちこうした自然

から孕まれてきたものと言える。しかし、美しい自然は台風、地震などの形で突然予測

できぬ災害をもたらしてくる。天災によって示された自然の威力が著しく感じられるこ

とから、自然との闘いから生じる人間の無力感も見られる。それに関して、廣井脩は以

下のように述べている。

日本人の災害観として天譴論、運命論、精神論という、互いに関連している三つ

のタイプが取上げられる。天譴論とは、天が人間を罰するために災害を起こすと

                                                       
46
  廣井脩『災害と日本人 巨大地震の社会心理』(時事通信社、1995)p.83 
47
  安部能成「震災と都会文化」『思想』(岩波書店、1923)p.139-140 

22 
 
 

いう思想で、つまり災害とは天が人間に下した罰なのだ、という概念である。天

譴論は、災害という自然現象の背後に、「天意」を見るものであった。運命論と

は、自然のもたらす災害と、それにおける人間の生や死を避けられない運命と考

え、これを甘受する思想を意味している。運命論には大きな心理的効用がある。

それは被災者の心理的打撃や、災害の悲劇性を緩和するという効用をもつ一方で、

災害に対する諦念と、忘却癖を生み出す作用ももっているのである。最後の精神

論とは、人々心の持ち方や内面的努力を強調することによって災害に対処してい

こうとする態度である。精神論の極致は災害に対する合理的な態度をいっさい放

棄して、ひたすら神仏に祈る態度である。48

日本人は美しい自然に対して敬虔な態度を持つ一方、その自然は時に台風や地震で圧

倒的な破壊力を示すから、畏怖の心を覚えずにはいられないのである。科学の知識がど

のように進歩しても、自然がもたらす災害は人間の力で対抗できぬ、ただ我慢して自然

に忍従するという順応的な態度で接するしかない。こうして、日本人は自然との独特の

関係が生じた。日本は自然災害が頻発する多難な国であっても、自然に教わり、自然の

ほうを規範とする在り方がいまも日本文化に残っている。「天候も四季も、自然界は人

為の介入する余地なくウツロウものです。人生の過程を大自然推移に見立てて、春雨秋

雨……年、風雪……年、幾星霜、照ル日曇ル日…などと形容するところにも日本人的感

慨がこめらています。」49と芳賀綏は説いた。このように人生の過程を自然のプロセス

に喩えることは日本人の自然観の反映と言えよう。人間は自然の強大な力のなかで、天

災が循環して来るという諦め、また人生に対する無常観が生まれてくるのである。

                                                       
48
  廣井脩『災害と日本人 巨大地震の社会心理』(時事通信社、1995)p.8-81参照 
49
  芳賀綏『日本人らしさの構造─言語文化論講義』(大修館書店、2004)p.57-58 

23 
 
 

第三節 自然観に基づいた日本人の美意識

人間は生活にいろいろな避けられない災難が起きる。日本列島に生活している日本人

は自然から豊かな恵みをいただいたが、地震、台風などによってもたらされる災害も絶

えない。自然は日本人にとって、尊敬すべきなお且つ恐ろしい対象である。そして、日

本人は自然の木にも草花にも精霊が宿っていると見られる。つまり自然のあらゆるもの

に神が寓宿していると考えられている。日本では、古くから自然崇拝というアニミズム

信仰があって、そして日本人の心の中に長く生き続けている。それは日本の原始信仰―

神道の実態ともいえる。西田正好は「自然そのものが救主となった自然崇拝」を「自然

教」50と言い、それは「日本人の心の歴史を古くから底流となって貫いている自然神道

のことにほかならない」51と述べている。日本古来の神道思想はすなわち自然を神々と

見なしている観念である。西田正好はまた日本人が自然に対する感覚を以下のように述

べている。

日本の自然は、ちょうど美人の近寄りがたさと慕わしさとに似たものを、ふたつ

ながら感じさせる。畏敬と思慕と、おそれとあこがれとないまぜにしたような一

種の宗教芸術的感情。それが、古来、日本人のアニミスチックな自然美感の実体

をなしてきたのだ、といってよいのではあるまいか。52

このように、豊富な自然を持っている日本列島に生を営んでいる日本人の独自の美的

感覚はこうした自然への畏敬と思慕から育まれてきたものである。それに日本の神話に

は、いろいろな自然神が描かれていることから、日本人は古くから、八百万の神と共存、

共生していることが分かる。そして、天照大神などの神は自然を人格化して、日本人に

                                                       
50
  西田正好『花鳥風月のこころ』
(新潮社、1979)p.25 
51
  前掲書 p.30 
52
  前掲書 p.58 

24 
 
 

尊崇されている。自然の無常は、日本人に自然と神霊への畏怖を強めさせるのである。

また、日本の風土は湿潤で、緑に包まれた自然にあって、農耕に適している。農耕生

活の影響によって、日本人に繊細な感情、感受性をもたらしてきたのである。日本人は

身近な自然の変化に従って、稲作栽培をする。苗植えから収穫までの過程の中で、農民

は常に丁寧な取り扱いと観察をしなければならなかった。少しの不注意で、一年の努力

が台無しになってしまう。そのため、常に四季の変化を読み取り、農作業の準備を進め

る。気候の変化を把握するために、人々は季節の移り変わりをよく観察する。特に日本

の一年中は気候の変化に富み、花草木も季節の移り変わりに従って、茂ったり枯れたり

する。そして日本人は四季の変化を身をもって体験して、次第に繊細、敏感、感傷しや

すい性格を形成するに至ったのである。

文化人類学者深作光貞は日本人の情感と四季との関連について、以下のように述べて

いる。

稲作文化の日本では、農耕は他人事ではなかったのである。貢税にしても、奉納

品にしても、禄にしても、労賃にしても、米が貨幣がわりに使われた。やっと刈

り入れがすみ、空漠となった田のひろがりを見ると、吹き抜けて来る秋風が見に

沁み、寂しさをおぼえる。日照りがつづけば日照りを、雨がつづけば雨を、風が

吹けば風を……心配しつつ、せっせと働き、待ちに待った収穫が終わったあとで、

初めて周囲をしみじみ見渡したり、感傷的になる余裕が、許されたのである。多

忙な春や夏には、社会的に感傷は許されなかったのだ。53

深作も「その“感傷”自体の性格も、日本独特のものである。」54と指摘している。

このように、稲作文化の影響で日本人の性格に繊細性をもたらしてきて、また日本人の

                                                       
53
  深作光貞『日本人の笑い』(玉川大学出版部、1978)p.106 
54
  同前 

25 
 
 

敏感で感動しやすい情緒の形成を促した。後述のように、その情緒がだんだん、「哀」

を中心とする「もののあはれ」という美意識になった。日本人は自然を鑑賞することを

通して、美しい感受性を培ってきた。また、四季の変わりやすさに対して、悲嘆するこ

ともあった。日本人は春の桜、秋の残月、冬の雪が美しいと思う。日本の和歌、俳句に

花鳥風月の自然美を賛嘆することが数多く見受けられる。日本の文学史も、自然美への

賛嘆、賛美から発展してきたものだと言えよう。

高濱虚子は花鳥諷詠の意味について、以下のように述べている。

花鳥諷詠と申しますのは花鳥風月を諷詠するといふことで、一層細密に云へば、

春夏秋冬四時の移り変わりに依つて起きる自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界

の現象を諷詠するの謂であります。55

こうして、春の消えてなくなる桜、夏の舞上る蛍、秋の落ちた葉、冬の曇った空など

の景色は、人間が自然の姿に対する感傷を引き起こす。それがゆえに、日本の和歌、俳

句に花、月、雪を題材とした作品は数え切れないほどある。

昭和四十三年に作家の川端康成氏はノーベル文学賞授賞の際の講演で、以下のように

話していた。

雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを見るにつけ、つまり四季折り折りの

美に、自分が触れ目覚める時、美にめぐりあう幸いを得た時には、親しい友が切

に思われ、このよろこびを共にしたいと願う、つまり、美の感動が人なつかしい

思いやりを強く誘い出すのです。この「友」は、広く「人間」ともとれましょう。

また「雪、月、花」という四季の移りの折り折りの美を現わす言葉は、日本にお

いては山川草木、森羅万象、自然のすべて、そして人間感情をも含めての、美を

                                                       
55
  浜田琉司『高濱虚子全集第十一巻 俳論・俳話集(二)
』(毎日新聞社、1974)p.179 

26 
 
 

現わす言葉とするのが伝統なのであります。56

またその講演で、日本人の自然に対する美意識や特質が凝縮されている「雪月花」を

詠んだ和歌を引用した。その一は道元の「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しか

りけり」という歌である。これが「四季の美の歌で、古来の日本人が春、夏、秋、冬に、

第一に愛でる自然の景物の代表」57にほかならない。そして川端は良寛の歌「形見とて

何か残さん春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉」を引用して、
「自分は形見に残すものは

なにも持たぬし、なにも残せるとは思わぬが、自分の死後も自然はなお美しい、これが

ただ自分のこの世に残す形見になってくれるだろう」58と言った。ここから、日本人の

精神面の奥には、四季折々の「花鳥風月」の美に触れ、感動にめぐりあう自然を共にす

る心情を見いだすことができる。

こうして、人間は自然物への同情、感動などの情緒を生み出しているうち、だんだん

「もののあわれ」という美意識を形成した。
「もののあわれ」という言葉は、江戸期の

国学者本居宣長の名とともに、よく知られている。
「もののあわれ」は長い年月を経て、

「あわれ」から発展してきたものである。宣長によると、
「あわれ」とは、
「見るもの聞

くもの触れることに心の感じて出る嘆息の声」59、もともと感動詞である。
「あゝ」とい

う感動詞と「はれ」という感動詞が重ねてきた「あゝはれ」という言葉である。その後、

「あはれ」
「あっぱれ」となった。それは人間が物事に触れるとき、感動して思わず口

にする感動詞である。宣長は『源氏物語玉の小櫛』において、次のように述べている。

後世、
「あはれ」というに哀の字を書いて、ただ悲哀の意とのみ思っている向きが

あるようだが、
「あはれ」は悲哀にかぎらず、うれしいにつけ、おもしろいにつけ、

たのしいにつけ、興あるにつけ、すべて「あゝはれ」と思われるのはみな「あは
                                                       
56
  川端康成『美しい日本の私』(KODOKAWA、2015)p.16 
57
  同前 
58
  前掲書 p.16-17 
59
  石川淳編『本居宣長』(中央公論社、1970)p.406 

27 
 
 

れ」にほかならむ。60

こうして、哀という字を見ると、悲哀の意を読み取れるが、
「あはれ」は哀愁の感情

だけでなく、多様な感情が含まれていることは明らかである。「あはれ」は悲哀、愛憐

などの感情を表して、次第に自然や人生に対する複雑な情緒を表すようになり、平安時

代にやっと「もののあはれ」という美意識が形成する至った。平安時代に、日本自国の

文化の特色が現れ、独特な貴族文化が構築された。その時代の文学における代表作品と

しては、和歌集『古今和歌集』
、長編小説『源氏物語』などがあげられる。『源氏物語』

の作者紫式部は日本貴族社会の没落時代に生きていた。
『源氏物語』で主人公光源氏を

通して、恋愛、栄光と没落など、平安時代の貴族社会を描いた。またその中にも、栄華

の後、凋落に向かうことを暗示し、徒労の愛情に対して仕方がない感じを表すだけでな

く、虚無の人生に対する悲嘆もある。
『源氏物語』で紫式部は外界に対する単純な感動

を賞賛、同情、哀憐、悲傷などの感情を含める感動に変わり、主体の感情を深化させた。

宣長は「もののあはれ」という概念を駆使して『源氏物語』を分析して、「もののあは

れ」を日本の伝統的な審美意識の一つと位置づけている。

「もののあはれ」は、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つ

である。それは、何を目に見、耳に聞くものごとに触発されて生じて、しみじみとした

情趣や悲哀である。宣長はまた『石上私淑言』で、以下のように述べている。

事わざしげき物なれば、その事にふるるごとに、情は動きて静かならず。動くと

は、ある時はうれしくある時は悲しく、または腹立たしく、または喜ばしく、あ

るいは楽しく面白く、あるいは恐ろしくうれはしく、あるいは愛しく、あるいは

悪ましく、あるいは恋しく、あるいはいとはしく、さまざまに思ふことのある、

                                                       
60
  石川淳編『本居宣長』(中央公論社、1970)p.407 

28 
 
 

これすなはち物のあわれを知るゆゑに動くなり。61

「もののあはれ」は人間の生まれつきのもので、心があれば、外界の物事に触れると、

その心が必ず感動する。というと、
「もののあはれ」は外界の物事で主体の内心に変化

が起こるもので、それに心で心境の変化を感じるのである。

また「もののあはれ」の美学は「諸行無常」という仏教の無常観からも影響を受けた。

六世紀頃、中国を経由して日本に入り、そして日本で展開した仏教は日本文化と融合し、

いろいろな方面にも影響をもたらした。辻善之助は仏教伝来によって日本にもたらされ

た影響に関して、以下のように述べている。

佛教の渡来に依つて思想が豊富になり、潤澤になつたといふことは、當然考へら

れることである。從来宗教といふほどの観念をも持たず、或は天然崇拝・物體崇拝・

動物崇拝等の幼稚なる雑信仰を有するのみで、深遠幽玄の思想を有しなかつたもの

も、佛教の渡来に依つて國民の精神的眼界が廣まり、哲學的思索の方面にも刺戟を

受けたのである。元来、現世的現実的・享楽的・楽天的であつた我が思想が、複雑

なる過去・現在・未来の三世に亙る思想を加へ、輪廻轉生また浄土思想等に依て養

はれ、自然と深味を増し、その影響は著しく文學の上に現はれて居る。歌の中に無

常を嘆じ、人生を水泡と觀、浮世を穢土と見るといふやうな思想が現はれた如きは

その例である。62

このように、仏教は日本の思想、学問、芸術などに、広くて深い影響を与えたことが

否めない。しかも、その中から、「諸行無常」という無常観は日本の「もののあはれ」

的美学への影響も明白に見られる。本田義憲は仏教の無常観が日本人にどのように影響

を及ぼしたかを以下のように述べている。

                                                       
61
  日野龍夫校注『本居宣長集』(新潮社、1998)p.281-282 
62
  辻善之助『日本文化と佛教』(大日本図書、1937)p.21 

29 
 
 

時におこる有為転変を含みながら、概して美しい季節がめぐり、ラフカディオ・

ヘルンもいうように、恒久的でない木造の家に住みついで、無意識のうちにもの

のうつろいを感じてきた日本の心性に、情緒的にうけ入れられやすかったという

ことも事実であろう。日本人が短歌や俳句などの小詩形に親しんだのもやはり無

意識に無常のおもいとかかわるということもできるのである。63

日本人の美的感覚には、無常にかかわる情緒的感性を潜めていることは明らかである。

こうして、日本文学にも仏教の無常観の影響のため、無常の美学もよく見られる。森龍

吉は『親鸞その思想史』で古代の歌集の中で歌全体が無常観と発想テーマとしているも

のと修辞的に無常観をあらわす語句の使用がどれくらいあるかを調べた。彼の調査によ

ると、『古事記』『日本書紀』には「無常」という語彙が記されていないものの、『万

葉集』では一・四〇%、『古今集』では二十三・十七%、『新古今集』では三三・十四%

という割合の内容が書かれていること64が分かった。この調査から、万葉時代から、「無

常」という観念が日本の社会に広がりはじめたことは明らかだ。日本の歌人は人生が夢

幻のようにむなしいものだと思い、万葉の時代から、人生の無常を詠嘆していたのであ

る。彼らはまた人間のはかなさを自然のはかなさと重ねて、数多くの慨嘆の作品を作っ

た。

このように日本人は四季の推移のうち、時の流れが絶えず感得され、また隆盛、凋落

が感受されてきたのである。無常観が日本人の心に浸透するにつれて、日本人の独特な

美意識が生まれたのだ。笠井昌昭が述べたように、「秋の虫の声をひとつの心細さをも

って聞き、秋が過ぎさってやがて厳しい冬がやってくるという、一種の無常観を伴った

ものとして聞くということが、日本人のもっている特有な感情なのである」65から、仏

教の万物流転、諸行無常の思想は日本人の人生観や自然観に対して、大きな影響を与え
                                                       
63
  本田義憲『日本人の無常観』(日本放送出版協会、1968)p.4 
64
  森龍吉『親鸞その思想史』(三一書房、1961)p.25参照 
65
  笠井昌昭『日本の文化』
(ぺりかん社、1997)p.11 

30 
 
 

続けている。日本人は自然と人生を同一のものとみなして、自然の移ろい易さ、はかな

さから、人生の無常転変に繋がっているのである。

日本三大随筆の一つ『徒然草』には「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。

<中略>咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。」66という言葉

がある。満開な桜や満月より、雪のように舞い散る花びらや残月のほうが人間をもっと

感動させ、深い感情を引き出す。日本人にとっては、完璧な美よりは、少しだけ残念な

気持ちを持つ不完全な美のほうが理想的な美である。また『古今集』には、紀友則の書

いた次の和歌がある。

久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ67。 春下・84

このように日の光がのどかに射している春の日に、なぜ桜の花は落ち着かなげに散っ

ているのだろうか。この歌は櫻の散るときの美しさを詠ったものである。咲き誇る櫻も

自然の姿であり、散りゆく櫻も、もう一つの自然の姿である。花見ということは必ずし

も満開の状態を見るだけではなく、落花の花吹雪も花見の一つであろう。

こうして、日本人にとって、散るものの美しさは滅び去るものの美しさと同じである。

紅葉や落葉の自然現象は、もとより植物の死亡を意味する。だから、いわゆる飛花落葉

は無常の姿そのものだ。飛花落葉とは、花が風によって散ったり、葉が落ちたりするこ

とを感傷するだけではなく、飛花落葉の観察を通して、人生のことを考えることである。

唐木順三は「飛花落葉」と題する随思集の「あとがき」で、次のように述べている。

飛花落葉といふ言葉は、中世の連歌師たち、たとへば二條良基、心敬、宗祇、そ

してまた芭蕉も好んで使つてゐる中世特有の言葉である。心敬は「常に飛花落葉

を見ても草木の露をながめても、此世の夢まぼそりの心を思ひとり」云々といふ

                                                       
66
  安良岡康作『徒然草全注釈 下巻』(角川書店、1968)p.5 
67
  小島憲之・新井栄蔵校注『古今和歌集』(岩波書店、1989)p.42 

31 
 
 

やうにいひ、芭蕉は「飛花落葉の散亂るも、その中にして身とめ聞とめざれば、

をさまることなし」といつてゐる。人生無常、世間無常、諸行無常といふ事實と

觀念を飛花と落葉のうちに具象的にくみとつたのであらう。68

こうして、日本人が四季の自然の移ろいを凝視する季節感のありかたは、無常で、幻

のように移り変わる世を反映するものだ。自然の景物は人間と同じ有限の生命をいとな

む仲間という認識が日本人の心の根底に潜んでいる。このように仏教の無常観は日本の

社会生活の隅々までに影響を残している。日本の独特の「あわれ」の美意識、「飛花落

葉」の文学の形成にも影響を与えたのである。

本田義憲は無常観より、日本の独特の美学について、以下のように述べている。

花は咲き、花は散って行った。花は咲くがゆえに花であり、散るがゆえに花であ

った。花雨、花心、花燭、花燼、花の宴、花染め、花がたみ…、古い東方のはな

やかな哀愁を帯びたぼろしが、これらの言葉には匂っているであろう。そして、

日本の花のいのちは、日本情緒の美学をそめったのであった。69 

日本人にとって、花は散る際が美しい。日本人は桜を愛するのはその美しさだけでは

なく、無常に愛惜を感じるからである。日本人は自然に対して、自然の美しさを感じ詠

嘆する「花鳥風月」という言葉があれば、自然の移ろいを感じる「飛花落葉」という言

葉もある。仏教に唱えられた「諸行無常」から派生した無常観は、日本では花鳥風月を

愛したり、命のはかなさを詠嘆したりすることになる。これは日本人の自然観とも密接

に結びついていった。日本列島には、春は春の喜び、夏は夏の活発な姿、秋は秋の色う

つろう姿、冬は降り積む氷雪世界が見られる。日本人はこのような環境から発展してき

た自然観に、仏教の教義を取り入れて、日本独自な美意識を形成するに至ったのである。

                                                       
68
  唐木順三『唐木順三全集第十巻』(筑摩書房、1982)p.439 
69
  本田義憲『日本人の無常観』(日本放送出版協会、1968)p.75 

32 
 
 

結語

日本列島は地理、気候などによって、豊富な自然を持っている。一方、台風、地震、

火山などにより、予測できない自然災害も見舞われる。このような自然環境の中で、日

本独特な風土が形成される。そして日本人の国民性、生活様式などに、自然の深い影響

があると考えられる。

豊かな自然の中で生活している日本人は自然を愛する民族である。日常生活にも日本

人は自然を取り込む。衣食住から茶道、華道などに至るまで、自然がどこにも見られる。

また、日本の古典文学の中に、花鳥風月の自然美の賛嘆を詠む作品が数多く見られるこ

とから、日本人は自然を如何に愛しているかが分かる。

ところが、日本人は自然に対して、親しむ心を持つ一方で、自然災害から、自然への

畏怖の心もある。そのため、日本人は自然を征服するのではなく、従順な態度を取って

いるのである。そして自然との一体感、共存、調和を目指している。日本人は自然への

受容的生活態度は、日本の庭園、茶室の飾り付けなどからも、自然の姿を感受し、また

自然との融合が見られるのである。

また農耕生活により、日本人は四季の移り変わりから、鋭い感受性と繊細な感情も培

われる。日本人は自然の移ろいに対して、人生の譬えとして、自分の気持ちを自然の変

化に託している。日本人の精神面の奥に、四季の美に触れ、心が惹かれて、自然物への

感動の情緒を生み出す。自然の美を感じているが、それと同時にまた、移ろい去った美

を痛感する。日本人は移ろいやすい自然の姿を見て、はかなくもろい人の生活を自然に

投影する。こうして、だんだん平安時代に日本人の「もののあわれ」という独特な美意

識へと発展していったのである。

さらに日本人が自然を愛する心の中に、仏教思想の影響が見られる。万物流転、諸行

無常を説く仏教は長い年月のあいだに、日本の国民性に深い影響を及ぼしているのであ

る。自然の変化の中で、時の流れを感じて、自然の隆盛、凋落を感受する。無常観が日

33 
 
 

本人の心に沁み込むにつれて、あわれの美意識は孕まれ、そこから「飛花落葉」の文学

が生まれ育ったのである。日本人にとって、自然の「花鳥風月」の賛嘆があるが、その

一方「飛花落葉」の慨嘆も見受けられる。咲いた花もやがて散り、青葉も秋には枯れ落

ちる。人生のはかなさや世の無常であることと自然の姿とが同一視されているのである。

34 
 
 

第二章 運命観とその周辺
 
序 

2011 年 3 月 11 日、日本の東北地方で大きな地震が起きた。この地震により、巨大な

津波が発生し、日本の東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害が発生した。

また、東京電力福島第一原子力発電所が被災して、放射性物質が漏れ出す深刻な事態に

なった。この震災で、死者・行方不明者は2万人以上を超えた。この深刻な被害状況は

リアルに世界に伝えられた。その一方、大惨事の混乱の中で冷静に秩序を保つ被災者の

姿が報道された。このような日本人の姿に対して、世界中の人々から激励と賞賛が相次

いで送られてきた。なぜ、日本人がこのような大災害に遭っても、冷静な態度が取れた

のか。

日本以外の国々であれば、このような非常事態の際、きっと大混乱に陥って、甚だし

きに至っては暴動や略奪が発生するだろう。しかし、震災時にも、日本人はパニックや

ヒステリーを起こさずに、きちんとルールを守りうる。また互いに助け合って、困難を

乗り越える。私たちは日本人の冷静さに驚くしかないのである。

ニューヨークタイムズのコラムニスト、ニコラス・クリストファーも日本東大震災の

大きな災難の中でも秩序意識を失わない日本人に驚きと敬意を表すると賛辞を送った

そうだ。今回の東日本大震災で、日本人が災害に遭うときに、抱いた態度と取った行動

から、日本の風土に培われた国民性の強さが見られると思われる。

このような国民性は世界中にもまれに見ることができない。この国民性の強さが日本

人であっての運命観に存する。日本人は古くから、自然の怖さを知っている。それゆえ、

自然の脅威に対して、従順せざるをえない。また人生の哀れ、無常を常に感じる。それ

によって、独特な運命観が生まれた。本章では、日本人の運命観における忍耐という心

理的由来を分析し、そして、日本人の運命観はどのように形成してきたのかを究明する。

35 
 
 

最後に日本人の運命観には、どのような美意識があるのかを論述する。

第一節 日本人の忍耐心理

第一章で述べたように、日本列島は地理、気候などによって、豊富な自然を持ってい

る。日本の四季に著しい変化が見られる。春には花盛り、夏には緑があり、秋には紅葉、

冬には銀色世界が見られる。四季の変化に恵まれて、日本人が自然を受容し、自然への

豊かな感受性を培う。その一方、台風、地震などの自然災害も多い。古くから、自然災

害が絶えず日本を襲い続けている。外国に比べて、日本は台風、地震、津波、火山噴火

などの自然災害が発生しやすいところである。日本の国土の面積はわずか全世界0.2

8%しかない。しかし、全世界で起こったマグニチュード6以上の地震の20.5%が

日本で起こり、全世界の活火山の7%が日本にある。このように、日本は世界でも災害

が発生する頻度の高い国であることは否定できないだろう。ポール・クローデルは『朝

日の中の黒い鳥』で、
「大津波、台風、火山の噴火、地震、大洪水などたえず何か大災

害に晒された日本は、地球上の他のどの地域よりも危険な国であり、つねに警戒を怠る

ことのできない国である。」70と書いている。古くから、このような自然災害は日本を襲

い続けている。だから、天災に遭ったとき、日本人はあまり自分の不幸をこぼさずに、

常にあらゆる苦難に耐えつつ、いつも冷静な態度で直面し、しかもあるべき社会の秩序

を守っている。

1579年から1603年にかけて、三回にわたって日本を訪れたイタリア人のイエ

ズス会の巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノは、
『日本巡察記』で、日本人の性

格について、以下のように述べている。

ヨーロッパ人と異なり、彼等は悲嘆や不平、あるいは窮状を語っても、感情に走

                                                       
70
  ポール・クローデル著、内藤高訳『朝日の中の黒い鳥』(講談社、1988)p.51 

36 
 
 

らない。すなわち、人を訪ねた時に相手に不愉快なことを言うべきではないと心

に期しているので、決して自分の苦労や不幸や悲嘆を口にしない。その理由は、

彼等はあらゆる苦しみに堪えることができるし、逆境にあっても大いなる勇気を

示すことを信条としているので、苦悩を能うる限り胸中にしまっておくからであ

る。誰かに逢ったり訪問したりする時、彼等は常に強い勇気と明快な表情を示し、

自らの苦労については一言も触れないか、あるいは何も感ぜず、少しも気にかけ

ていないかのような態度で、ただ一言それに触れて、あとは一笑に附してしまう

だけである。一切の悪口を嫌悪するので、それを口にしないし、自分達の主君や

領主に対しては不満を抱かず、天候、その他のことを語り、訪問した先方を喜ば

せると思われること以外には言及しない。71

ここからみると、日本人は我慢強い民族であり、しかもこの「我慢強さ」も日本人の

美徳のひとつとされている。どのような不幸に遭っても、日本人は前向きに進んでいる。

明治十年にお雇い外国人として来日したアメリカの学者モースは、火事に見舞われた日

本人の姿を見て、以下のように述べている。

背中に子供を負った辛棒強い老婆、子供に背負われた頼りない幼児、男や女、そ

れ等はすべて、まるで祭礼でもあるかのように微笑を顔に浮べている。この一夜

を通じて私は、涙も、焦立ったような身振も見ず、また意地の悪い言葉は一言も

聞かなかった。時に纏持の命があぶなくなるような場合には、高い叫び声をあげ

る者はあったが、悲嘆や懸念の表情は見当らなかった72。

また、フランス艦隊の一士官として、1866年日本に到着したデンマーク人のエド

ゥアルド・スエンソンは横浜大火に遭遇した際、日本人の不屈の精神力に対して、
「日

                                                       
71
  アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ著、松田毅訳『日本巡察記』 (平凡社、1973)p.13 
72
  E.S.モース著、石川欣一訳『日本その日その日2』(平凡社、1990)p.72-73

37 
 
 

本人はいつに変わらぬ陽気さ暢気さを保っていた。不幸に襲われたことをいつもでも嘆

いて時間を無駄にしたりしなかった。持ち物すべてを失ったにもかかわらずにである。

73
と賞賛した。つまり、日本人はどん底に陥ったとしても、耐え難きことに耐え、忍び

難きことを忍んでいる。そのような不屈の底力には、日本人は世の中のことを無常と考

えている傾向が見られる。寺田寅彦は「日本人の自然観」で、以下のように述べている。

仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し持続したのはやはりその教義

の含有する色々の因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい。思う仏

教の根柢にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのある

のもその一つの因子ではないかと思うのである。鴨長明の方丈記を引用するまで

もなく地震や風水の災禍の頻繁でしかもまったく予測難い国土に住むものにとっ

ては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑に浸み渡って

いるからである。74

寺田寅彦は、日本では地震などの自然災害が「我が邦建国以来恐らく現代と略同様な

頻度をもつて繰返されて来たもの」75で、これらの自然災害が日本人の中に、
「遠い祖先

からの遺伝的記憶となって五臓六腑に浸み渡っている」76と説いている。こうして、日

本では、地震、津波、台風、移り変わりの四季などの風土があって、仏教の影響で発展

してきた無常観は、日本人の心に潜んでいるのである。

日本では、五十音を覚えるために、昔はいろは歌を使って、子どもに教えた。以下は

そのいろは歌の著名な例である。

いろはにほへとちりぬるを(色は匂えど散りぬるを)

                                                       
73
  エドゥアルド・スエンソン著、長島要一訳『江戸幕末滞在記』(講談社、2010)p.139 
74
  寺田寅彦『寺田寅彦全集 文学篇 第五巻』(岩波書店、1936)p.599 
75
  前掲書 p.577-578 
76
  前掲書 p.599 

38 
 
 

わかよたれそつねならむ(我が世誰ぞ常ならむ)

うゐのおくやまけふこえて(有為の奥山今日越えて)

あさきゆめみしゑひもせす(浅き夢見じ酔いもせず)

この歌に、仏教の無常観がこめられている。花は色鮮やかに咲き誇っているが、やが

て必ず散ってしまう儚いもので、人間も盛者必衰、誰も長くは続かないのだ。日本人は

幼い頃から、この教えが繰り返し教えられてきたため、どのような不幸や困窮に遭って

も、冷静な態度を持ち、死亡のことでも平凡な日常のこととして向き合おうとしている。

日本の古典文学には、
『方丈記』
、『徒然草』といった無常を謳う作品がある。鴨長明

『方丈記』の冒頭には、
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よ

どみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中に

ある、人と栖と、またかくのごとし」77と書いてある。現代文で解釈すれば、
「流れゆく

河の水は絶えない。かといって、もとの水がとどまっているわけではない。澱みに浮か

ぶ水の泡は、消えてはまた結び、長くとどまることはない。世の中、人や住処も、この

」78となるのである。また、兼好の『徒然草』にも、以下の内容が記
ようなものである。

されている。

世にしたがはん人は、まづ機嫌を知るべし。ついで悪しき事は、人の耳にもさか

ひ、心にもたがひて、その事成らず。さようの折節を心得べきなり。ただし、病

を受け、子生み、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、ついて悪しとて止むことなし。

生・住・異・滅の移り変る実の大事は、たけき河のみなぎり流れるがごとし。し

                                                       
77
  三木紀人校注『方丈記 発心集』(新潮社、2003)p.15 
78
  歴史と文学の会編、『新視点・徹底追跡 方丈記と鴨長明』(勉誠出版、2012)p.30 

39 
 
 

ばしも滞らず、ただちに行ひゆくものなり。79

以上のように、人間は、生、老、病、死という四苦を避けられず、世の中も常に、生、

住、異、滅の移り変わりに晒されている。これが、無常の実態である。というのは、人

間が生まれてから、世の中のはかなさや測れない死を免れ得ないからである。仏教から

くる無常観を源とした考えは、いつの間にか日本人の心の中に浸透し、日本人の人生観

の底を流れている。日本の中世文学にはこうした仏教の影響が色濃く現れている。

前章に述べたように、日本人は自然を愛す民族である。日本の文学作品には、自然を

題材とするものが山ほどある。それは自然の移り変わりには、人生と類似しているもの

があるため、自然を作品の中に取り入れたからである。古くから、日本の文学は自然を

友として風月雪に親しむところに成り立ってきた。時のうつろいのなかで、自然の美し

さに心奪われ、またその滅びを惜しみ、怨じ、嘆き、これに無常を思い浮かべてきた。

日本中世の連歌には、自然の移ろいを人生の無常転変に喩えたものが見られる。二条良

基は『筑波問答』で、連歌について以下のように述べている。 

連歌は前念後念をつがず。又盛衰憂喜、境をならべて移りもて行くさま、浮世の

有様にことならず。昨日と思へば今日に過ぎ、春と思へば秋になり、花と思へば

紅葉に移ろふさまなどは、飛花落葉の観念もなからんや。80

以上から見ると、この連歌の形式と内容は、人生の無常転変を自然の移ろいになぞら

えることが分かった。また宗祇は『吾妻問答』で、「歌の道は只慈悲を心にかけて、紅

栄黄落を見ても生死の理を観ずれば、心中の鬼神もやはらぎ、本覺真如の道理に可歸

」81と述べたのも同じことである。日本人が古くから、伊呂波の歌を習って、現代で
候。

も、無常観を込めた文章を読んでいる。こうして、無常の考え方が日本人の心に植えつ
                                                       
79
  木藤才蔵校注『徒然草』(新潮社、2002)p.173-174 
80
  木藤才蔵・井本農一校注『連歌論集 俳論集』(岩波書店、1963)p.82 
81
  前掲書 p.233 

40 
 
 

けて、また日本人ならではの人生観を代表するものであると教えられてきている。

2011 年6月スペインの国際的な「カタルーニャ賞」を受賞した作家の村上春樹が、

授賞式のスピーチで「非現実的な夢想家として」という内容を読み上げた。村上は無常

について、以下のように述べた。

我々は「無常(mujo)
」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた

生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、

人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつにな

っています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機

に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静

かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。82

村上の言ったように、人間は大自然の前に、微小なものである。日本人は自然から、

「この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続

」83というこ
ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。

とを習って、無常の考え方は「日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリテ

ィーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました」84のである。こ

の世のものはすべて変化し消滅していくものである。私たちの周りの人間も百年後にも

誰もいない、何もかも同じ形態を保つことができないという当たり前の観念は日本人の

心の中に根を下ろしているのである。

こうして、日本人は自然のうつろいであり、万物流転である無常観を受容して、民衆

の精神生活の深層にまで浸透している。日本には、人生の無常を述べた諺が多い。具体

                                                       
82
  上村春樹カタルーニャ国際賞スピーチ全文 https://www.kakiokosi.com/share/world/183
(2019/1/31 にアクセス)
83
  同前 
84
  同前 

41 
 
 

例として下のようなものがあげられる。

「生死不定は浮世の常」

「生は死の基、逢うは離れるの基」

「無常の風は時を選ばず」

「朝に紅顔あって夕に白骨となる」

「知れぬは人の命」

上記の諺は、人の生と死が予測できないものであり、そして人間の力で変えられない

宿命で、生きているものが結局必ず死を迎えるということを慨嘆するのである。このよ

うな無常の教えに対して、
「はもも一期 えびも一期」
、「蛇も一生 なめくじも一生」

のように、人の一生は結局似たり寄ったりのものだという諺もある。それは、
「自己の

生活になんとなく満たされぬものを感じている人びとのあきらめと慰めの言葉」85であ

る。そして、
「笑って暮らすも一生 泣いて暮らすも一生」というようなものも、やは

り現実に対する一種の諦めの考えと言えよう。

日本は地震、台風、火山、津波、豪雪などの自然災害が多発する国である。日本人は

次々に押し寄せてくる自然災害に対して、仕方なくそれを乗り越えてきた。また、人生

の短いことを儚む虚無感にも似た感覚を感受してきた。この世は無常であるからこそ、

一瞬一瞬が貴重であり、味わい深いのだと日本人は肯定的に理解している。たとえば、

日本の茶道には、一期一会という言葉がある。それは茶会に臨む際には、その機会は二

度と繰り返されることのない、一生に一度限りの出会いであるということを心得て、亭

主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味する。このような一期一会の観念は仏教

の無常観の体現である。仏教の無常観は人々に「現在」を重視させて、真剣に眼の前の

事柄に対応させる。日本人はこうした考え方を持って、見知らぬ人に対して、いつも微

笑むのである。
                                                       
85
  奥津文夫『英語のことわざ』(サイマル出版会、1988)p.139 
 

42 
 
 

日本人は自然環境の影響で、自然の移ろいゆくものに、美を感じている。そして、仏

教の無常観を受容し、人間の人生ははかないものと受け入れている。宿命的な無常のも

と、自然に順応しながら、現実に向って生きている。こうして、日本人に対して、生あ

るものは必ず死ぬという現実を受け入れ、前向きに生きる姿を見せるのであろう。

第二節 日本人の運命観

和辻哲郎は、名著『風土』の中で、日本の地理的環境をモンスーン型風土と呼んで、

日本が置かれた地理的条件から、その結果生じる特異な気象特性は熱帯性と寒帯性とい

う二重性格を有すると指摘する。そして、こうした特異な風土特質で生まれた日本人は

突発的で激しやすく、猛烈に闘争する反面、あっさりとあきらめ、忍従するという相矛

盾するような心性を持っている。和辻は日本人の国民性について、以下のように述べて

いる。

反抗や戦闘は猛烈なほど歎美せられるが、しかしそれは同時に執拗であってはな

らない。きれにあきらめるということは、猛烈な反抗・戦闘を一層歎美すべきも

のたらしめるのである。すなわち俄然として忍従に転ずること、言いかえれば思

い切りのよいこと、淡白にわすれることは、日本人が美徳としたころであり、今

なおするところである。桜の花に象徴せられる日本人の気質は、半ばは右のごと

き突発的忍従性にもとづいている。その最も顕著な現れた方は、淡白に生命を捨

てるということである。この現象はかつてキリシタンの迫害に際しての殉教者の

態度としてヨーロッパ人を驚嘆せしめたように、近くは日露戦争において彼らに

強い驚きの印象を与えた。反抗や戦闘の根柢に存するものは生への執着である。

しかし生への執着が大きい・烈しい客観的な姿に現われたときに、その執着のた

だ中において最も目立つものは、生への執着を全然否定する態度であった。日本

43 
 
 

人の争闘はここにその極致を示している。剣道の極致は剣禅一致である、すなわ

ち争闘を執拗な生への執着から生の超越にまでたかめることである。これらを

我々は台風的な忍従性とよぶことができる。86

以上に述べたように、和辻は日本人に特有の二重心性―突発的な猛烈さと淡白な忍従

性が生まれてきたと論じる。こうして日本人はモンスーン地帯に位置するが、四季の変

化が激しいので、激情と淡泊なあきらめが混じり合っているのが特徴であると見ている。

和辻は「しめやかな激情、戦闘的な恬淡である。これが日本の国民的性格にほかならな

い。」87と説明する。また芳賀綏も日本人の淡泊の国民性について、以下のように述べて

いる。

日本人のおだやかさは、運命にたいしてもあらわれる。立ちはだかる抵抗を突破

して、目的のあくなき追求をこととするなどは、日本人好みではない。シツコク・

執念深ク・コダワルよりも、ホドホドニ・イサギヨク・アキラメガよいほうが好

感をもたれる。88

このように、淡泊は日本人の美徳の一つとも言える。自然災害が頻発する日本で生き

てきている日本人には、災害に遭うたびに、彼らの冷静さ、忍耐力の強さ、不幸な出来

事に対して不満を漏らさず粛々と対処する姿から、その独特な国民性も見られるのであ

る。

南博は『日本人の心理』の中で、
「不幸とか苦労とか難儀などということばは、それ

を形容する、悲しい、あわれな、さびしい、などの表現とともに、たいへん豊富である」

89
と書いている。日本語には、日本人の心理状態を表す語の中で、悲観的な意味を持つ

                                                       
86
  和辻哲郎『風土―人間学的考察』(岩波書店、2015年)p.204-205 
87
  前掲書 p.205 
88
  依田新・築島謙三編集『日本人の性格』(朝倉書店、1970年)p.147 
89
  南博『日本人の心理』(岩波書店、1978年)p.59 

44 
 
 

言葉はおびただしい数にのぼる。古語から見ても、ワビシ、アジキナシ、ココロヅキナ

シなど悲観を現す語彙が多く使われる。南博も同書で日本人の不幸感という心理に以下

のように述べている。

第一には、日本人が不幸とか不運について、それをなんとか、あきらめたり、な

ぐさめたりして、消極的に、不平不満をおさえる工夫を発見していることである。

実際、日本の修養書ぐらい、不満の心理的解決法を説いているものはない。これ

が日本的修養の中心になっているといっても大げさではない。第二に、日本では

不幸や不運について消極的に我慢したり、まぎらずだけではなく、むしろ積極的

に、不幸とか悲運が、修養にとっていいことであるとか、報恩奉公にはつきもの

だとか、あるいは不足、不完全な状態が望ましく、美しくさえあるという、不足

主義、不完全主義のような心境がある。これは、自分をいためつけることに快感

をおぼえるマゾヒズムに近く、前にのべた日本的マゾヒズムのもう一つの型と考

えてよい心理である。90

こうして、日本人は不幸なときに、耐え忍ぶ心構えをしているのである。そして、南

博は不幸の心理的解決法について、
「第一は、今の境遇を、ただそのまま我慢すること、

第二には、なにかの理由を見つけてあきらめること、第三には、なぐさめになることで

きをしずめること、第四には、不幸の原因を自分自身に負わせて自責、自罰の気持ちに

なること」91と四つの対策を取上げた。古くから、日本人は我慢あるいは忍従を最高の

美徳として、教わってきたのでる。江戸時代の儒学者貝原益軒(1630-1714)

は『楽訓』で、忍従の精神を以下のように述べている。

忍はしのぶともこらえるとも読む。俗にいう堪忍することである。忍ぶべきこと

                                                       
90
  南博『日本人の心理』(岩波書店、1978年)p.60 
91
  同前 

45 
 
 

は多い。といっても、およそ怒りと欲との二つを出ない。わが身の好む酒食・音

曲・女色・財利などの私欲をこらえて、ほしいままにしないのと、みの粗末で豊

かでないのをこらえて、貧にあまんじ、苦にしないのは欲を忍ぶのである。人が

われに無情で無礼なのを、凡人はこんなものだと思いこらえて、怒りうらまぬの

は、怒りを忍ぶのである。およそ怒りと欲を忍べば、心は平らかで、気は和らぎ、

身は気楽で、人の妨げにならず、恥がなく、苦しみがなく、のちの憂いがなく、

禍がない。忍の一字から万の善が出てくる。ゆえに古い言葉に「忍は是れ衆妙(天

地万物の微妙な道理)の門」というのである。忍の理は楽しみを得るのに、大い

に役立つ92。

つまり、どのような不幸、不平なことがあっても、なにも言わずに我慢しているので

ある。こうして、タテ社会という日本では、日本人は上の命令に服従し、それを積み重

ねて、やがて忍従の習性が形成されてきたのである。

南博が言った不幸に対する解決法の二番目のあきらめることについて、芳賀綏も以下

のような説明がある。

あきらめのよさは、シカタガナイ・ヤムヲエヌの頻用にもあらわれる。難儀・苦

労が、effort などにないニュアンスをもつのは、努力してたたかいとる姿勢より

も、運命にたえて静かに笑ったりグチをこぼしたりしている姿が日本人の好みに

あうことと関係が深い。コダワリを水ニ流スというのは得意の文句で、水に流し

てアトグサレナシはりっぱな解決法とされる。93

ここからみると、日本人は理不尽な困難や不運に見舞われたり、避けられない事態に

直面したりした際に、粛々とその状況を受け入れて、口に発する慣用句は「仕方がない」

                                                       
92
  松田道雄編『貝原益軒』
(中央公論者、1983年)p.255 
93
  依田新・築島謙三編集『日本人の性格』(朝倉書店、1970年)p.148 

46 
 
 

「仕様がない」、
「やむを得ない」などである。でも日本人は不幸に遭ったとき、何もし

ないまま、あきらめるしかないということではない。

日本のドラマ「下町ロケット続編」に、農業をしている殿村氏がいる。ある日、殿村

氏と父親は大雨のため、防災準備をしている。準備を終わってから、殿村氏は父親に「そ

れから、なにかすればいい。」と訊ねた。お父さんは「あとは祈れ。これから先は運否

天賦だ。なるようにしかならねえ」と返事した。日本人は「運は天にあり」と信じてい

る。でも日本人の天命主義は、完全に努力しないことではなく、人事を尽くして天命を

待つという心構えを持つということである。ドラマには殿村家が自然災害に直面すると、

すぐあきらめることではなく、彼らは大雨に襲われる前に、できるだけ防災作業をした。

その後、何が不幸なことが起きても、それは仕方がないということであろう。南博によ

ると、日本人の「天命主義は執着のあげく絶望するのでなく、はじめから『淡白』にい

さぎよくあきらめるのである。これが自然順応の心境」94である。日本の心理学者世良

正利は『日本人の心』で日本人のあきらめの心理構造について、次のように述べている。

このように力不足によって、めざす当為の実現の見込みがなかなかたたない場合、

しかもその当為の実現を簡単にあきらめ切れない場合、行為者はいったいどうな

るでしょうか。
「あきらめ切れない心理」→「神に依拠しようとする心理」→「依

拠するものの指図に従属しようとする心理」→「自分をしりぞけねばならぬとす

る倫理・あきらめの心理」という過程を順次展開する。95

日本人のあきらめの心理は、あきらめ切れない心理から発展してくるのである。あき

らめ切れない心理から、ある当為の実現をめざして行為を行う場合、自分の力不足を補

足するため、神の存在が想定されることとなる。そして、神に依拠して、神の指図に従

い、自分否定に転化し、あきらめの心理に辿るのである。
                                                       
94
  南博『日本人の心理』(岩波書店、1978年)p.121 
95
  世良正利『日本人の心』(日本放送出版協会、1978年)p.157-176参照 

47 
 
 

こうして、人間は不幸に見舞われたとき、簡単にあきらめ切れるものではない。あき

らめの理由をつけないと済ませないのである。南博はあきらめの理由について、以下の

ように論述している。

第一には、宿命論がある。人間の幸不幸は、前世からの定めであるとか、前世の

報いだとかいって、すべて宿命のせいにすると考え方である。これは日本的な運

命論の特殊なばあいである。あきらめの理由として、第二には、人生が「堪忍世

界」であるのは元来それが「苦の世界」だからであるという考えがもちだされる。

これはおもに仏教の説くところで、人生を徹底的に「業苦」の場合であるとする。

96

南博が言ったあきらめの理由の一番目には、日本人が「運は天にあり」という考え方

を持っていることは明らかである。世界は人間の知恵の働きを超えた絶対者によって支

配されている。すべて人間の運命は、天命によって決定されているのだから、じたばた

しても仕方ないということである。このような運命観は、日本人にとって、不幸への心

理的免疫の一種として、心理的な効き目がある。世間のことに対して、運命、宿命であ

ると考えて、あきめるしかないことを常に心の中に置いておくのである。

あきらめの理由の二番目には、仏教の影響があることも否認できない。仏教の教えで

は、人生を「苦の世界」と視する。人間は病や貧しさに苦しみ、飢餓になやむ。そして

死なねばならぬことに身震いする。つまり人間は四苦八苦によって苦しめられることを

認めなければいけない。市橋善之助は『忍苦と慈悲と諦念』で、人生を苦と覚悟してし

まう厭世観があきらめの心理的根拠になることについて、以下のように述べている。

厭世的な人生観なればこそ、社会の平和を与へるあきらめの念も生まれ、むごい

                                                       
96
  南博『日本人の心理』(岩波書店、1978年)p.63参照 

48 
 
 

姑にかかってゐる嫁をも辛棒させるのである。97

このように、人生を「苦の世界」とみるというあきらめ教育は、仏教からの民衆教化の

一つになるのである。苦の世界に生きることは、思うようにならないことがいっぱいで、

またいつ終わるか知らない苦役をしているようなものである。そう覚悟してしまえたら、

どのような不幸、不運に見舞われるときにも、あきらめの心構えが生じるのである。

日本の言葉に「すべなし」という語がある。それは『万葉集』を理解する場合に見落

としてはならない言葉であると相良亨が指摘している。また、相良はこの言葉に、
「あ

る事を解決する方法がないという意味に用いられることもあるが、人生そのもの、
『う

つそみ』そのものを、本質的に『すべなし』と捉えるものもある」98と説いている。つ

まり、人生とは、すべないものであり、人間の思い通りにはならないということである。

こうして、人間がこのことを知ったとき、あきらめという心情が出てくるのであろう。

というと、何かあったとき、予め断念を組み入れて、先駆的にあきらめの段取りをとる

のである。そして、相良亨はあきらめの意味について、
「願望することがみたされない

」99と説いている。このように、どうにもな
時に、願望することを放棄することである。

らない事を受入れるとき、あきらめるしかない。

こうして、日本人は普段から、何事も運命、宿命であると考えてあきらめの心構えを

を持っている。日本の歌には、運命が辛く、暗く、悲しいものだと歌われるものがよく

見られる。

また齋藤緑雨の短編小説「あま蛙」の序に、
「咲いた花なら散らねばならぬ、醉ふた

酒なら醒めねばならぬ、逢ふた中なら別れにやならぬ。花は桜木散るほど咲くな」100と

ある内容から、日本的なあきらめが見受けられる。人生は無常転変のものである。日本

                                                       
97
  市橋善之助『忍苦と慈悲と諦念』(葛城書店、1944年)p.51 
98
  相良亨『日本人論』(ぺりかん社、1992年)p.127 
99
  相良亨『死生観 国学』(ぺりかん社、1994年)p.34 
100
  齋藤緑雨『齋藤緑雨集』
(筑摩書房、1966年)p.423 

49 
 
 

人にとって、このあきらめの心構えが無期の苦労を重ねる日常生活を生きていく中で、

強い支えの一つとなっているのである。

第三節 運命観に基づいた日本人の美意識

日本人は自然を愛しながら、自然からもたらした災害も恐れている。四季の変化を通

して、日本人は豊かな感受性を培うと共に、その精神生活も豊富になってくる。一方、

台風、地震、津波などの災害も絶えず日本を襲うため、日本人は自然に対して、畏怖の

心を持っている。寺田寅彦が言ったように、自然は母親の慈愛のように、日本人に恵み

を与えながらも、父親の厳罰のように災害をももたらす。そのため、自然と調和しよう

とする日本人は自然のすべてを受け止めている。こうして、日本人はどのような苦難が

あっても、どのような不幸なことに遇っても、耐えて我慢する。不幸を忍ぶのが日本人

の一種の美徳でもある。さっぱりとあきらめは日本人にとって、自然への順応にほかな

らない。

日本では修養として、
「足るを知って分に安んずる」という言葉がある。望むところ、

欲するところが少なければ、満足も容易に得られるということである。また自分の置か

れている状況に満足するのは不満を持たないということである。知足安分の心というの

は、自分の境遇に満足、感謝して、それを与えている自分の「分」を肯定することであ

る。南博は「知足安楽の思想から一歩進んだところには、すべてものごとの不足それ自

身に価値を見る『不足主義』の心理が生まれる。それは、不十分さ、不満足さが、十分

さ、満足さよりも高い価値をもつと見る態度で、日本人に独特な心理である。」101と述

べている。

                                                       
101
  南博『日本人の心理』(岩波書店、1978年)p.94 

50 
 
 

東京のあるホテルに都の指定有形文化財「百段階段」がある。それは 1935 年(昭

和 10 年)に建てられ、現存する唯一の木造建築の「百段階段」である。この「百段階

段」は実は 99 段であと一段足さずに 99 段で止めているのである。ニッポン放送の記

事によると、「百段階段」を名づける理由は、縁起担ぎのためだと言われている。

(1)「奇数は陽数、縁起の良い数だから」説:縁起の良い奇数のなかで、これ以上

ない大きな数字を2つ重ねて99段となった。

(2)「未完の美学、完璧な数字より発展性のある数字に」説:完璧な状態は長く続

かないという考えから、あえて 1 つ数字を引いて、まだ良くなる余地を残し 9

9 段にした。102

そのような未完の美は、清少納言の「月は、有明の、東の山際に、細くて出づる

ほど、いとあはれなり」103、また兼好の「螺鈿の軸は貝落ちて後こそ、いみじけれ」104

という言葉からも、深く感じられるのである。

多くの日本人が同感しているのは兼好の「花はさかりに、月はくまなきをのみ、見る

」105という言葉である。古来より、日本人は満月よりも三日月や欠けた月の
ものかは。

ほうが好きである。そこには、はかない美しさを見いだしたのである。侘び茶を大成し

た千利休と師匠武野紹鴎のあいだには、次のような逸話がある。紹鴎は利休の才を試

そうと思い、庭の掃除を命じた。利休が庭に行ってみると、茶室の前は完璧な掃除が行

き届いて、塵一つも落ちていない。利休は戸惑ったが、意を決して新緑が滴る林に入り、

庭の木を揺らした。すると落ち葉が風に舞い、片々と地に落ち、さらに一段の風趣を添

えた。紹鴎はこれを見て、利休の才能を感じ、茶の湯の秘訣を熱心に授けたという。利

                                                       
102
  ニッポン放送の記事「東京都指定有形文化財・百段階段に百段目は…ない」
http://www.1242.com/lf/articles/144210/?cat=life&feat=%e3%81%97%e3%82%83%e3%83%9
9%e3%83%ab%e7%b7%a8%e9%9b%86%e9%83%a8(2019/3/24にアクセス) 
103
  萩谷朴校注『枕草子 下』(新潮社、2000)p.151 
104
  木藤才蔵校注『徒然草』(新潮社、2002)p.100 
105
  前掲書 p.153 

51 
 
 

休にとって、塵一つもない庭が完璧ではなく、落ち葉が少々散っているほうがいいので

ある。これが不完全だからよいとの意味である。
『徒然草』には、
「すべて何も皆、事の

ととのほりたるは、あしき事なり。しのこしたるを、さて打ち置きたるは、おもしろく、

」106とある内容からも同じ趣旨が見られる。すなわち、何事も完
生き延ぶるわざなり。

璧に仕上げるのは必ずしも良いとは限らない。手を付けていない部分をありのままにし

ておくほうが、かえって、面白くて、無限の可能性を見いだすことができるのである。

日本人の美意識には、このような不足の美、未完の美は決して見逃してならないキー

ワードの一つである。岡倉天心は名著『茶の本』の中で、
「真の美はただ『不完全』を

」107と説いている。例えば、日本の庭
心の中に完成する人によってのみ見いだされる。

園造りには、よく見られる枯山水がある。枯山水の美は見る人が水を感じることで心の

中で完成することにある。また世阿弥は能楽理論書『風姿花伝』の中で、「秘すれば花

なり、秘せずば花なるべからず」108という名言もある。能を見る観客にふと予想外のこ

とを見せると、観客が驚き、感動する。枯山水の庭園にしても、能劇にしても、いずれ

も不足の美が見いだせる。目に見えるものが全部ではなく、大切なものは目に見えない

ところにある。本当の美しさは心の中に余白を残すことで完成するのである。

長谷川如是閑は『日本的性格』で、不完全の美意識について、以下のように述べてい

る。

日本人の美的感覚は、ギリシャ的の典雅の一面をもつにかかわらず、日本人はギ

リシャ的の理想的のシンメトリカルの美や、同じく理想的の完全美よりは、自然

ディスシンメトリー インコンプリートネス
的の、 不 相 称 に美を求め、自然的の 不 完 全 に美を求める傾向がある。109

                                                       
106
  木藤才蔵校注『徒然草』
(新潮社、2002)p.101 
107
  岡倉覚三著、村岡 博訳『茶の本』(岩波書店、1996)p.60 
108
  田中裕校注『世阿弥芸術論集』
(新潮社、2002)p.92 
109
  長谷川如是閑『長谷川如是閑選集 第五巻』(栗田出版会、1970)p.90 

52 
 
 

西洋美は、完璧なものへの要求が強くて、いわば完全美なのである。日本文化は、西

洋文化のように、シンメトリーで、完璧を追及する心構えとは全く異なっている。不足、

余白を重要視する美学というのは日本人の美意識の特徴である。多彩な色彩なしで墨一

色に全てをかけた水墨画や、派手な動きを極度に抑えた能の舞台から、古くから、その

ような不足、余白の美意識が日本人の心の中にある。芭蕉の言葉には、
「いひおほせて

何かある」という句がある。これは芭蕉の俳句の真髄をあらわした言葉である。全てを

言ってしまったら、何も残らないのではないか。全てを言い尽くさず想像の余地があっ

てこそ、余韻・余情が生まれ、作品の味・魅力となるのである。日本の俳諧は 17 文字

の言葉で表現するものである。表現された言葉の後ろには、多くの言葉にならない沈黙

がある。俳諧はそれらの言葉にならない思いを醸成するものである。読者が余情を楽し

めるように、言葉少なめに、言い過ぎないことが肝要である。古来日本人は、言語、文

芸などにおいて、余情を大切にした。余情は、何も書かれていない余白から生まれる。

本来提示されるべき情報が欠落している、またこの空白や間をとりわけ重んじるのが日

本文化である。

日本の茶道は不足の美が一番表現できるものだといわれている。茶道の美を表現する

専門用語としては「侘」があげられる。村田珠光以降、千利休が完成させた茶の湯は侘

び茶という。岡倉天心によると、
「茶道の要義は『不完全なもの』を崇拝するにある。

110
と説いている。つまり、茶道は不完全な美を追求するものである。茶の美学というの

は、不完全美である。久松真一は、
『わびの茶道』で、茶道の美について、以下のよう

に論述している。

茶道の美は、侘的の美であるところにその特色があるのであります。侘の美は、

しっとり落着いた、寂かな清らかな美しさであります。うきうきしたさわがしい

                                                       
110
  岡倉覚三著、村岡博訳『茶の本』(岩波書店、1996)p.21 

53 
 
 

派手な美ではありません。むしろそういう美の否定の美しさであります。111

久松によると、
「侘の美は栄華や華麗の美の批判と、否定から成り立ったものである」

112
と述べている。つまり、真の茶の美は完全への否定美ということである。また久松真

一は侘びの美の特徴として、「不均斉」、
「簡素」
「枯高」
「自然」
「幽玄」
「脱俗」
「静寂」

七つの性格を取り上げた。さらに不均斉について、同氏は以下のように論述している。

不均斉とは釣合いのとれていないことである。そのことについて一番手取り早く

わかるのは、たとえば茶道で使う茶碗というものをとってみると、茶碗は無論均

斉のとれたものも沢山ある。しかし茶道の茶碗として真にふさわしいものには、

均斉のとれていないものが多い。崩れた形をして左右がいびつであったり、いわ

ゆるシンメトリーでない、あるいは表面が凹凸していたり高台が歪んでおったり、

釉が完全にかかっておらなかったりする。しかしかえってそこに均斉のとれた形

の正しいものより面白味があり味わいどころがある。
(中略)この不均斉は、別の

言葉でいい換えれば「数寄」ということにもなる。或は解釈によると数寄の奇と

いう字は、奇数の奇であるともせられる。奇数は割り切れない半端である。つま

り不均斉である。茶道は数でいえば偶数でなく奇数である。113 

ここから見ると、日本の茶道は円満の円を好まない。形が崩れて面白味のあるという

円のほうがすきだ。このような不完全美について、武野紹鴎と千利休の一つの逸話か

らも見られる。ある時、とある茶会に招かれて武野紹鴎や千利休らが同道した。それ

の道すがら、ある店先で紹鴎はなかなか面白い花入を見つけたが、同道の人もある

ので何も言わず、「明日にてもその花入を手に入れて、それで茶事を催そう」と思

                                                       
111
  久松真一『わびの茶道』
(燈影舎、1994)p.15 
112
  同前 
113
  前掲書 p.61 

54 
 
 

っていた。翌日、求めに行かせてみると、その花入はすでに売れてしまった。紹鴎

が残念至極と思っていると、利休から「花入を手に求めましたので、お目にかけた

く存じます」と茶会の招きがあった。「あの花入であろう」と苦笑して茶会に訪れ

た紹鴎は、茶席でその花入を見るや、手を打ってしばし佇み、こう語った。「利休

が、耳付のこの花入の片耳を打ち欠いて出すとは…。実は私も昨日、この花入を見

た時から、あまりに完璧すぎるので片耳を打ち欠いて茶席に用いようと思っていた。

中立で利休が席を外した時に打ち欠こうと思って、金槌も懐に用意してきていたの

だ」。紹鴎が感嘆していた。

紹鴎と利休はこの耳付きの完全美を持っている花入に対して、むしろすこしの崩れ

た不完全美のほうが茶の湯に相応しいと思ったのである。つまり、二人の心には、

完全美の中に潜む不完全美の面白さの可能性を見抜いたという美意識があったの

ではないか。茶の湯の美意識で、このような優れた感覚はどのような思想に由来す

るものであろうか。それは侘茶の始祖村田珠光の美意識から窺える。侘茶の道を開

いたとされるのは村田珠光である。彼は禅僧の一休宗純の親友で、禅の影響を受け

て、新しい喫茶の方式を創始し、独自の茶境を開いた。禅では、「本来無一物」と

いう考えがある。事物は全て空であるから、執着すべきものはない。つまり、世界の

本質は「無」というものである。富貴と貧賤、満足と不足などもすべて相対的なも

のであり、それを超えたところに求めるべき境地があるという発想がある。久松真

一は無一物について、以下のように論述している。

侘茶の主体の無一物的性格に帰するであろう。この無一物は、ただ貧乏で物を

もたないとか、下賤で身分がないとかいうような、物持の富有や、位階持ちの

高貴の単なる否定ではなくして、かえってその否定において自覚され新しい肯

定的、積極的無一物である。すなわち無一物が、富貴の単なる否定である貧賤

としての普通の否定的、消極的無一物から、新しい肯定的積極的無一物に翻転

55 
 
 

して、無一物が富有や高貴よりもかえって価値があり、存在性があると自覚さ

れてきたところに、侘茶における侘の誕生があるのである。 114

こうして、無一物が、従来の美しさとされているものを否定して、そして新しい

美を与えることによって生まれる性格である。例えば、茶器のひずみは均斉の否定

として、侘の美が性格づけられるのである。室町時代に茶会を行うとき、端正で左

右対称の形態をもつ中国からの花器や茶碗を使用することは流行っていた。これに

対し、珠光は唐物趣味を基調としつつも、その完璧な美しさを求めず、つくろいの跡

があり、形もいくらか歪みのある茶器のような、いわば、欠陥品的唐物の美を愛好した。

このように、珠光はそれまでの唐物中心の茶器に対して、和物の粗末な茶器も良しとす

る考えが生まれた。珠光はまた、
「月も雲間のなきは、嫌にて候」と語って、雲間が

くれの月に象徴される不完全の美、粗相の美に心を寄せていた。これは彼が完全円

満な肯定的な美よりも、不完全な否定的な美をより一層重んじていたことを示すも

のである。このような不足の美を楽しむ心に珠光の創造した侘茶の主張があった。

このような美意識は、兼好の『徒然草』の「花はさかりに、月はくまなきをのみ、見

」115という言葉と同様である。
るものかは。

その後、武野紹鷗は侘茶をさらに深めた。紹鷗は、当時国際的な商業都市として繁栄

をきわめあた堺の有力な町衆だった。若いごろ、連歌師を志して三条西実隆に歌学を学

んだ。紹鷗は円満ではなく不足の中に美を見いだそうという連歌や和歌の美意識を茶の

湯に取り入れた。紹鷗の侘茶の精神が『新古今集』の中にある藤原定家の和歌から見ら

れる。

                                                       
114
  久松真一『わびの茶道』
(燈影舎、1994)p.51-52 
115
  木藤才蔵校注『徒然草』
(新潮社、2002)p.153 

56 
 
 

見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮116。 秋歌上・363

見渡してみると、春の美しい花も秋の紅葉もないことよ。海辺の苫ぶきの粗末な小屋

のあたりの秋の夕暮れよ。紹鴎は「花」「紅葉」の枯れた、ひっそりとした秋の夕暮れ

の景色の中に「侘の美」を見たのである。華やかに咲いていた花や紅葉も散ってしまい、

これから寂しい枯れ木の季節を迎えようとする澄みきった世界を茶の湯の精神と考え

たのである。

これに対して、侘び茶の完成者利休は「侘び」の心を、藤原家隆の「花をのみ待らん

人に山里の雪間の草の春を見せばや」117という歌に託した。利休は、雪の間から芽を出

す草に「侘びの美」を見たのである。咲き誇る花の景色ではなく、白雪に覆われた銀世

界の中で、若草が深い雪の下から萌え出ようとして、春を待って耐えている姿を重んじ

る。利休の侘び茶には、命の芽生えの美しさが見える。満開の花々よりも、春遠からぬ

冬景色に新しい活動力を秘めた自然の力強さのような「不完全に見える景色」にこそ、

真の美しさを発見するという発想がそこにはある。こうして、目に直接見る美しさでは

なく、その景色の中に美的な境地、心の充分を探ろうとする精神を持って、見ることの

できる美しさが利休の侘びであることが言えるだろう。

室町時代に始った茶の湯は珠光から、紹鷗に継承され、利休によって大成され、侘び

茶という独特の美意識が形成された。侘び茶から発生した美意識は日本の建築、庭園、

衣服、陶芸、絵画といった類いの日本文化の隅々にいたるまで、深い影響が及んでいた

ことはいうまでもない。日本人の心には不完全なものを愛する気持ちが存する。前述に

も述べたように、多くの日本人が兼好の「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものか

」118という言葉への共感を持っている。こうした、いまだ満ちていないもの、完璧
は。

                                                       
116
  峯村文人校注『新古今和歌集』
(小学館、2003)p.117 
117
  久保田淳・山口明穂校注『六百番歌合』(岩波書店、1998)p.22 
118
  木藤才蔵校注『徒然草』
(新潮社、2002)p.153 

57 
 
 

でないものに対する美意識は古くから、現代に至るまでも日本人に共通してみられるも

のである。

結語

日本列島は地理、気候などによって、豊かな自然を持っていると同時に、自然からも

たらされる災害も多い。巨大地震や津波、火山、台風、洪水などの自然災害は絶えず日

本を見舞い続けている。このような日本列島で暮らしてきた日本人は古くから自然災害

によって、大切な家族、土地などを失った経験を持っている。それによって、日本人は

世間には、永遠な不変、安定などといったことを信じない傾向がある。また、日本人は

仏教の諸行無常、万物流転などの説を受容して、無常観が日本人の精神生活の深部にま

で浸透している。それゆえ、日本人は常に自然災害に襲われても、冷静で前向きな姿勢

を保っているのである。それは2011年東日本大震災の時に、日本ではパニックや略

奪などがほとんど起きなかったことからも裏付けられる。

日本の地理的位置に由来するその風土によって、自然災害が多い日本列島で生を営ん

でいる日本人には、災害に対して、彼らは秩序を失わずに冷静に対応をして、忍耐力を

持って、どのような不幸な出来事があっても、不満を言わずに粛々と対処する。そのよ

うな行動から、日本人の独特な淡泊な国民性が見られる。困難や不運に見舞われるとき、

日本人によって多用された言葉は「仕方がない」
「やむを得ない」などである。しかし、

日本人は不幸に直面するとき、何もしないまま、あきらめるしかないということではな

い。
「運を天にまかす」のように、どのようなことに対しても、人事を尽くして天命を

待つという心構えを持っている。日本人は普段から、何事も運命であると考えて、あき

らめの思いをを持っている。

日本人は自然を思慕するとともに、自然の力も畏敬する。自然から与えてくれる恵み

と災害を受け入れる。日本人は自然から、繊細な季節感と美しい自然の受容の心をもつ

58 
 
 

ようになった。それに対して、日本人は自然の変化には、はかなさ、うつろいを感じ、

人生の無常感を抱くようになる。自然は無常なものである。人生も無常転変のものにほ

かならない。新しいものは古くなる。形あるものは滅びる。これは自然の決まりである。

こうして、自然に従順かつ受容的態度を有することによって、日本人は無常感の世界の

美意識を孕んできた。吉田兼好は『徒然草』の中で、巻物の軸は、ほどこした螺鈿の貝

が落ちたところに風情があると言っている。また彼は花として咲き誇る満開の花だけを、

月として少しのかげりもなく輝いている月だけを、すばらしいものだと見るのではなく、

こよなく不完全な美を愛した。

こうして、日本人にとって、月の最高の美しさは、輝く満月に求めるのではなく、少々

欠けた月や雲間の月には風情があるというのである。この美意識では、自然のまま歪み

や、いびつ、非均衡な形が好まれている。あまりに完璧なものは良いが、完璧すぎると

逆に情緒に欠ける。日本の茶道では不完全なもの、歪んだもの、傷のあるものに、美し

さを見いだすところがある。そこで求められる美は不完全な美とされる。不完全性によ

る完全性を想像し、期待する美意識を込めている。こうした日本文化の中で、そのよう

な不完全さを受け入れ、そこに美しさを感じる心を持っているのでる。

59 
 
 

第三章 武士道とその周辺
 
序 

ハリウッド映画「ラスト・サムライ」という映画には、武士勝元は「人も桜も、いつ

かは散る。吐息の一つ一つにも、茶の湯の一杯にも、一人の敵にも、命が宿っている。

それを忘れてはならない。それが武士道だ。」と言った。そのセリフを聞いた日本人は

必ず胸を打たれたのであろう。日本の代表的な精神文化といえば、よくあげられるのは

武士道である。日本中世に、鎌倉幕府から徳川幕府の終焉に至るまで、約700年間に

亘って、武士階級は政権を掌握していた。こうした武家政治の時代に、武士は元来の戦

闘者から、貴族に代わって、政治上の統治者となった。この間、武士への気構えと行動

を規定する武士道も時代とともに生まれてきた。そして武士道も時代とともに変遷して

いった。それにもかかわらず、武士が日本の歴史上に登場して以来、どの時代において、

武士にとって、死に対する覚悟は逃れない課題である。 

新渡戸稲造氏は『武士道』において、
「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の

土地に固有の花である。
」119と述べている。咲いてすぐに散る桜は武士の生き方の象徴

とされる。桜が一番きれいなときは満開ではなく、満開の後に一瞬に風とともに散りは

じめる時である。武士は自分の生きる意義が桜のように、満開して落ちることに憧れる

のである。 

江戸時代に入って、日本の社会は内戦も対外戦争もない平和な状態が 200 年以上も続

いた。こうして、戦のない天下泰平の世の中で、統治階級としての武士のあり方を追求

した武士道精神は武士階級にとどまるものではなく、広く庶民の世界へも浸透した。武

士道精神がいまだに日本人に深い影響を与えることは否定できない。この章では、まず

武士の発生を論述して、そして武士道はいつ、どのように発生したのか、また武士が死

                                                       
119
  新渡戸稲造『新渡戸稲造全集 第一巻』(教文館、2001)p.29 

60 
 
 

に対する心構えを究明する。最後に武士の死生観にどのような美意識があるのかを検討

する。

第一節 武士の誕生

日本の中世は、戦乱に満ちた時代である。平泉澄は「上代は公家の世界であり、而し

て中世は武家の天下である」120と中世という時代を位置づけている。そこで、この時代

も武士の時代と称せられる。日本の中世から近世末期にかけて、約700年という長き

に亘って、武士は政治の実権を握っていたのである。鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府と、

この三つの武家政権が起こり、また時代の変遷に伴って、次々と滅びていった。しかし、

武士は中世にいきなりその姿を現したのではない。では、武士階級はどうのように発生

したのであろうか。

まず、武士という言葉の語義を見てみよう。武士とは、
「武芸をおさめ戦闘にたずさ

わった者、またはその身分。」121を指すものである。またもののふ、つわもの、さむら

いとも称した。もののふは、聖徳太子の頃の豪族である物部氏族の「もののべ」を語源

として、ものは武器を指し示すものである。つまり、氏族に属し朝廷の警護等にかかわ

る武人・兵士である。つわものも、元々は武器の総称であったが、後には兵器を扱う者、

または武器を操ることに習熟した者、つまり兵士という意味を指し、転じて勇敢な者の

意味にも用いられるようになった。さむらいは、もとは主君や主家のそば近くに仕える

者である。そば近くに仕えるという意味の「さぶらう」からきた言葉である。平安時代

後半に、武士として貴族に近侍する者が多くなり、侍は武士を意味するようになった。

以上のような名称の変遷から、武士階級の形成の歴史的流れを見いだすことができる。

『詳説日本史研究』には、武士の形成について、以下のように書いてある。
                                                       
120
  平泉澄『中世に於ける精神生活』(至文堂、1926)p.4 
121
  坂井宏先発行『総合百科事典ポプラディア』(ポプラ社、2002)p.46 

61 
 
 

10世紀に政治が大きく変質してゆくなかで、二つの大きな流れが生まれた。一

つは、地方の各地に成長した豪族や有力農民が、勢力を拡大するために武装し、

弓矢をもち、馬に乗って戦うようになったことである。彼らは兵と呼ばれ、家子

といわれる一族や郎党などの従者を率いて互いに戦いを繰り返し、時には国司に

反抗した。もう一つは畿内近国に成長した豪族が、朝廷の武官となり、貴族に武

芸をもって仕えるようになったことである。彼らも兵や武士と呼ばれ、滝口の武

士のように宮中の警備にあたったり、貴族の身辺や都の市中の警護にあたった。

この二つの流れは相互の交流を経ながら、各地に一族の結びつきを中心にした連

合体である武士団をつくった。とくに辺境の地方では、旧来の大豪族や、任期終

了後もそのまま任地に土着した国司の子孫などが多く、彼らを中心に大きな武士

団が生長し始めた。そのなかでも関東地方は良馬を産したところから武士団の生

長が著しかった。122

ここからみると、武士の起源の一つは在地領主から発展してきたと思われる。在地領

主の出現は当時発展してきた荘園制度と深く関わっていた。743年(天平15)に配

布された「墾田永年私財法」123によって、上流貴族・大寺院は墾田を進め、また地方豪

族も大いに開墾につとめ、このようにして、全国に荘園が広がっていった。こうして、

地方には、荘園領主や有力農民が急増し、自分が作り上げた荘園を保護するため、部下

を武装させるようになった。こうした平安時代の荘園制度の構成について、石母田正は

以下のように述べている。

在家は領主から屋敷及び園地を給與され、領主に徭役を提供することを目的とす

る人身的隷属関係の強い隷農であるということが出来るのであって、その形態上
                                                       
  五味文彦・高埜利彦・鳥海靖編『詳説日本史研究』
122
(山川出版社、2002)p.115 
  奈良時代中期の聖武天皇の治世に、天平 15 年 5 月 27 日(743 年 6 月 23 日)に発布された勅
123

で、墾田の永年私財化を認める法令である。古くは墾田永世私有法と呼称した。荘園発生の基礎
となった法令である。 

62 
 
 

の特質は人間と屋敷と園地と切離せない統一體をなしていることにあると思う。

(中略)在家は土地と並んで中世領主の最も普通な基本的な所領の構成要素であ

ったが、しかしそれは中世に固有なものでなくして、平安時代における地方領主

制の基本的構成の特質をもなしていることに注意せねばならない。第一章に述べ

た如く、貞觀時代の名張郡の領主藤原倫滋は祖母から田畠一町と「在家、苧桑、

所從、牛」等を譲與されて移住して来たことは、平安時代の在地領主の構造が田

畠、所從、在家の三要素から成り、本質的には中世領主制と何等異ならない構成

をとっていたことを示している。124

以上の内容によると、当時の荘園の仕組みは領主、田畠、所從、在家によって構築さ

れるのである。これは中世以降の社会には、将軍、領地、御家人、百姓という重層的構

成を想起させられるのであろう。中世の封建制の成立には、竹内理三は「平安時代も末

期になると、領主の在家支配が一般化した。これが日本の封建制の起源であるとさえ言

われている」125と述べている。さらに、同氏も武士と荘園の発展について、下記のよう

に論じている。

将門の乱ころから顔を出した兵は、それから一世紀半をへた後三年の役にははっ

きりと武士団に成長してきた。兵の社会経済的な実体は、ここにいう私営田領主

とよばれるものであり、その変貌をみきわめることが武士団の内容を理解するカ

ギである。126

このように平安時代の荘園の変容と共に、武士も徐々に発展してきたのである。

前にも述べたように、侍というのは、武士を代表する名詞の一つである。この言葉は

武芸をもって貴族や武家に仕えた従者を指すという。高橋昌明は武士の起源について、
                                                       
124
  石母田正『中世的世界の形成』
(東京大学出版会、1981)p.75 
125
  竹内理三『武士の登場』
(中央公論社、1982)p.102 
126
  前掲書p.99 

63 
 
 

以下のように述べている。

武士は、王側近の武力からうまれ、主に都と辺境に配置され、必要に応じて諸国

に派遣された。武官系武士を生み出す衛府(ことに近衛府)は、まさに天皇直結

の官庁であった。しかも、特殊な技術や知識を専修するウヂ(家)
、つまり芸能を

家業とする家は、まず中央の下級貴族・官人層から発生する。中世につながる武

士が、典型的に下級貴族の一類型として、また武官系武士の武芸と伝統を継承す

る形でしか出発し得なかったゆえんである。127

つまり、初期の武士は、京都では武芸を売りに、五衛府を中心とした武官、宇多朝に

創設された滝口の武者や、検非違使となり、天皇・貴族の警衛や犯罪の取締にあたる者

である。こうして、武士は中央と地方で多方面にわたって活躍して、成長してきたので

ある。これも武士の起源の一つと思われる。

当時の武士の具体的な例をみると、平将門、藤原純友という人が挙げられる。
『平家

物語』開巻第一の「祇園精舎」で、以下の内容が書いてある。

たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前と塵に同じ。遠く異調をとぶらへば、秦

の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にもしたがはず、

楽しみをきはめ、諌をも思ひいれず、天下の乱れむ事をさとらずして、民間の愁

ふる所を知らざッしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をう

かがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、此等はおごれる

心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、(後略)。128

この段に、中国の武人の例を「たけき者」の代表として挙げた。そして、日本の代表

には、「承平の将門、天慶の純友」の例が取上げられた。つまり、将門と純友は日本の
                                                       
127
  高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』(東京大学出版会、2000)p.167 
128
  市古貞次訳『平家物語①』(小学館、2003)p.19 

64 
 
 

「たけき者」のシンボルだといえよう。

平将門は桓武平氏の出で、関東に土着した豪族の一人である。935(承平5)年こ

ろから、彼は一族と私闘をくりかえすうちに、国司に反抗していた豪族と手をむすび、

939(天慶2)年についに反乱を起こした。将門は常陸・下野・上野の国府を攻めおと

し、新王と称するにいたったが、やがて同じ関東の武士の平貞盛・藤原秀郷らによって、

940(天慶3)年に平定された。これは関東で起きた「平将門の乱」である。また、ほ

ぼ同じ時期に、関西の瀬戸内海では、
「藤原純友の乱」も起こった。承平天慶の頃、瀬

戸内海では海賊による被害が頻発していた。伊予掾をつとめた藤原純友が海賊追捕に加

わった。そして、伊予国大介紀淑人を長とする海賊追捕の作戦は一応の成功を収め、魁

帥の三十余人が投降した。ところが、939(天慶2)年に純友が伊予国の海賊を率いて、

摂津国で備前介・播磨介を襲撃した。その後も、伊予・讃岐・阿波の諸国が襲われ、国

府が炎上した。更に大宰府の虜掠など反乱を続いた。朝廷は純友追討のために小野好古、

源経基を追捕使長官として兵を派遣した。941(天慶4)年に純友は小野好古によって

博多津で撃破された後、伊予に逃れたが、同年 6 月、伊予警固使橘遠保に捕らえられ殺

された。日本史上、平将門と藤原純友によって引き起こされたこの二つの乱を合わせて、

「承平天慶の乱」と呼ばれている。

ここで注意を喚起しておきたいのは、承平天慶の乱を鎮圧したのが朝廷の軍隊ではな

く、押領使や追捕使に任命された地方武士だということである。これによって古代天皇

制の衰退が明らかに示された。また「乱を鎮圧した勝者たちやその子孫は、以後諸国の

受領や鎮守府将軍などを歴任し、中央では検非違使・衛府・馬寮の官人として、武力が

必要とされる国家的な大事件に動員される『都の武者』となった。経基や貞盛を祖とす

る源平両氏のような武門の家柄を生み出したことも、承平・天慶の乱の帰結」129である

といえる。

                                                       
129
  宮地正人編『日本史』(山川出版社、2008)p.109 

65 
 
 

こうして朝廷は地方武士の力を積極的に頼るようになってきた。平将門の乱を平定し

た貞盛は右馬助に昇進して上京し、やがて丹波、陸奥守を歴任した。貞盛は桓武天皇の

曽孫にあたり平姓を賜った高望の孫であった。貞盛の子孫は伊勢国に土着し、伊勢平氏

一門が登場するのである。一方、同じ承平・天慶の乱に手柄を立てた経基は清和天皇の

第六皇子貞純親王の子で、源氏を賜って、清和源氏の初代であった。経基の子である満

仲は摂津守となって、摂津に土着した。源平両氏は皇族出身であることから、武士の中

でもとくに尊敬され、武士の棟梁と仰がれ、だんだんと大きな武士団を形成した。

下向井龍彦は『武士成長と院政』に「平忠常の乱、前九年の役、後三年の役、十一世

紀に起こったこの三つの反乱の鎮圧と通して、頼信・頼義・義家の河内源氏三代は、王

朝国家の軍事指揮権媒介に東国武士との間に軍事的主従制を形成して王朝国家の軍事

指揮官の地位を獲得し、『武家の棟梁』と仰がれるようになった。」130と述べている。

このように、源氏は平忠常の乱、前九年の役、後三年の役の鎮定を通じて、東国に勢力

を伸張するようになった。これに対し、平氏正盛は白河法皇にとりいて、院庁に登用さ

れ、北面の武士となり、その子忠盛は鳥羽上皇にとりいて、ついに武士としてはじめて

の公卿に列せられた。さらに忠盛は、西国の国司を歴任し、瀬戸内海の海賊を征服して、

これを配下に従え、西国一帯にその勢力を植えつけた。

周知のとおり、平安時代後期、およそ百年間の政治の特徴は、それまでの摂関政治に

かわって、上皇が実権をにぎる院政がはじまったことである。「院政とは、言うまでも

なく天皇が譲位されて後なお太上天皇として万機を決裁されることをいい、普通平安時

代末期から鎌倉時代初期にかけて、白河・鳥羽・後白河三院の行われた院政をさし、自

然この時代を院政時代とも称している」131ということである。この時期に、皇室内部の

対立、摂関家の内紛があって、ついに「保元の乱」が起こった。1156(保元1)年

に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷では、崇徳上皇方と後白河天皇方の間に政
                                                       
130
  下向井龍彦『武士成長と院政』
(講談社、2001)p.152 
131
  吉村茂樹『院政』
(至文堂、1966)p.1  

66 
 
 

権争いが勃発した。崇徳上皇は忠実、頼長と、後白河天皇は忠通と組んで争っていた。

保元の乱の結果は後白河天皇方の圧勝に終わったが、実際に戦ったのが武士たちである。

勝利を収めた武士の代表が平清盛、源義朝であった。武士は歴史の表舞台で活躍し、大

きな役割を果たすようになったことは、保元の乱である。慈円の『愚管抄』には、保元

の乱について、以下のように記されている。

保元元年七月二日、鳥羽院ウセサセ給テ後、日本国ノ亂逆ト云コトハヲコリテ後、

ムサノ世ニナリニケルナリ。コノ次第ノコトハリヲ、コレハセンニ思テカキヲキ

侍ナリ。132

慈円が言ったように、保元の乱は武者の世が始まったといえる。保元の乱後、平清盛

は後白河天皇に信任のあつい藤原通憲と結んで勢いを伸ばし、源義朝を圧倒した。これ

に対して義朝は後白河天皇の側近の藤原信頼と組んで、1159(平治1)年に兵をあ

げたが、清盛に敗れた。これは「平治の乱」という。この乱の結果は、源氏の勢力は中

央政界から追放され、ひとり平氏だけが栄えるようになった。こうして、保元・平治の

2乱は、政治の舞台からの公家の後退と、新興武家の登場という日本の政治史の上でも

大きな転換の契機となったのである。

平治の乱後、平清盛をリーダーとする平氏は朝廷で勢力を伸ばし、武士集団としては

じめて政権を掌握した。清盛は太政大臣に昇り、平家の一族も朝廷の重要な役職を独占

した。また娘の徳子が高倉天皇の中宮になり、所生の皇子が安徳天皇となるなど、姻戚

関係により朝廷ともむすびついた。しかし、平氏は武士の出身でありながら、完全に貴

族化して武士らしさを失ってしまったため、武士の間に平氏政権への不満が高まりつつ

ある。さらに清盛が権勢にまかせて反対勢力を圧迫したことは、政権を奪われた貴族や

寺社などの旧勢力の反感をつのらせた。1180(治承4)年、源頼政は後白河天皇の

                                                       
132
  岡見正雄・赤松俊秀校注『愚管抄』(岩波書店、1967)p.206 

67 
 
 

皇子以仁王の命令を奉じ、平氏追討の兵をあげた。この挙兵は平氏によって破られ、失

敗に終わったが、平氏追討の発火点となり、以仁王の命令を受けた諸国にひそむ源氏の

決起を促すことになった。その後頼朝の挙兵、義仲の上京(入京、都へなだれ込み)、

義経らの速攻に、平氏も都を追われた。源氏の軍は1185(文治1)年に、ついに壇

ノ浦の戦いで、平氏を全滅させた。その後、平氏を滅ぼした頼朝は鎌倉を本拠に、独自

の武家政権をはじめたのである。

 
第二節 武士道と死の覚悟

1192年(建久三年)に源頼朝が征夷大将軍に任命されて、鎌倉幕府を開いた。こ

れ以降、徳川幕府が終焉を告げた1867年(慶応2年)に至るまで、約700年間に

わたり、武士階級は日本社会の主導権を握っていた。こうして、平安時代の後半から、

武士が起こり、封建制がつくられた時代に、武士道が武士と共に形成していったのであ

る。武士道とは、字面からみると、武士として生きていく道の意味である。橋本実は「武

士道とは武士がその実践生活を通して涵養したところの規範的な精神、を意味するもの
133
である」 と定義した。また広辞苑によると、武士道は「わが国の武士階層に発達した

道徳。鎌倉時代から発達し、江戸時代に儒教思想に裏づけられて大成、封建支配体制の

」134と説明されている。つまり、武士階級に生まれた武士の言動
観念的支柱をなした。

に対する規範や道徳である。

では、武士道という言葉は、いつ頃から現れていたのであろうか。最初に、武士が出

たとき、武士道という言葉はなかった。日本の中世では、武士の精神や行為規範につい

て、それが「兵の道」、
「弓矢の道」
、「弓矢取る身の習い」と呼ばれていた。これらの言

葉からみると、当時の武士には、騎馬、弓射の術が重視されていたことが一目瞭然であ
                                                       
133
  橋本実『武士道史要』(大日本教化図書、1943)p.4 
134
  新村出編『広辞苑第四版』(岩波書店、1991)p.2239 

68 
 
 

ろう。武士にとって、戦場に勝つことが目的である。武力で敵を圧倒して、自身の勢力

を拡大するため、弓矢など強力な武器を使いこなせなけばならない。

古川哲史の考察によると、武士道の語が使われはじめたのは、約戦国時代後半ないし

末期ごろのことである135。武士道という言葉の初期の用法が『甲陽軍鑑』136に見える。

この本は武田流兵学の聖典として知られたものである。中には、
「武士道」の語が30

回以上も頻出した137。『甲陽軍鑑』において、武士道という意味は「戦場における勇猛

果敢な振る舞い、槍働きの巧妙、卑怯未練なことなく出処進退を見事に貫くこと、そし

て主君に対する忠誠」138である。つまり、戦場における武士の技量が重視され、勇まし

い行動が求めていたのである。武士の生きる道は、戦場に勝ち抜き、生き抜いていくた

め、自分は勝負に強い者にならなくてはならないのである。そのため、本来の武士道は、

戦国時代までの、生きるか死ぬかの戦場に、実際に戦闘が行われていた時代に培われた

ものである。

しかし、戦国の乱世が幕を閉じ、天下泰平の江戸時代に入ると、武士道は大きく変化

することになった。もともと武士は戦場で戦う者であったが、江戸時代になると、戦う

戦場が失われるようになった。そのため常に戦闘と死に直面してきた武士は、平穏無事

な生活を暮らすようになると、それに伴って守るべき倫理や行動規範の変化も余儀なく

された。江戸時代の社会では、武士と百姓、町人(商人と職人)が、それぞれの職能に

よって区分された身分制があった。支配者たる武士は常に政治的な為政者、精神的な指

導者の立場に立った者である。徳川時代のいわゆる太平の世に、武士に求めれたものは、

為政者として文武両道の鍛錬と徹底的にその社会的責務を果たすべきことである。武士

は「その戦闘者としての性格は保持しつつも、同時に領国統治に関わる行財政分野を司

                                                       
135
  古川哲史『武士道の思想とその周辺』
(福村書店、1957)p.6-9参照 
136
  『甲陽軍艦』は江戸初期に集成された軍書である。作者は諸説あるが,武田家の家臣高坂弾
正昌信の遺稿を基に春日惣二郎・小幡下野が書き継ぎ,小幡景憲が編集したものとみられる。
137
  笠谷和比古『武士道の精神史』
(精興社、2017)p.69参照 
138
  前掲書 p. 69 

69 
 
 

る行政官、役人としての性格をあわせ持つようになっていく。」139のである。さらに、

江戸時代に儒教的な概念体系を駆使して、為政者としての武士のあるべきようが説かれ

た。こうして、武士道はそのような状況に相応して、戦国時代と様相を異にする近世の

武士道が成立するに至った。相良亨は近世の武士道について、以下のように述べている。

支配者的為政者的徳性を重んずる思想は、徳川時代に入ると、修身・斉家・治国・

平天下を説く儒教と結びつき、父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の五倫における人

倫の道の自覚を根本とし、さらにこの人倫の道を天下に実現することを武士の職

分とする思想に結晶していった。この傾向の思想にが一般に士道と呼ばれ、この

士道が公には近世の武士の思想を主導することになった。これにに対して、近世

の太平な時代になっても依然として献身のいさぎよさを重んずる伝統を中核とし

てうけ継いだものがあり、これが多くの場合、武士道とよばれることになった。

士道が人倫の道を根本とするのに対して、武士道は死のいさぎよさ、死の覚悟を

根本とするものであった。140

以上述べたように、同氏は近世の武士の思想を、二つの流れに分けた。一つは儒教的

な自己修養の教えを示した士道である。もう一つは主君への絶対的忠誠と死の覚悟を強

調した武士道である。

明治維新の四民平等政策によって、武士階級がなくなった。武士のない時代に、武士

道も過去のものとなって、存在しなくなるはずである。しかし、明治中期以降に、新た

な武士道ブームが起こった。武士道という言葉を引用して、自分の思想は武士道である

と唱える者たちが絶え間なく現れてくる141。菅野覚明によると、それを「明治武士道」

                                                       
139
  笠谷和比古『武士道 侍社会の文化と論理』(NTT 出版、2014)p.111 
140
  相良亨『武士の倫理・近世から近代へ』(ぺりかん社、1993)p.297-298 
141
  菅野覚明『武士道の逆襲』(講談社、2004)p.232参照 

70 
 
 

「武士道の復興を唱える思想である」142と指摘している。明治政府は近代的
と呼んで、

な統一国家を新たに作り出すために、国家を支える国民道徳が必要であると考えた。日

本は当時日清戦争、日露戦争を勝ち抜いたことで、欧米列強から初めて、列強の一つと

認められた。また西洋諸国に対抗するため、日本人の精神的基盤は日本固有のものに求

められざるをえなかった。こうして、武士道が鼓吹されることになった。したがって、

明治武士道には、国家主義と結び付いたと特徴付けられる。また明治武士道から、忠義

という観念の変容も見られる。明治以前の武士道には、武士にとって、忠義とは自己の

主君に対して捧げるものであった。ところが、明治時代以降に、忠義はただ独り天皇に

対してのみ果たされるべきことだとされてしまう。こうして明治武士道は国民を統制す

る手段で利用されて、天皇への唯一無二の忠誠を唱えるものとなったのである。

武士道という言葉は1898年に新渡戸稲造が著した『武士道』によって、世に広く

知られている。もともとこの本は西洋向けに英語で書かれたものである。新渡戸は日本

社会に浸透している儒教的や神道的考え方に基づいたモラルや慣習を論説し、西欧の哲

学と対比しながら、日本人の心のよりどころを世界に向けて解説した。例えば、礼儀正

しく、寛容で、慈悲の心に富み、名誉を重んじ、自制心が強いというような徳目が日本

の伝統的な所産であるとした。しかし、その内容は武士道というよりも、むしろ新渡戸

自身が構築した日本人の普遍的な道徳といったほうがより適切だと言っても過言では

ない。新渡戸は当時、
「武士道」が自分の造語だとさえ考えていたのである。現在私た

ちが知っている武士道という概念は明冶時代にまとめられた日本近代的な思想内容で

ある。

以上述べたように、時代によって、武士道の意味は違っている。それにもかかわらず、

どの時代でも、武士道の価値観といえば、死に対する覚悟がすぐに思い浮かぶ。
『葉隠』

                                                       
142
  菅野覚明『武士道の逆襲』(講談社、2004)p.233 

71 
 
 

のなかで、最も有名な「武士道と云は、死ぬ事と見付けたり」143という言葉が武士の死

に対する心構えと言える。また大道寺友山の『武道初心集』には、常に死を心に留め置

くことの重要性を以下のように説いている。

武士たらむものは、正月元日の朝、雑煮の餅を祝ふとて、箸を取初るより、其年

の大晦日の夕べに至るまで、日々夜々死を常に心にあつるを以て、本意の第一と

仕り候。144

これは一年中、常に死を覚悟して過ごすという教えである。一見すれば、武士が死亡

が望ましいと思われるが、実際はそうではない。生が死と隣あわせであるというのは、

武士に限らず、あらゆる人間にとって、逃れないことである。ただ武士が一般の人と異

なる点は、生きていることを自覚的死によって縁取ろうとする心構えにある。丸山真男

は武士の死の覚悟について、以下のように述べている。

それは単純な死の覚悟という生やさしいものでもなく、また往々誤解されるよう

な、自然的・事実的な「討死」
「切腹」の礼讃でもない。なによりそれは、最悪事

態の日常的予想(覚悟)のうえに、かえって日常的な事態における不断に積極的な

前進への心構えができ、また、かえって余裕のある自由な決断ができるという逆

説<パラドックス>である。そして、<日常>行動の形式化、ルーティン化を防

止するため、毎日の一刻一刻の非常事態における決断の連続としてとらえる、と

うことでもある。145

また同氏は「死をのがれ生を欲するのは万人の自然の感情であり、自然の心理的傾向

                                                       
143
  斎木一馬・岡山泰四・相良亨校注『三河物語 葉隠』(岩波書店、1983)p.220 
144
  古川哲史校訂『武道初心集』(岩波書店、1987)p.161 
145
  丸山真男『丸山真男講義録第五冊』(東京大学出版会、1999)p.220 

72 
 
 

性である。」146という。それによって、武士は死に対して、
「非日常的極限状況を日常的

想像し設定して、その極限状況におけるモラルを平時のもっとも日常的な行動のなかに

生きて働く目標」147とする。武士にとって、いざという時、どう対応すべきか。
『葉隠』

には、「二つ二つの場にて、早く死方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわって進む

也。図に当たらず、犬死などいふ事は、上方風の打上たる武道なるべし。」148と述べて

いる。生か死か迷う時には、死の道を選んだほうがいい。目的を達成せずに死んだら、

それでは犬死にだ、などと考えることは都会風のうわついた武士道であるという。これ

に対して、相良亨が以下のように論述している。

その死への決断によって、武士としてもっともかけがえなく貴重なものを確保し

うるのが死ぬ事と身付けたりなのである。武士にとって、もっともかけがえなく

貴重なものとは、死にいさぎよくあるということである。臆病でないということ

である。だから、死ぬこと自体によって、このもっとも貴重なものは確保される。

「恥にはならず」である。149

つまり、武士にとって、恥となることをいかに避けるかが大事なことである。極限状

況に直面したとき、死ぬ可能性の高い方を選べば、恥にはならないのである。

また武士の覚悟について、相良亨は以下のように述べている。

覚悟を「死の覚悟」に限定して考えると、死を覚悟するということは、死におい

て自己が無になるという事実から目をそむけることなく、しかもその死をおそれ

ず毅然と事に処し、あるいは敢然と死地に突入すべく心にきめることである。あ

らかじめ心に定めるところがあって死に直面してもなお毅然たる態度をとりうる
                                                       
146
  丸山真男『丸山真男講義録第五冊』(東京大学出版会、1999)p.230 
147
  前掲書 p.229 
148
  斉木一馬・岡山泰四・相良亨校注『三河物語 葉隠』(岩波書店、1983)p.220 
149
  相良亨『武士の倫理・近世から近代へ』(ぺりかん社、1993)p.105-106 

73 
 
 

武士、あるいは事に臨んで敢然と死に突入しうる武士が死の覚悟ある武士であり、

かかる生き方を可能ならしめるかねての心の姿勢が覚悟なのである。覚悟は事態

に直面した時の決断ではなく、本来あくまでも「かねての覚悟」であり、
「あらか

じめ」なさるべきものであった。覚悟があらかじめ、かねてなされるが故に、死

の事態が突如として眼前に現れても「覚悟の前」として「うろたえる」ことがな

いのである。ところで、覚悟がこのように「かねて」のものであることを改めて

認識すると、覚悟をきめた時点において、その武士の日々の生活は依然従来と変

わるところがないことが問題となる。いざという時、うろたえることなくこの生

活と訣別し自己をも無にする心にきめながらも、なおその時までの日々の生活に

は、妻子との団欒があり、酒があり、書画のたのしみがある。150

ここからみると、武士の死の覚悟はいままでの日々の生活を否定するのではなく、逆

にそれを肯定するのである。また、死の覚悟は万一の時に決断するのではなく、日々重

ねた修行の結果にほかならない。また同氏は「覚悟ある武士にも、死は出来うればさけ

たものである。死はかなしいものである。だが、彼には生命よりも価値高いものがある。

覚悟ある武士とは、この価値の序列をはっきりと心にきめた武士、価値の序列をいかな

」151と力説している。
る時にもくずさぬように心を備えた武士である。

武士の「価値の序列」について、吉田松陰の具体的な事例を挙げてみよう。高杉晋作

は師である吉田松陰に「男らしい男として、どういう時に死んだらいいのでしょうか」

と聞いた。吉田松陰は以下のように回答した。

“死とは、好むものではない。また、憎むものでもない。正しく生ききれば、や

がて心が安らかな気分になる時がくる……、それこそが、死ぬべき時である”世の
                                                       
150
  相良亨『武士の倫理・近世から近代へ』(ぺりかん社、1993)p.110-111 
151
  相良亨『死生観・国学』
(ぺりかん社、1994)p.47 

74 
 
 

中では、たとえ生きていたところで、体だけが生きていて、心が死んでしまって

いる……という人がいます。その逆に、体は滅びても魂は生きてる……という人も

います。
(中略)死んで自分が“不滅の存在”になる見込みがあるのなら、いつで

も死ぬ道を選ぶべきです。また、生きて、自分が“国家の大業”をやりとげるこ

とができるという見込みがあるのなら、いつでも生きる道を選ぶべきです。152

死ぬほどの価値のある場面に直面するに当たって、いつでも死ぬべきである。生きて

いる限り、大きな仕事を成し遂げようと思うなら、いつでもいきるべき道を選ばねばな

らなぬのである。つまり、生死を度外視し、いま自分がやるべきことをやるという心構

えがなにより大切だと主張しているというのである。

武士道は日本の中世から明治まで、時代の変遷に伴って変わってきた。もともと戦場

における実戦に基づいた武士の思想であったが、それが江戸時代になると、儒教を基礎

とした士道と死の覚悟を強調した武士道という思想的な流れに分かれた。その後、明治

以降になって、武士が存在しない時代になったものの、武士道の再解釈再評価の風潮と

共に、それが日本の美しい精神文化の権化となったのである。以上を通して、時代別に

沿って見れば、武士道は異なる部分が多少あるものの、武士道はその精神は時代を超え

て日本人に、由緒正しく受け継がれていると言っても過言ではなかろう。

武士道といえば、直ちに死への覚悟が頭の中に浮びあがる。
『葉隠』に「武士道と云

は、死ぬ事と見付けたり」とある一句がよく知られている。これは、武士たちが死を積

極的に求めているように読み取られがちであるが、その本当の意味は、常に死を覚悟し

ていれば、逆に生を大事にするということである。言い換えれば、今日が人生の最後だ

と思って生きる中、自分がやるべきことを成し遂げるのである。
『葉隠』の「武士道と

云は、死ぬ事と見付けたり」の後ろには、
「毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て

                                                       
152
  松浦光修編訳『留魂録』
(PHP 研究所、2015)p.173-174 

75 
 
 

居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課すべき也。
」とある。それは死に

なることで自由の境地に到達し、職分を全うすることができるという意味なのである。

そのため、武士たちは常に死の覚悟を持って、生命より高い価値のものを心にきざみ、

その心構えを備えなければならない。

第三節 武士の死生観から見た美意識

「ラスト・サムライ」という映画には、桜の木の下で、武士勝元は「人も桜も、いつ

かは散る。吐息の一つ一つにも、茶の湯の一杯にも、一人の敵にも、命が宿っている。

それを忘れてはならない。それが武士道だ。」を語るシーンがある。新渡戸稲造も「武

士道はその表徴たる桜花と同じく」153と述べている。『葉隠』に「武士道と云は、死ぬ

事と見付けたり」154とあるように、武士は常に死を意識するのである。こうして、桜が

武士道、またその散華する際の美しさに繋がっているのである。

日本には、春になると、花見という行事がある。日本人にとって、春を象徴する花と

いえば、桜を思い浮かべる人は多いであろう。しかし、桜が花見の花として観賞された

のは平安時代以後のことである。花見の歴史は奈良時代頃から始まったと言われている。

当時花見で楽しむ花は、中国から伝わった梅である。
『万葉集』には、梅に関する歌百

十首が桜の歌四十三首よりもまさってよく詠じられた。でも平安時代の『古今和歌集』

に、梅の歌十七首に対し桜の歌は四十首となって、桜が優位に立つようになった。この

ようにして、平安時代に花は桜、その桜の花見こそ花見というようになったのである。

桜の名前の語源について諸説があるが、もっとも知られて、一般に流布しているのは、

「サ・クラ」という説である。西山松之助は以下のように述べている。

                                                       
153
  新渡戸稲造『新渡戸稲造全集 第一巻』(教文館、2001)p.29 
154
  斎木一馬・岡山泰四・相良亨校注『三河物語 葉隠』(岩波書店、1983)p.220 

76 
 
 

『日本書紀』を読むと、
「香妙し花橘、花妙し桜」というようにあって、
「はなぐ

はし」は桜の枕言葉であるように、早くから日本人にとって、はなは「さくら」

と感じられてきたのである。その「さくら」という言葉そのものが田の神を象徴

しているということになっている。つまり、
「さ」は田の神、
「くら」はその神が

やってきて、そこへ憑いたところ、それが「さくら」だというのである。155

田の神が春になると、稲作を守護するために、桜に宿り、田に下ってきて田植えが終

わるまで滞在していたといわれている。こうして、桜が咲くということは、田の神が訪

ねてきたことの象徴となった。和歌森太郎も桜の語源について、次のように述べている。

民俗学では、サツキ(五月)のサ、サナエ(早苗)のサ、サオトメ(早乙女)の

サはすべて稲田の神霊を指すと解かされている。田植えじまいに行う行事が、サ

アガリ、サノボリ、訛ってサナブリといわれるのも、田の神が田から山にあがり

昇天する祭りとしての行事だからと考えられる。田植えは、農事である以上に、

サの神の祭りを中心にした神事なのであった。そうした、田植え月である五月に

きわだってあらわれるサという言葉がサクラのサと通じるのではないかとも思う。

クラとは、古語で、神霊が依り鎮まる座を意味したくらであろう。イワクラ(磐

座)やタカミクラ(高御座)などの例がある。秋田県下著しい子供の行事のカマ

クラも神クラの変訛である。あの雪室そのものが、水神などの座とされてきたの

である。こうした、サとクラとの原義から思うと、桜は、農民にとって、いや古

代の日本人のすべてにとって、もともとは稲穀の神霊の依る花とされたのかもし

れない。156

以上の内容から、桜の語源について、西山松之助と和歌森太郎、両者とも「サ・クラ」

                                                       
155
  西山松之助『花と日本文化』(吉川弘文館、1985)p.20-21 
156
  和歌森太郎『花と日本人』(角川書店、1982)p.176 

77 
 
 

という説を主張している。サは穀霊であり、クラは神が依りつく場所を意味する。こう

して、稲作耕作をする日本人にとって、桜は春の到来を宣言し、また農業を始める指標

となるようになったのである。

桜は春の象徴であれば、花の代名詞でもある。和歌や俳句など文学作品によく登場す

る。平安時代の歌人在原業平は次のような歌を詠んでいる。

世中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし157。 春上・53

世の中に、桜というものがなかったら、春をのんびりとした気持ちで過ごせるだろう

かと詠んだのである。また川端康成の『古都』には「西の回廊の入り口に立つと、紅し

だれ桜たちの花むらが、たちまち、人を春にする。」158と書いてある。こうして、桜は

日本人にとって、新春の訪れを告げる花なのである。桜は昔も今も日本人の心を捉えた

のがその鮮やかに咲き乱れた姿だけではなく、桜の美しく散る様子もその原因の一つで

ある。以下は桜の花が散る姿を詠んだ歌である。

久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ159。 春下・84

上の句の穏やかな春の陽射しと下の句の慌しく散っていく桜を静と動として対比さ

せている。花が散るのを愛惜する心が存分に表れている。このように、桜は古くから様々

な和歌や文学作品に詠まれてきたのである。

平泉澄は「日本人の最も愛し來つた花は櫻である。古くは單に「木の花」といつて、

それで直ちに櫻の花をさしたこと」160と述べている。ドイツ哲学者ケーベルは桜を愛す

る日本人について以下のように述べている。

                                                       
157
  小島憲之・新井栄蔵校注『古今和歌集』(岩波書店、1989)p.33 
158
  川端康成『古都』
(新潮社、2019)p.15 
159
  小島憲之・新井栄蔵校注『古今和歌集』(岩波書店、1989)p.42 
160
  半田信編集『武士道の神髄』(帝国書籍協会、1941)p.87 

78 
 
 

桜の花の頃こそ日本人を観察すべき時である。これその牧歌的哀歌的なる天性の

最も明らかに現れる季節だからである。日本の国民的花は、堅い、硬ばった、魂

なき、萎むを知らざる菊ではない。絹のように柔らかなる、華奢なる、芳香馥郁

たる短命なる桜花こそ実にその象徴である。日本人はこの美しき花の束の間に萎

みそうして散りゆくその中に、わが生の無常迅速の譬喩と、わが美と青春との果

敢なきを見るのである。桜の花を眺めているとき、春のただ中に秋の気分が彼の

胸に忍び入る。161

ここからみれば、桜は日本の国花だとみなされている。日本人は桜に心惹かれている

が、あっという間に散ってしまう桜は日本人にとって、人生が無常だという象徴でもあ

「世は定めなきこそいみじけれ」162とあるように、この世は無常であり、変化する
る。

からこそ趣深いのである。本論文の第一章第一節に述べたように、日本は昔から自然災

害が頻発する国である。火山、地震、津波、台風などの災害が絶えなく日本を襲う。日

本人は自然の美に感動していたが、自然に美が瞬く間にはかなく消えゆく様子をも見て

きた。自然の変化から、日本人は人生とははかないものであることを悟り、無常観を胸

に刻んできたのである。春に咲く桜は世間万物の命の蘇るシンプルであれば、散ってし

まう桜は死のイメージである。桜は生を、舞い落ちた桜は死を象徴すれば、桜の美は桜

の花びらが舞うその一瞬にある。

死に関する日本神話について、
『古事記』と『日本書紀』にこのような内容がある。

高天原から降臨したホノニニギは、笠沙の岬で美人に出会う。それが大山津見神の女、

神阿多都比売、一名コノハナノサクヤビメであり、父神は姉のイハナガヒメとともにホ

ノニニギに献上した。しかしホノニニギはイハナガヒメが醜かったので親元に返し、コ

                                                       
161
  E・ベルツ代表著者『ベルツ モース モラエス ケーベル ウォシュバン集』
(筑摩書房、
1984)p.290 
162
  木藤才蔵校注『徒然草』(新潮社、2002)p.27 

79 
 
 

ノハナノサクヤビメのみを留めて、一夜婚をした。父神は姉が返されたことを大いに恥

じ、
「わか女を一緒に奉ったのは、イハナガヒメをお使いになるならば、天神御子の命

は雪が降り風が吹いても恒に石のごとく不動でいるだろう。またコノハナノサクヤビメ

を使うならば、木の花が栄えるように咲き乱れるだろうと、ウケヒをして奉った。この

ようにイハナガヒメを返されて、コノハナノサクヤビメのみを留めたので、天神御子の

御寿は、木の花のようにはかなきものであろう」と申し上げた。こういうわけで、それ

以来歴代天皇の寿命が長久ではないのである。これは『古事記』の話であるが、
『日本

書紀』では、天皇の寿命の短いことではなく、人間全体の死の起源を説明する話である。

この神話からみれば、
「日本人と神話の時代から長命より、短命でもはかなくても美し

いものを求めてきたようである」163ということが分かる。

日本神話の中では美しい女神として登場する、コノハナノサクヤビメという名の「木

花」というのは日本を代表する桜の花を象徴しており、桜が美しく咲くというのは物事

の繁栄を象徴するものである。しかし、桜の花は満開になれば、やがて散ってしまうよ

うに、この神は美しさと同時に、花の命のはかなさも象徴し、人間の寿命に限りがある

ことを表す女神でもある。日本人は、移ろいやすくはかない桜にこの女神の姿を見てき

たのである。

日本語に「花は桜木、人は武士」ということわざがある。花の中でも桜がもっとも優

れており、人の中で武士が第一だという意味である。これは日本人の伝統的な価値観を

示している。日本人が桜を好むことは、人間のはかない命が桜のように、満開の後、一

瞬に散ってしまうからである。このように、桜の散り方は武士の生き様と似ているとさ

れた。桜と武士の関連について、
「咲くときに思い切り華やかに咲き、未練たらしくな

く、散るときにはいさぎよく散るのを理想とした武士の気質に通じる花として、桜をた

                                                       
  清水徳蔵「日中の死生観比較考―異文化への日中の対応比較(3)」
163
『アジア研究所紀要 1
7巻』 (亜細亜大学アジア研究所、1990)p.4 
 

80 
 
 

たえても来たのである」164と和歌森太郎が指摘している。平泉澄もほぼ同様な趣旨を以

下のように述べている。

日本人は、桜の花を見て、その忽ちにして散るを思ふのである。その風に散る散

り際の美しさを思ふのである。そして人も亦かくの如く美しく咲いて美しく散り

ゆかむ事を希望するのである。美しく咲く事の心にまかせぬとしても、せめては

美しく散らむ事を冀ふのである。どうせ散る命ではないか、惜しんでも百年の寿

命は保たれないとすれば、死して悔ゆるところなき武士の精神につながる。165

以上の内容からみれば、日本人は桜の咲き方と散り方に共感を抱いているのである。

桜はこのようにぱっと咲いてぱっと散るという潔さで、いつも死ぬことを覚悟する武士

にとって、理想的な美をただよわせるものである。

佐藤太平は武士と桜の由縁関係について、以下のように述べている。

古来武士は桜を愛してゐたことも、桜と一脈相通ずる処あつたからかも知れない。

武士は気節を重んじ、義の為めに勇み、名を千載に残すことを生命としてゐるの

であるから、唯だ恋々生に執着し、浮世の快を貪つて満足するものでない。義の

為には生命を鴻毛の軽さに比し、君恩の為には毫も死を顧みなかつた。是等武士

道の其精神の内容を為してゐるもので、南朝の烈士でも赤穂の義士でも、何づれ

も皆な斯う云ふ処に悲愴な記録を残してゐる。そして武士は親より受けてきた其

の尊い生命を、畳の上で無為病死するを以てむしろ恥辱としてゐたのである。166

つまり、武士にとって、人生の理想は自然に老いとなってゆっくり消えるのではなく、

人間の体力の最高潮において、悲壮的な死に方をすることだったからである。武士は君

                                                       
164
  和歌森太郎『和歌森太郎著作集 第8巻』(弘文堂、1981)p.137 
165
  半田信編集『武士道の神髄』(帝国書籍協会、1941)p.89-90 
166
  佐藤太平『桜と日本民族』(大空社、1997)p.148-149 

81 
 
 

主に忠誠を尽くすため、すべてを犠牲にしても構わない。そして勇敢な武士に最高の名

誉が与えられ、いざという時に戦死の覚悟を望まれていた。故に戦場に敵と戦って、討

ち死にすることを理想的な死に方と考えていたのである。

新渡戸稲造は「武 士 道 は そ の 表 徴 た る 桜 花 と 同 じ く 、日 本 の 土 地 に 固 有 の 花

で あ る 」 167と 述 べ た 。桜 は 武 士 道 の 象 徴 で あ る 。 武士は戦場に戦う者である。武

士が死を覚悟して戦場に臨むとき、最後までその行動を美的に意識している。討ち死に

は最高に美しい死に方である。武士と桜とは、死の考えにおいて、ひそかに繋がってい

るように思われる。花が散る散華の美学、すなわち滅びの美学というものを見据えてい

る。このように桜と武士と死には密接な関連があり、互いに強く影響しあった結果に、

武士の行動美学の根本は散華の美学、滅びの美学といえる168。いつでも自らの命を捨て

る心構えをして、自分の責任を果たすことが武士にとって重要である。これが武士の死

の自覚である。武士の覚悟は即ち死の覚悟である。このような死についての心構えと意

識は武士の道徳原則として、日本の民族精神における重要な特徴であると認められる。

新渡戸稲造によると、武士道の根源は仏教、神道、儒教にある169。仏教で武士に大き

な影響を与えたのは禅宗である。鈴木大拙は日本の仏教各宗の特色について、
「天台は

宮家、真言は公卿、禅は武家、浄土は平民」170と述べている。また禅が武家の宗教の理

由に「禅では究極の信仰に到着するために、最も直接方法をえらんだほかに、これを遂

行するに異常な意力を要求する宗教である。そして、意力は武人のぜひとも必要とすと

ころのものである」171として説明している。

生死は誰も避けられない問題である。特に戦場に戦って、いつか命を失う武士は常に

死の覚悟を持たなければならない。それゆえ、武士は仏教の教えから、死の覚悟という

                                                       
167
  新渡戸稲造『新渡戸稲造全集 第一巻』(教文館、2001)p.29 
168
  北影雄幸『桜と武士道』
(勉誠出版、2012)p.1186-89参照 
169
  新渡戸稲造『新渡戸稲造全集 第一巻』(教文館、2001)、p.32-38参照 
170
  鈴木大拙著、北川桃雄訳『禅と日本文化』(岩波書店、1984)p.38
171
  同前書 

82 
 
 

精神的な支えを見いだしたのである。仏教には「生死一如」という考えがある。生きる

ことと死ぬことは、紙の表と裏のように切り離せない関係にあるという考えである。ま

た日本の曹洞宗の開祖たる道元禅師は生死の悟りについて、次のように書いている。

諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。その透脱といふは、あ

るいは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。このゆゑに、出生死あり、入生

死あり。ともに究尽の大道なり。現成これ生なり、生これ現成なり。その現成の

とき、生の全現成にあらずといふことなし、死の全現成にあらずといふことなし。

172

つまり、生死の意識を捨てて、無心になって、生死に向かえば、生死一如の境地に入

れるというのである。禅宗が日本に入ってから、この「生死一如」の思想が日本社会の

独特な死生観となった。特に武士精神の形成に大きな影響を与えた。

道元禅師にはまた以下のような教えもある。

生より死にうつると心うるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、

すでにさきあり、のちあり。かるがゆゑに、仏法の中には、生すなはち不生とい

ふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて、滅すな

はち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅

のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらばたゞこれ生、滅きたらばこれ滅に

むかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ。173

というと、生というとき、生のほかに何ものもなく、死というとき、死のほかに何も

のもない。したがって、生の瞬間は全力で生き抜いて、死のときは恐れずに死に向かう。

このように、武士もこの思想を受容して、武士の覚悟の精神を高めてきたのである。
                                                       
172
  水野弥穂子校注『正法眼蔵(二)』
(岩波書店、1990)p.82 
173
  水野弥穂子校注『正法眼蔵(四)』
(岩波書店、1993)p.467 

83 
 
 

禅と武士の間に密接な関係が生じた理由について、鈴木大拙は以下のように論述して

いる。

禅は道徳的および哲学的二つの方面から彼らを支援した。道徳的というのは、禅

は、一たびその進路を決定した以上は、振返らぬことを教える宗教だからで、哲

学的というのは生と死とを無差別的に取扱うからである。
(中略)つぎに、禅の修

業は単純・直裁・自恃・克己的であり、この戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致

する。
(中略)もし戦闘者の心に知的な疑惑が少しでも浮んだならば、それは彼の

進行に大きな妨げとなる。
(中略)第三に、禅と日本の武門階級と歴史的つながり

がある。
(中略)禅は十三世紀以来、足利時代を通し、徳川時代においてさえ、日

本人の一般文化的生活に種々な影響をおよぼしえた。174

ここから分かるように、禅の教えと修行は武士の気風に合ったため、武士は禅と結び

付いてくるということになった。また幕府の統治者の支持によって、禅はだんだん武士

階級に浸透していったのである。 

武士の場合に、絶えず死に直面していなければならない。いつでも命を捨てる覚悟が

なければならない。日常生活に生死を越えたところが要求される。つまり、死生脱落の

境界まで、自己超越をしなければならないのである。それによって、武士は死の問題に

日常的にぶつかって、禅に近づいたのでる。

鈴木大拙はまた、武士の死の心構えについて、以下のように述べいる。

「潔く死ぬ」ということは、日本人の心に最も親しい思想の一つである。(中略)

風にふかれる桜のように散り逝くことを欲する。たしかに日本人のこの死に対す

る態度は禅の教えと一致したに違いない。
(中略)禅を深く吸込んでいる武士の精

神はその哲学をまた庶民の間にまで広げた。庶民は自分たちがとくに武士の仕方
                                                       
174
  鈴木大拙著、北川桃雄訳『禅と日本文化』(岩波書店、1984)p.35-37

84 
 
 

で鍛錬されていないときでもその精神を吸込んでいて正しいと考えるいかなる理

由のためにも、自分の命を犠牲にする覚悟をしている。これは従来、日本がなに

かの理由で飛込まねばならなかった諸戦争で、しばしば証明せられてきたことで

ある。日本の仏教に関して書いている外国の一記者は、禅は日本的性格だと適切

な言を吐いている。175

以上の内容から、禅宗は武士の死生観に深い影響を与えたことが分かる。さらに、そ

れが庶民の心にも深く浸透されている。日本人は、桜が潔く散るように、武士も潔く散

るのが美しいと考えているのである。

日本人は桜を愛している。平安時代以降、花見の観賞の花は梅から桜に変わった。そ

の後、桜に関する和歌は増えていった。平安末期の西行法師は桜の歌人として有名であ

る。
「願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」176という一首

が有名である。西行は自分の死ぬ瞬間には花と月さえあればいい。つまり桜の木の下に

死にたいと願う。今でもポピュラー音楽にも、桜をタイトルにしたもの多くある。そこ

から、日本人の桜への愛着を窺い知ることができる。日本人にとって、桜の美しさは、

栄枯の幅の短さに感じられるところにある。咲いてすぐに散る桜は、武士の生き方の象

「武 士 道 は そ の 表 徴 た る 桜 花 と 同 じ く 」 177と 新渡戸稲造が言 っ た よ
徴とされた。

う に 、主君のためには、いつでも身を捨てるのが武士道であり、桜の潔く散るさまは、

その象徴だと見なされた。つまり、満開の桜の花が一気に散っていくように、武士は生

の時に、一瞬一瞬に全力を尽くして生き、死の時に、生への執着を躊躇なく捨てること

が良しとしたのである。

                                                       
175
  鈴木大拙著、北川桃雄訳『禅と日本文化』(岩波書店、1984)p.60-61
176
  後藤重郎校注『山家集』
(新潮社、1982)p.29
177
  新渡戸稲造『新渡戸稲造全集 第一巻』(教文館、2001)p.29 

85 
 
 

結語

日本の歴史において、平安初期を境にして、その以前は天皇の時代、その後貴族の時

代であった。そして中世になると、歴史の担い手が変わって、武士の時代となった。日

本の中世から近世末期にかけて、約700年に亘って、武士階級が社会を支配していた。

武士の起源には、一つは在地領主から発展してきて、当時の荘園制度と深く関わってお

り、平安時代の荘園の変容と共に、武士も徐々に発展してきたことにある。またもう一

つの起源は、初期の武士は、武力で朝廷に仕えていた武官や、公家に仕え、警固を担当

する者だったという説である。

平安時代末期には、平将門と藤原純友によって引き起こされた「承平天慶の乱」も、

地方武士の力を借りて、ようやく鎮圧されたのである。その後、武士たちは地方や中央

に自分の勢力を拡大していった。朝廷も地方武士の力に積極的に頼るようになってきた。

それをきっかけとして、武士たちは源平両氏をはじめ、大きな武士団を形成した。院政

時代に、源平両氏は保元の乱、平治の乱に政争に介入した。この二つの乱を通して、武

家は公家に代わって、政治の舞台に登場したのである。

その後、源平合戦で、源氏は勝利を収め、武家の筆頭となった源頼朝は鎌倉幕府を開

いたのである。次は室町幕府、江戸幕府の成立で、武士階級は日本の歴史上に政治の実

権を持ってきたのである。この間、武士階級の発生とともに、武士への心構えとその行

動を規定する武士道も成立した。日本の中世には、武士の習うべき、守るべき道が「兵

の道」、
「弓矢の道」
、「弓矢取る身の習い」といわれていた。この時代の武士は戦闘者で

あり、戦場に敵を敗れるため、強い武力を身につけなければならないのである。戦いの

ない平穏な江戸時代になって、武士が為政者となったため、文武と徳を重んじることが

要求された。こうして、近世に儒教を基礎とした士道と死の覚悟を強調した武士道とい

う思想的な流れに分かれた。その後、明治維新によって、武士階級が消えたが、武士道

の復興を唱える明治武士道が現れた。

86 
 
 

武士道とは、死の覚悟といえる。
『葉隠』のなかで、最も有名な「武士道と云は、死

ぬ事と見付けたり」178という言葉が武士の死に対する心構えを余すことなく現わしたも

のである。表には武士が死ぬべきことが説かれているように読み取れるが、その真意は

「毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく

」179の内容からみれば、それが死を覚悟して生きることの強調に
家職を仕課すべき也。

ほかならない。換言すれば、武士は毎日、改めて死を覚悟し、常に死身になって生きる

ことである。それによってはじめて生も死も超越した自由の境地に到達しうる。そして

その自由の境地を得たとき、何ものも恐れずに、自分の仕事を完遂することができると

いうのである。したがって、常に死の覚悟を持っている武士たちは生命よりも価値の高

いものを心にきざみ、その心構えを備えなければならない。

日本人は古くから桜を愛している。平安時代から、花見を鑑賞する花は桜である。そ

して和歌や俳句など文学作品によく詠まれたのである。日本人は桜に心惹かれている。

あっという間に散ってしまう桜は日本人にとって、人生が無常だという象徴である。春

に咲く桜は生のシンプルであれば、舞い落ちた桜は死のイメージである。このように満

開の後、一瞬に散ってしまう桜の散り方は武士の生き様と似ているとされたのである。

武士にとって、主君のために、戦場に敵と戦って、討ち死にすることは理想的な死に方

とされている。

こうして、桜と武士と死、この三者の間には密接な関連が見られる。これらは互いに

作用し合うことにより、武士の行動の根本ともいうべき散華の美学、滅びの美学が現れ

てくるのである。いつも死の覚悟を持って、自分の責任をはたすことが武士にとって重

要である。武士は死生脱落の境界まで、自己超越をしなければならないのである。それ

によって、武士は死の問題に日常的にぶつかって、禅と密接な関係が生じた。鈴木大拙

が言ったように、禅宗は武士の精神を支援した。武士にまっしぐらに進むことと死生如
                                                       
178
  斎木一馬・岡山泰四・相良亨校注『三河物語 葉隠』(岩波書店、1983)p.220 
179
  同前 

87 
 
 

一の心構えを教えた禅宗は武士の宗教と言っても過言ではあるまい。

新渡戸稲造が「武 士 道 は そ の 表 徴 た る 桜 花 と 同 じ く 、日 本 の 土 地 に 固 有 の 花

で あ る 」 180と 述 べ た よ う に 、桜 は 武 士 道 の 象 徴 と 見 な さ れ て い る 。満開の桜の

花が一気に散っていくように、武士は生の時に、一瞬一瞬に全力を尽くして生き、死の

時に、生への執着を躊躇なく捨てることが良しとされたのである。

                                                       
180
  新渡戸稲造『新渡戸稲造全集 第一巻』(教文館、2001)p.29 

88 
 
 

結論

本論文では、日本人の自然観、運命観、また武士の死生観に基づいて、日本人の美意

識を探究した。第一章では、日本の自然環境及び日本人の自然観をめぐって、日本人の

美意識を研究した。日本列島は地理、気候などによって、春夏秋冬がはっきりと移り変

わり、また豊富な自然を持っているが、同時に、地震、津波、台風、豪雪などにより、

予測できない自然災害も見舞われる。このような自然環境の中で、日本独特な風土が形

成される。それによって、そこで生活を営む日本人は四季の移ろいに敏感で、自然に対

する感受性の鋭い国民性が育まれた。またその独特な風土も日本独自の文化の形成に大

きな役割を果たしている。それゆえ、日本人の国民性、生活様式などに、自然の影響が

深いと言える。明治時代からの日本の風土論に関する書物により、自然環境が日本人の

国民性に対する影響が明らかにした。例えば、志賀重昂の『日本風景論』において、日

本の優れた自然環境が日本の民族の物事への美的感覚を育てる根源的な力であると述

べている。

風土を論ずる著書の中で、和辻哲郎の『風土』は有名な作品である。この本では、和

辻は日本の風土が二重性格―熱帯性と寒帯性の特性―を持っていると指摘している。ま

たここに生きる人々は受容的、忍従的な二重性格を持っている。和辻は「しめやかな激

情、戦闘的な恬淡」という言葉で、日本の国民的性格を説明している。これらの風土論

からみると、人間は自然に強く影響されるとともに、人間の側からも、自然に巨大な影

響を及ぼすのも否定できない。風土が形成されるには、人と自然との長い月日をかけた

営みが必要である。

緑豊かな自然の中で生きている日本人は自然を愛する民族である。日常生活にも日本

人は自然と季節の要素を取り込む。衣食住から文学、茶道などに至るまで、自然がどこ

にも見られる。ところが、自然は人々に恩恵を与えるとともに、時には人間に危害を及

89 
 
 

ぼす。そのため、日本人は自然を愛すると同時に、自然への畏敬の心もある。こうして、

日本人は自然を支配しようとするのではなく、自然共生の態度を取っているのである。

そして自然との調和融合を図っているのである。これは日本人の自然観の中核である。

農耕生活により、日本人は四季の移り変わりから、鋭い感受性と繊細な感情も培われ

る。日本人は自然を鑑賞することを通して、美しい感受性を培ってきた。また、四季の

変わりやすさに対して、悲嘆することもあった。日本の和歌、俳句に花鳥風月の自然美

を賛嘆することが数多く見受けられる。日本人の精神面の奥には、四季折々の自然変化

の美に触れ、感動にめぐりあう自然を共にする心情を見いだすことができる。こうして、

人間は自然物への同情、感動などの情緒を生み出しているうち、だんだん「もののあわ

れ」という美意識を形成した。
「もののあはれ」の美学は「諸行無常」という仏教の無

常観からも影響を受けた。
「諸行無常」はすべてのものは刻々と変化して、常住不変な

ものはない。日本人は自然の変化の中で、時の流れを感じて、自然の隆盛、凋落を感受

する。無常観が日本人の心に沁み込むにつれて、あわれの美意識は孕まれ、そこから「飛

花落葉」の文学が生まれ育ったのである。日本人にとって、自然の「花鳥風月」の賛嘆

があるが、その一方「飛花落葉」の慨嘆も見受けられる。咲いた花もやがて散り、青葉

も秋には枯れ落ちる。自然の姿から、諸行無常、盛者必衰ということを感じ取るのであ

る。

第二章には、日本人の忍耐心理、運命観から、日本人の美意識を研究した。外国に比

べて、日本は台風、地震、津波、火山噴火などの自然災害が発生しやすいところである。

このような日本列島で生活してきた日本人は古くから自然災害によって、全てのものを

一瞬に失った経験を持っている。それによって、日本人はこの世には、永遠な不変、安

定などといったことを信じない傾向がある。また、前述に述べたように、日本人は仏教

の諸行無常、万物流転などの説を受容して、無常観が日本人の精神生活の深部にまで浸

透している。それゆえ、日本人は常に自然災害に襲われても、落ち着いて前向きな姿勢

90 
 
 

を保っているのでる。それは2011年東日本大震災の時に、日本ではパニックや暴動、

略奪などがほとんど起きなかったことからも裏付けられる。

日本は自然環境によって、自然災害が多い国である。自然災害が多い日本列島で暮ら

している日本人には、災害に対して、彼らは秩序を失わずに、いつも冷静な態度で直面

し、忍耐力を持って、どのような不幸に遭っても、不満を言わずに粛々と対処する。そ

のような行動から、日本人の独特な淡泊な国民性が見られる。困難や不運に見舞われる

とき、日本人によって多用された言葉は「仕方がない」
「やむを得ない」などである。

しかし、日本人は不幸に直面するとき、何もしないまま、あきらめるしかないというこ

とではない。日本人は「運は天にあり」と信じている。でも彼らの天命主義は、完全に

努力しないことではなく、人事を尽くして天命を待つという心構えを持つということで

ある。こうして、日本人は普段から、何事も運命、宿命であると考えてあきらめの心構

えをを持っている。

日本では修養として、
「足るを知って分に安んずる」という言葉がある。望むところ、

欲するところが少なければ、満足も容易に得られるということである。また自分の置か

れている状況に満足するのは不満を持たないということである。さらに、日本人には「不

足主義」という独特な心理が見られる。それは、不十分さ、不満足さが、十分さ、満足

さよりも高い価値をもつと見る態度である。

兼好の「花はさかりに、月はくまなきをのみ、見るものかは」の不完全美に対して、

多くの日本人が共感を持っている。古くから、日本人は満月よりも三日月や欠けた月の

ほうが好きである。そこには、はかない美しさを見いだしたのである。こうして、日本

人にとって、月の最高の美しさは、輝く満月に求めるのではなく、雲の間に見え隠れす

る月には風情があるというのである。この美意識では、自然のまま歪みや、不均斉な形、

簡素なものに余情を感じ取れるのである。日本の茶道はこの不完全の美が一番表現でき

るものだといわれている。茶道には、不完全なものの中に美しさが宿るという考えがあ

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る。日本の茶道では不完全なもの、歪んだもの、傷のあるものに、美しさを見いだすと

ころがある。そこで求められる美は不完全な美とされる。不完全性による完全性を想像

し、期待する美意識を込めている。こうした日本文化の中で、そのような不完全さを受

け入れ、そこに美しさを感じる心を持っているのでる。

第三章では、武士の起源、武士道、また武士の死生観から見た日本人の美意識を述べ

た。日本の歴史に、平安初期までが天皇の時代、その後貴族の時代であった。そして中

世になると、歴史の担い手が移り変わって、武士の時代となった。武士の起源について、

一つは在地領主から発展してきたのである。それは当時の荘園制度と深い関係がある。

そして平安時代の荘園の変容と共に、武士も徐々に発展してきたのである。またもう一

つの起源は、初期の武士は、朝廷に仕えていた武官や、皇族に仕え、警固を担当する者

だったという説である。

平安時代末期には、平将門と藤原純友によって引き起こされた「承平天慶の乱」は、

地方武士の力を借りて、鎮圧された。この乱からみると、古代天皇制の衰退が明らかに

示された。また乱を鎮圧した勝者たちやその子孫はその後、地方や中央に自分の勢力を

拡大していった。そのきっかけに、武士たちは源平両氏をはじめ、大きな武士団を形成

した。そして院政時代に、源平両氏は保元の乱、平治の乱に政争に介入した。この二つ

の乱を通して、政治の実権は、貴族から大きく武士の手に移ったのである。

その後、源平合戦で、源氏は平氏を打ち破って、武門の棟梁としての源頼朝は鎌倉幕

府を開いたのである。鎌倉幕府以来、江戸幕府が終焉するまでの700年近く、武士は

武家政権を築いて、武家社会を広げていた。この間、武士階級の発生と共に、武士への

心組みと行動を規定する武士道も成立した。武士道とは、字面からみると、武士として

生きていく道の意味である。武士道は時代によって、違う意味を持っている。日本の中

世には、武士の精神や行為規範について、
「兵の道」、
「弓矢の道」
、「弓矢取る身の習い」

といわれていた。戦闘者としての武士は戦場に勝ち抜くため、強い武力を身につけなけ

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ればならないのである。天下泰平の江戸時代になって、武士が政治的な為政者、精神的

な指導者になるため、文武と徳を重んじることを要求された。こうして、近世に儒教を

基礎とした士道と死の覚悟を強調した武士道という思想的な流れに分かれた。明治時代

になって、武士階級が消えたが、武士道の復興を唱える明治武士道は現れた。明治武士

道は国家主義と結び付いて、国民統制に利用され、また天皇への忠誠を唱えるものであ

る。

武士道とは、死の覚悟といえる。
『葉隠』の「武士道と云は、死ぬ事と見付けたり」

という有名な言葉が武士の死に対する心構えである。一見すれば、武士が死ぬべきこと

を説いているが、「毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を

得、一生落度なく家職を仕課すべき也」の内容からみれば、それは死を覚悟して生きる

ことと説いてる。つまり、武士は毎日、改めて死を覚悟し、常に死身になって生きるこ

とである。それによって、生も死も超越した自由の境地に到達できる。そしてその自由

の境地を得たとき、何ものも恐れずに、自分の仕事を完遂することができるというので

ある。そのため、武士たちは常に死を覚悟して、生命より価値高いものを心にきめて、

その心構えを備えたのである。

日本人は昔から桜の美しさに魅力を感じている。平安時代から、花見を鑑賞する花は

梅から桜が中心となるのである。そして数えきれないほどの文学作品に、桜がよく詠ま

れたのである。桜はぱっと咲きほこり、さっと風とともに、地面に落ちる。桜は日本人

にとって、はかない人生を投影する対象となってきたのである。春に咲く桜は生命力の

象徴である。また舞い落ちた桜は死のイメージである。このように咲いてすぐ散る桜は、

生に執着せず、主君のために、命をささげる武士の生き方の象徴とされるのである。

はかない桜と武士と死には密接な関連が見られる。その三者は互いに影響により、武

士の行動美学の根本は散華の美学、滅びの美学といえる。いつも死を覚悟して、自分の

責任をはたすことが武士にとって重要である。武士の使命は戦場で戦うことである。武

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士は常に死が身近にある。それゆえ、武士は仏教の教えから、死の覚悟という心構えの

支えを見いだしたのである。それによって、武士は死の問題に日常的にぶつかって、禅

と密接な関係が生じた。鈴木大拙が言ったように、禅宗は武士の精神に武士を支援した。

まっすぐ進むことと死生如一の心構えを教えたのである。それゆえ、禅宗は武士の宗教

というのである。

「 花 は 桜 木 、 人 は 武 士 」 と い う 諺 が あ る 。 花の中では桜が一番だが、人の中で

は桜のように汚れなく、潔くすぐれている武士が第一である。桜の花の美しさが武士に

たとえている。また桜 も 武 士 道 の 象 徴 と 見 な さ れ る 。桜がぱっと咲いてぱっと散っ

ていくように、武士は生きるときに、力のすべてを出し切って精一杯生き、死ぬときに、

未練なく潔く討ち死することが理想としたのである。

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